うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

感傷なきロマンティシズム:ブーレーズの身体なき純粋な響き

ある特定の楽器群を響かせるのが異様に上手い指揮者がたまにいる。奏者からの転向組の場合、それはよくわかる。ヴァイオリン弾きのマリナーやヴェーグが弦楽器をリッチに響かせるのが上手かったり、オーボエ吹きのホリガーが管楽器の息遣いを生かすのが上手かったりするのは、むしろ当然だ。

しかし、なかには、出身楽器と無関係にそのような異能を発揮できる指揮者がいる。ブーレーズはそのような指揮者だと思う。木琴鉄琴、トライアングルやシンバルのような音高のある打楽器にたいする感性が飛びぬけている。

それはおそらく、作曲家ブーレーズの持つ音響世界に起因するものだろうし、ガムランに影響を受けているドビュッシーメシアンと共通するところかもしれない。シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』をメシアンで濾したかのような『主なき槌』を聞くと、ブーレーズ個人の響きの好みがどこにあったのか、よくわかる。

とはいえ、ブーレーズの響きがとりわけ異質なのは、煌めくような打楽器の音が、高純度の大オーケストラの響きの向こう側から突き抜けて聞こえてくるからなのだ。ブーレーズの耳のよさは桁違いで、どれだけ大量の音がどれだけ錯綜するところでも、響きはまったく混濁しない。オケにも依存しない。臨時オケでしかないバイロイト祝祭管弦楽団であろうと、ブーレーズは不純物のない蒸留水のような響きを作り出す(いつ聞いても『ワルキューレ』3幕終結部の最後の和音の揃い方は驚異的だ)。

厚みのないレイヤーが無数に重なり合っているかのようで、質量はないにもかかわらず、広がりと奥行きがある。

とはいえ、ブーレーズの指揮する音楽は、やはり肉体不足なところはある。あくまで指揮者の頭の中(というか耳の中?)で鳴っているような部分があり、音だけが聞こえてきて、音の向こうにあるはずの演奏する身体が見えてこないところがある。60年代のドメーヌ・ミュージカルを振っていた時期は、まだ指揮者として不慣れなせいか、ノイズのようなかたちで奏者の肉体が伝わってくるし、グラモフォンに移籍してからは、オケに任せすぎで、普通にオケの身体を感じるけれど、コロムビア・レコードによるアナログ録音は、スコアの音符と、指揮者の音響が、純粋な音として響いてくる。

そのなかでも、クレンペラーのオケであったニュー・フィルハーモニア管と録音したドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』は出色の出来だ。ドビュッシーのポスト・ワーグナー的な憧れ(チェロの旋律!)、ガムラン的な虚空に響く打楽器、浮遊感をともなって流れていくフルート(パルジファルの空気!)

これほどフランス語のlanguideを感じる演奏もないけれど、それでいて感傷的なところがまるでない。純粋な感情が聞こえてくる。録音のマジックなのかもしれないけれど、この厚みなき厚さ、感傷性なきロマンティシズムは、唯一無二のものだと思う。マラルメ的なのかもしれない。『プリ・スロン・プリ』(襞には襞に)もまたマラルメの詩にインスパイアされた曲であった。

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