うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

シリアスはコメディに、コメディはシリアスに:非凡に中庸なフリッチャイの無時代的『ドン・ジョバンニ』

無国籍な演奏。フリッチャイモーツァルトのオペラ録音を聞いていると、そんな言葉が頭に浮かぶ。とくに『ドン・ジョバンニ』。ハンガリーの指揮者が、ドイツの放送オケと、ドイツ系のキャストとともに、イタリア人台本作家がイタリア語やフランス語の種本をもとにして作ったリブレットに、オーストリアの作曲家が音楽をつけたイタリア語のオペラ。タイトル・ロールのドン・ジョバンニ自体が汎ヨーロッパ的な神話的形象なのだという側面もある。ドン・ファン(たとえばバイロン、たとえばシュトラウス)、ドン・ジュアン(たとえばモリエール)。コメディ的なナンバーである「カタログの歌」のなかで、従者レポレッロは主人のヨーロッパ中での女遍歴を数字化する。イタリアで640、ドイツで231、フランスで100、トルコで91、スペインで1003。だから、無国籍とは言ったが、そこで「無」化されている「国籍」はせいぜいヨーロッパとその周辺でしかないことは、やはりきちんと認識しておく必要があるだろう。

ダ・ポンテの原題『罰せられた放蕩者』はMeToo時代においてある意味では適切ではあるけれど――しかしドン・ジョバンーが最後まで改悛せず、反抗したまま地獄に落ちるという、ロマン派にアピールしたであろう人物造形のほうはどうだろうか――このオペラをMeToo時代に聞くことの問題性についても、きちんと考えてみなければならないだろう。

閑話休題

ここでフリッチャイの音楽は、ナショナルなクリシェから外れている。低音のうえに音を積み上げていくドイツ的な構築性とも、さまざまなニュアンスを帯びた色彩をちりばめるフランス的な色彩感とも、力強く情念的なカンタービレでぐいぐいと進んでいくイタリア的な推進力とも、厚みや熱をあえて退けるようなイギリス的な中庸ともを、底抜けに明るく風とおしのいいスペイン的な陽気さとも、アタックのインパクトとスピードと物量で押してくるロシア的な迫力とも、似ていない。

無色透明なのだ。それをハンガリー的と呼んでいいのかもしれないが、フリッチャイの空間認識力の高さには特筆すべきものがある。それぞれの旋律や主題が、空間のなかに、正確に定位させられている。微妙に小ぶりに聞こえる機動性の高い室内楽的なオケ、きれいに響く木管をしっかりと下支えする裏の低音、この年代にしては珍しくビブラートの揺れ幅が大きくない歌手の声、声のアンサンブルのバランスのよさ(オケと同じように高い音と低い音の両方が過不足なく鳴っている)。演技過剰ではない歌唱、全編を貫くやや速めのテンポ。

しかし、フリッチャイの抜きんでたところは、シリアスをシリアスにしすぎずコメディーをコメディーにしすぎない絶妙なバランス感覚だろう。シリアスなところはやや速めに、コメディーなところはやや遅めにして、劇自体のせわしない場面展開(たとえば、シェイクスピア劇によくあるような、シリアスから一転コメディーへというような流れ)を、音楽的に中和しているところだ。だから音楽の強度があまり変動しすぎないのに、音楽の重量は繊細に変化していく。

無国籍と初めに書いたけれど、むしろ、無時代といったほうがよかったかもしれない。この演奏は録音された時代の演奏様式に属していないような印象を受ける。ブッシュとグラインドボーン祝祭管による30年代のSP録音とすこし近いところを感じるけれど、ブッシュの演奏には20、30年代のノイエザッハリヒカイト新即物主義)にふさわしい迫真的な快速テンポがあって、それはフリッチャイの演奏にはない。

面白いことに、フリッチャイの『フィガロ』は意外と50年代の演奏になっているし、『魔笛』のほうは案外ドイツ的な雰囲気をただよわせている。ハスキルとの協奏曲27番の録音は、モノラル録音のせいか、ハスキルのピアノのせいか、時代性があるし、死の数年前に再録音された交響曲は特異なまでに構えが大きく、あまりに個性的なせいで、時代を外れて聞こえる。『ドン・ジョバンニ』は、中庸でありながら、非凡である。

 

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