うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析5(日本語にすると、多少の文法解説を添えて)

日本語にすると

多少の文法解説を添えながら日本語にしてみる。ただ、わたしのドイツ語力はかなり適当なので、以下の説明にはさまざまな誤りがあるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。

 

Mild und leise
wie er lächelt,
wie das Auge
hold er öffnet ---

最初の mild と leise は wie とコンビネーションになって、lächelt(動詞原形は lächelen、笑う)を修飾している。普通の語順なら、Wie mild and leise er lächelt の感嘆文というところだろうか。mild は 英語なら mild、 leise は 「わずかに」で、どちらも loud ではないという含みがあるようだ。「なんと穏やかに、静かに、彼は笑っていることか。」

次の2行もセンテンス構造は似ている。Wie hold er öffnet das Auge が普通の語順。hold は英語なら lovely や sweetly だろうか。öffnet の動詞原形は öffnen で「開く」。Auge は「目」。「なんと優し気に彼は目を開いていることか。」

 

seht ihr's Freunde?
Seht ihr's nicht?

Seht の動詞原形は sehen で「見る」。ihr は二人称複数。's は目的語の es(英語の it )の省略形で、これまでのところ(彼が穏やかに笑い、優しい視線でこちらを見ていること)を受けている。「それが見えるでしょう、友たちよ? それが見えないのですか?」

 

Immer lichter
wie er leuchtet,
stern-umstrahlet
hoch sich hebt?

最初の行は冒頭と同じセンテンス構造。leuchtet(leuchten)は「光り輝く」、lichter は 形容詞 licht (明るく)の比較級で、そこに、比較級を強調する immer(ますます)がついている。「なんとますます明るく彼は光り輝いていることか。」

umstrahlet の原形は umstrahlen で、独独辞書によれば、erleuchten(明かりで照らす)の意味。Stern は「星」。umstrahlet と過去分詞になっており、副詞的に使われている。「星に照らされて」。um- という接頭辞は「まわりに」というニュアンスがあるので、「星の光に包まれて」という感じだろうか。

sich heben という再帰動詞は、字義どおりには、「自分自身を持ち上げる」で、「体を起こす」という意味かとも思うが、hoch という副詞「高く」がついているし、「星」ということを考えると、「天に昇っていく」という意味のほうがイメージに近いだろうか。意味上の主語は当然 er であり、トリスタンを指す。「星の光に包まれて(彼は)高く昇っていっているでしょう?」

しかし、ここは、出だしと矛盾しているとも言える。最初の4行は、イゾルデの目にはトリスタンがまだ生きているように見えていることをわたしたちに告げているが、この2行は、トリスタンが昇天していくところをイゾルデが見ていることをほのめかす。つまり、この時点でイゾルデはすでに、トリスタンが死んでいることを無意識的には理解しており、それが意図せずして言葉に出てしまっているのではないか。

 

Seht ihr's nicht?

「あなたたちにはそれが見えないのですか?」

すぐ上で書いたとおり、イゾルデはトリスタンが生きていることを認めて欲しいのか、それとも、死んでいることを認めて欲しいのか。次の行からは、トリスタンの肉体がまだ息づいているようにイゾルデには見えているのではないかという気がする。

 

Wie das Herz ihm
mutig schwillt,
voll und hehr
im Busen ihm quillt?

Mut は「勇気」だから、その形容詞系の mutig は「勇気のある」「勇敢に」という意味。schwillt の動詞原形は schwellen で「ふくれる」。Herz は英語の heart と同じく、「心臓」でもあれば「心」でもある。ここは「なんと勇敢に彼の胸はふくらんでいることか」という感じだろうか。

voll は full、hehr は noble。形容詞を2つ並べるやり方が繰り返される。Busen は「胸」で、quillt の動詞原形は quellen、「わき出る」、「ふくれあがって飛び出る」の意味。動詞に呼応する主語は das Herz。schwellen と quellen はどちらも、容積的な増大のイメージで共通している。「一杯に気高く(心が)胸のなかであふれだしていないだろうか?」

 

Wie den Lippen,
wonnig mild,
süsser Atem
sanft entweht ---

Lippen は「唇 Lippe」の複数形で、den がついているので3格になる。つまり主語はこれではなく、süsser Atem のほうだ。Atem は「息」、süss は「甘い」。sanft は mild と似た意味で、英語なら soft。weht の動詞原形は wehen で blow。接頭辞 ent- は「から離れて」の意味がある。wonnig mild――wonnig は「愛らしい」、mild は「穏やかに」―― がどこにかかるのか、いまひとつ釈然としないが、Wie につながると考えていいのだろうか。「なんと愛らしく穏やかに、唇から、甘やかな息が柔らかくもれていることか。」 

 

Freunde! Seht!
Fühlt und seht ihr's nicht?

「友たちよ! 見てください! それが感じられないのですか、見えないのですか?」

まずは命令形で、次には疑問文で。そしてここまでは、「見る sehen」が中心だったのに、ここで「感じる fühlen」が入ってくる。次の行では「聞く hören」が加わる。最終的には、トリスタンの吐息を吸い込むというようなイメージが提示される。

その意味では、「愛の死」を、視覚的なものに始まり、聴覚的なものに焦点が移り、それらよりもずっと肉感的であるがゆえに官能的でもある触覚や口腔がクローズアップされていくとまとめることもできるだろう。

 

Höre ich nur
diese Weise,
die so wunder-
voll und leise,
Wonne klagend,
alles sagend,
mild versöhnend
aus ihm tönend,
in mich dringet,
auf sich schwinget,
hold erhallend
um mich klinget?

ここから12行にわたる1文となる。骨格になるのは、Höre ich nur diese Weise。「わたしだけがこの旋律を聞いているのだろうか」(hören は「聞く」、nur は英語なら only、Weise は「旋律」)。

そして、Weise に関係代名詞 の die がつき、「どのような」旋律なのかを説明していく。動詞 + endの現在分詞が4つ(Wonne klagend;alles sagend;mild versöhnend;aus ihm tönend)ぶら下がるので、込み入っているように見えるけれど、骨格になるのは in mich dringet と auf sich schwinget と um mich klinget の3つになる。

骨格になる部分を赤にしてみよう。

die so wunder-
voll und leise,
Wonne klagend,
alles sagend,
mild versöhnend
aus ihm tönend,
in mich dringet,
auf sich schwinget,
hold erhallend
um mich klinget?

旋律が、「わたしのなかに入り込み」(dringen は英語なら penetrate;mich は me;in は英語同様)、「彼のうえで揺れ動き」(schwinget の原形は schwingen で swing、「響く」という意味もあるようだ;auf は on)、「わたしのまわりで響いている」(klinget の原形は klingen で「響く」の意味だが、グラスや鐘のような硬質な響きを表すようであり、schwingen のほうは「バイブレーション」という感じでの「響く」だろう;um は around)。

つまり、ここでは、(ひとつうえのaus ihmと含めると、彼から)わたしから彼からわたしという往還がある。わたしのなかに入り込んでくる旋律は彼のなかでも揺れ動いており——わたしと彼は音の振動によって結ばれている——そのような音がわたしの周りをも充たしている。だから、もしかすると、往還というよりも、彼を中心とする音の波動がわたしにとどき、それが波紋のようにわたしの周りに広がっていく、というイメージでとらえたほうがいいかもしれない。

さて、では、ぶらさがっている4つの現在分詞を見てみよう。

die so wunder-
voll und leise,
Wonne klagend,
alles sagend,
mild versöhnend
aus ihm tönend,
in mich dringet,
auf sich schwinget,
hold erhallend
um mich klinget?

「わたしのなかに入り込む」旋律はどのようなものなのか。それはまず、so wundervoll und leise なものである。Wunder は英語なら wonder、つまり、「驚き」。「驚きに充ちた」「ワンダフルな」。leise は冒頭でも出てきたとおり、「静かに」(騒がしくなく)。「とても素晴らしい、静かな(旋律)」。

Wonne klagend。Wonne は「至上の喜び」。klagen は、「悲嘆の声を発する」「嘆く」ということなので、「至上の喜びを悲し気に訴えかける」というのは撞着的ではあるけれど、すでに述べたように、「愛の死」は理性的な一貫性とは別の論理にもとづく流れであり、そのなかでは、このような相反するものが一続きのものとして出現しうる。「至上の喜びを悲し気に訴えかける(旋律)」。

alles sagend。saying everything。「すべてを言う(旋律)」。

mild versöhnend。versöhnend は「調和させる」とか「和解させる」ということで、英語なら reconcile になるが、再帰動詞または他動詞として使うものであり、自動詞ではないようだ。だとすると、「何を」調和させるのかということになる。これはネットにある日本語訳(これこれ)を見ても判然としないし、手持ちの英訳仏訳を見てもよくわからないが、流れからすると、前の行の alles を目的語とするとしっくりくる気がする。mild は「愛の死」の出だしの言葉だ。「穏やかに(すべてを)調和させる(旋律)」

aus ihm tönend。Ton で「音」、その複数形が Töne。その動詞形が tönenというわけで、aus は from なので、「彼から響いてくる(旋律)」。

hold erhallend。erhallend は「朗々と響かせる」のような意味らしい。「穏やかに鳴り響く(旋律)」。

というわけで、すべてをまとめると

Höre ich nur わたしだけ聞いているのだろうか
diese Weise, この旋律を
die so wunder- とても素晴ら
voll und leise,  しく静かな(旋律を)
Wonne klagend, 至上の喜びを悲し気に訴えかける(旋律を)
alles sagend,   すべてを言う(旋律を)
mild versöhnend  穏やかに(すべてを)調和させる(旋律を)
aus ihm tönend,  彼から響いてくる(旋律を)
in mich dringet,  (旋律は)わたしのなかに入り込み
auf sich schwinget, 彼のうえで揺れ動き
hold erhallend   穏やかに鳴り響き
um mich klinget?  わたしの周りで響いている(それが聞こえるのはわたしだけ?)

 

 

Heller schallend,
mich umwallend,
sind es Wellen
sanfter Lüfte?

Hell は「明るく」。ここでは比較級か。schallen は「響く」。反響する、というニュアンスだろうか。明るさは視覚的なもの、響きは聴覚的(または触覚的)なものであり、その意味では、ここは共感覚的な一節であるとも言える。というよりも、「愛の死」自体が共感覚的な認識を描き出しているというべきだろうか。

現在分詞だが、schallen の意味上の主語は何か。文法的には主文の主語であり、es ということだが、流れ的には、前文の「旋律」になるように思うが、いまひとつよくわからない。「ずっと明るく響いて」。

wallen は「沸き立つ」「沸騰する」、または「(雲や霧が)湧く」。「わたしを包むように沸き/湧き立っている」。

Wellen は「波」の複数形。だから、前行の wallen は「湧く」のほうだろう。

sanft は soft、Luft は breath、つまり「吐息」。「柔らかな吐息の波」、というか、「波のように寄せては返す柔らかな吐息」というところだろうか。

「ずっと明るく響いて/わたしを包むように沸き立っている/これは波のように寄せては返す/柔らかな吐息だろうか?」

 

Sind es Wogen
wonniger Düfte?

Woge も「波」の意味で、Wogen だと複数形。ただ、楽譜だと Wolken (「雲」の複数形)になっている。もしかすると、ワーグナーの出版テクストと、出版楽譜で、ここの箇所が違うのかもしれない。ともあれ、波でも雲でも、前から続いている容積の増大というイメージには合致する。Welle に引きつければ「波 Woge」のほうが妥当だろうし、「吐息 Luft」に引きつければ「雲 Wolke」のほうが妥当ではある。

wonnig は 「至福の」で、Duft は「芳香」。

ここも共感覚的だ。波であれ雲であれ、視覚的なものだが、それが嗅覚的なものに横滑りしていく。ボードレールの「万物照応 correspondances」が想起される。

「これは波/雲のような至福の芳香だろうか?」

 


Wie sie schwellen,
mich umrauschen,
soll ich atmen,
soll ich lauschen?

schwellen は「膨れる」で、体積が膨張するというニュアンスか。とすると、sie の指示対象としては、「波 Woge」よりも「雲 Wolke」のほうが妥当な気はする。「雲(のような彼の吐息)が何と膨れ上がり」。

rauschen は「ざわめく」。「わたしを包んでざわめいていることだろう」。

atmen は「呼吸をする」、lauchen は「聞いている」。イゾルデはもはや自分の5感すら信頼できなくなってている。

「わたしは息をしているのだろうか/わたしは聞いているのだろうか」

 

 

Soll ich schlürfen,
untertauchen?

schlürfen は英語なら sip で「ちびちび飲む」。untertauchen は「沈む」。どちらも水のイメージだが、方向性が違う。schlürfen は水を体内に取り入れる感じで、水が体のなかに沈んでいくが(それは atmen と同じく、口を経由するものでもある)、untertauchen は体が水に沈んでいく。

「滴りを飲み込んでいるのだろうか、わたしが沈んでいるのだろうか」

 

 

Süss in Düften
mich verhauchen?

verhauchen は「(光などが)消える」という意味。untertauchen に引き続いて、五感ではなく、体全体がクローズアップされている。

「甘く香りに包まれて、自分が消えてしまえばいいのか?」

 

 

In dem wogenden Schwall,
in dem tönenden Schall,
in des Welt-Atems
wehendem All ---

この前のところから、イゾルデはもはや、外からの入ってくるものを五感のどれかで(または五感のいくつかで)受け入れるというよりも、体全体が世界と触れあい、体の輪郭は溶けだしていくかのようだ。

wogen は「波打つ」、Schwall は「大波」。tonen は「響く」、Schall は「反響や残響のある響き」。「波打つ大波のなかで/響き渡る響きのこだまのなかで」

Welt-Atem。これは何ともすごい造語だ。Welt は「世界」、Atem は「息吹」。とうとうイゾルデには世界が呼吸しているのが感じられるのだ。wehen は「吹く」、All は「宇宙」。しかしこれはどう訳したらいいのか、と考え出すと、ここの Welt は「世界」でいいのかという気もしてくる。All と組み合わせて Weltall とすると「宇宙」のニュアンスになる。「放たれる息吹で充たされる宇宙のなかで」

ここは、in が3つ続き、ここでクライマックスになる。最初は「波」で、次が「響き」で、最後が「息吹」であり「宇宙」。

 

 

ertrinken,
versinken ---
unbewusst ---
höchste Lust!

ertrinken は「溺れる」。 「沈む untertauchen」 や「自分が消える mich verhauchen」というイメージがいまいちど繰り返される。versinken は untetauchen と verhauchen の複合のような感じと言っていいだろうか。「沈んで消える」。ところで、ここは動詞原形が投げ出されているように見えるけれど、文法的には、Soll ich ertrinken,/ Soll ich versinken ――「(わたしは)溺れる(のだろうか)、/(わたしは)沈んで消える(のだろうか)」と読むべきところなのだろうか。「溺れて/沈んで」

しかし、この2つの動詞がまだそれまでの流れと構文的にはぎりぎり接合するとしても、最後の2行はまさに断片的だ。

unbewusst。bewusst で「意識がある」、英語なら conscious。ということは、unbewusst という否定形は、「意識がない」ということになる。ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』(1859)から50年近く後の19世紀末、ジークムント・フロイトは「無意識 das Unbewusste」を問題として議論の俎上に載せていく。ところで、「意識 Bewusstsein」 はヘーゲルにとって決定的な重要性をもつ問題であったし、ヘーゲル批判(またはそのラディカル化)の急先鋒であった哲学者フォイエルバッハワーグナーに大きな影響を与えている。

とはいうものの、ここの unbewusst にどこまで思想的なものを読み込んでいいのかは解釈が分かれるところだろう。もっとも平たく読むなら、「意識がない」ということで、「我を忘れて」「呆然自失で」という感じになるだろうし、フロイトを先取りするように読むなら、「(意識にまでは浮上してこない領域にある)無意識的な状態のなかで」という感じだろう。どちらにせよ、ここでイゾルデが bewusst とは別の水準、別の領域、別の世界に入っていることはまちがいない。

höchst は hoch の最上級で、「もっとも高い」「至高の」。「愛の死」の最後の言葉は Lust。「(内面的な)欲求」という意味でもあれば、「(官能的な、肉体的な)よろこび」という意味もある。どちらにせよ、快いものであるとは言えるようだ。

ここですでにイゾルデは肉体的な身体をほとんど解脱しているとも言えるし、自己の身体と世界=宇宙が息吹として溶け合っているとも言える。硬い肉ではなく、流動する気体になっている。そのような気体的身体の官能性は、肉体的であることがただちに精神的なものになると言えるのではないか。つまり、ここでは、心と体、形なきものと形あるもの、非物質と物質とが、共立するような状態が出現しているのである。「このうえないよろこび」

 

だとすれば、「愛の死」のあとイゾルデがもはや身体という牢獄に囚われた精神の世界であるこの世に戻ってくることができないのは当然かもしれない。彼女は死ぬのではなく、エーテル的な存在に昇華されるのだから。