うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

普通にやることの不自然さ:クリップスの自然体

音を合わせることはアンサンブルの基本中の基本ではあるけれども、どのようなバランスで、どのようなニュアンスで合わさせるかは、千差万別だ。それに、縦の線を合わせることをあえて意識させないというやり方さえありえる。

その究極的な形態は、合わせなければという意識が暴君化してオケが自縄自縛に陥っている状態ではないし、合わせる意識が希薄すぎて音が同じ瞬間にただ鳴っているような状態でもない。それは、まったく自由にまったく自発的に演奏しているにもかかわらず、すべてが無理なくピタリと響き合うような、無為自然の状態だろう。

その状態は必ずしも名演奏のための必要条件ではないけれど、ヨーゼフ・クリップスはその稀有な状態を恒常的に作り出すことができた指揮者だったようではある。

興味深いのは、クリップスがそれを、自身の人間的な魅力や人望といったカリスマ性なしに成し遂げることができたらしいという点だ。戦後のウィーンフィルの復興に尽力した人物であるというのに、オケからはむしろ煙たがられる存在であったらしい。絶対音感を持たないクリップスウィーンフィルにもてあそばれたという逸話は有名だ。50年代後半から60年代初頭にかけて当時はアメリカの地方オケでしかなかったであろうバッファロー・フィルやサンフランシスコ管弦楽団の常任を歴任するというキャリアは、彼の愛されなさの証左かもしれない。

クリップスの演奏には一聴してわかるような特徴はない。テンポにしてもハーモニーにしても歌い回しにしても、歪なところがなく、印象に残りにくい。すべてがあまりに自然なのだ。リズムは自然に弾み、旋律は自然に歌われ、音が自然に揃う。

しかしこの自然さがいかに不自然であるかは、ほかの指揮者の録音を聞けばすぐにわかるはずだ。あたりまえのことをあたりまえにやる、しかしそれを、嬉々としてでも嫌々でもなく、すべてがちょうどいいところにあるかのようなバランスで行うというのは、本当に難しいことのはずだ。

クリップスの演奏はどこか円を思わせる。それはもしかすると、禿げあがった丸頭と愛嬌を感じさせる丸顔から導かれた印象なのかもしれないけれど、彼の作る音楽には尖ったところがなく、柔らかく、やさしい。入れすぎでも抜けすぎでもなくちょうどいい具合に空気の入ったボールのように、ちょうどよくはずむ。歩くように、急ぐのでも道草するのでもなく、丁寧に足を動かしていく。

ありきたりのことを、決して倦むことなく、毎回が新しいかのように、しかしすでに完全に熟練しているかのように、丁寧に繰り返していく。そのままでは美的なものとは程遠い日常生活を、日常生活のまま美化すること、普通の献立を、普通の材料で、普通の調理器具で、普通の調理法で、普通に作ること、すみずみまで気を配った丁寧なものではあるけれど、やりすぎでもなければやり足らなすぎでもない。度を越さない。このグラデーションの真ん中あたりにふわふわとただようゾーンにピタリとランディングするのが、クリップスの音楽。

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