うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

禅化されたロマン派:ツェンダーの皮肉なき相対化

なぜそんなことが可能なのか、いまだによくわからないのだけれど、一聴しただけですぐにそれとわかる独自の響きを持っている指揮者がいる。昨年亡くなったハンス・ツェンダーはそうした特異な能力を備えていた指揮者だった。

彼の音楽にいつでもこだましていた独特の響きを水墨画的と呼んでみたい気に駆られるが、この言葉にはツェンダー本人も反対しないかもしれない。現代音楽の作曲者としてのツェンダーは東洋思想にコミットした作品を多数書いているし、実際、彼の響きはカラフルではなく、白黒の濃淡を感じさせる。そよぐ風のように、流れる川のように、すべては流転し、何かに執着することがない。何かが何かよりも絶対的に重要ということもないらしい。すべてはフラットで、すべてが貴く、すべてが儚い。

ヘンスラーから出ているシューベルト交響曲全集のライナーノートのなかに収録されていたインタビューのなかで、ツェンダーはベートーヴェンシューベルトを比較しながら、こんなことを述べていた。ベートーヴェンの音楽は昂揚するほどに筋肉を硬く収縮させるが、シューベルトの音楽にたいして肉体はそのように反応しない。むしろ彼の音楽はわたしたちの身体を柔らかく緩ませる、と。

ツェンダーの録音を評するさいにしばしば使われる「脱力系」というのは秀逸なネーミングだと思うけれど、ミスリーディングでもある。もしツェンダーの音楽の色彩や濃淡を水墨画になぞらえることができるとしたら、彼の描く音の線もまた、水墨画の線がそうであるように、強い勢いを持っている。そこにはダイナミックなエネルギーがあふれている。

ツェンダーの音楽が不思議な印象を残すのは、気勢の強い音風景であるにもかかわらず、それがどこか非人称的だからだろう。まちがいなく強烈な個性をもった演奏であるにもかかわらず、ツェンダーという作曲者兼解釈者の特異性を感じさせないのだ。匿名性、無名性を感じさせるといってもいい。

彼の音楽はつねに、冬の寒々しい灰色の空と身を刺すような冷たい風を思わせる。彼がシューベルトの『冬の旅』を創造的に編曲したのも当然だ。あの心象風景こそ、彼の音楽――作曲であれ指揮であれ――に共通する原風景なのだと思う。彼はそうした寂寥さから、どこか安堵させるものを創り出した。ロマン派を禅化したと言っていい。冷たく、寂しく、独りのままだけれど、絶望ではない。自己憐憫を、皮肉化することなく、相対化している。

 

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