うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

時代を超越する:ハンス・ロスバウトの反時代性

ハンス・ロスバウトについて書いてみたい。

ロスバウトが半世紀以上前に指揮した録音を聞いてまず思うのはその驚くほど瑞々しい現代性だ。まったく古臭くないし、まったく古びていない。ラモーであれ、グルックであれ、モーツァルトであれ、ブルックナーであれ、マーラーであれ、シェーンベルクであれ、メシアンであれ、いまだに新しく響く。

しかし、なぜなのだろう。なぜ彼の録音は、古典派であれ、ロマン派であれ、現代音楽であれ、すべてが時代を超越しているように聞こえるのか。

ロスバウトの演奏自体が、彼の時代においてすら、時代外れのものだったからだろうか。新即物主義的な乾いた客観性にもとづく正確な構造把握と、非主観的に濃密な歌心が、不思議なまでにひとつに融合している。きわめて個性的な演奏だが、その個性は指揮者の解釈の特異性にはない。そこが、解釈者の表現主義的な過剰さに充ちたヘルマン・シェルヘンと一線を画するところだ。

ロスバウトの指揮はおそらく信じられないほどの技術的な高みにあったのだろう。ザッツが恐ろしく揃っている。しかも、メトロノーム的な機械的な感じではなく、呼吸感とでもいいたくなるような直観的なところで合わせながら、メトロノーム以上に音が気持ちよくピタリと揃っている。ソロソロとおっかなびっくり合わせるのではなく、ほとんど無造作までにザッザッと小気味よく音をぶつけ合わせる。フレーズの終わりを小粋に刈り込むような音楽づくりだ。だから、フレーズやリズムの「かたち」がくっきりと浮かび上がる。たしかに色彩感には欠ける。しかし、その代わりに、白黒の濃淡のニュアンスがあるし、色味がないからこそ、輪郭が際立つ。音が重なっても見通しがいい。音と音のあいだにたっぷりと空気が含まれている。凝縮度は高いのに、音の間に余白がある。

録音によって強調されている部分もあるのかもしれない。しかし、SP時代の録音であれ、放送録音であれ、ライブ録音であれ、Deutsche Grammophonによる正規録音であれ、どれもこれも同じような響きがするということは、彼の音楽が、録音技術に依存しない特質を備えていたことは間違いないと思う。

時代を超越する――感性的な意味でも技術的な意味でも――ためには、内在的に突き抜ける必要があるのかもしれない。極めるというのはそういうことなのだろう。

 

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