うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

楽譜のなかで完結した音ではなく、空間に開かれた音響を:ミカエル・レヴィナスのピアノ

ミカエル・レヴィナスのピアノ録音を初めて聞いたとき、彼があの有名な哲学者エマニュエル・レヴィナスの息子であることを知っていたのかどうか、いまとなってはもう思いだせない。定かではない記憶を無理やり探ってみるけれど、やはり確実なことはわからない。うっすらと覚えているのは、レヴィナスのピアノを聞き始めたときが、スペクトル楽派の音楽に初めて触れたときと一致していたということだけだ。

スペクトル楽派という言葉など全く知らないまま、シルヴァン・カンブルランの指揮するジェラール・グリゼイのL'icone paradoxaleを聞いたとき、それがポスト・ブーレーズ的な音楽であることはすぐにわかった。音高の間隔が作り出す和声の響き――それは突き詰めれば数学的なものだろう――とは違う、楽器や人間が作り出す音自体の生々しい共鳴が、ひどく肉感的で艶めかしいものに感じられた。フランス語のsensuelという単語のニュアンスが理解できたような感じがした。

微細な動機を執拗に展開し続けていく後期ベートーヴェンからウェーベルンを経てトータル・セリエリズムにいたる構築性がいわば身体なき純粋な音楽であるとすれば、スペクトル楽派の音楽は、そうした構築性のあとにくる回帰的なものであり、音楽としての複雑性を保持したまま、プリミティヴなまでの音そのもの響き、譜面の上の音ではなく実際に鳴り響く音、聞こえる音聞こえない音、実音と倍音、音を伝える空気や空間まで含めた、現象としての音を、振動や波としての音を、生に直に体験させるものであると言っていいかもしれない。

作曲者でもあるレヴィナスのピアノは、純粋にメカニックな点から言うと、けっしてうまくはない。指回りは超一流とは言いがたいし、そのせいか、音の粒立ちが完璧ではなく、対位法の各声部のラインの弾き分けが不完全に感じられることもあるし、テンポが微妙にぶれているような印象を受けることもないとはいえない。にもかかわらず、彼のピアノに惹かれたのは、彼のピアノの音があまりにも美しかったからだ。

しかしその美しさは、和音の美しさというよりは、音響の美しさだったのだと思う。ペダルワークが巧みなのか、音の伸ばし方や残し方が精妙なのか、そのあたりの技術的なことはよくわからないけれど、レヴィナスのピアノの音は、譜面通りであるにもかかわらず、普通のピアニストの音とはかなり違う。普通なら聞こえにくい音が聞こえてくるというようなマニエリスムではないし、細部が鮮明に聞こえてくるわけではない。全体としてはソフトフォーカスかもしれないのに、全体としての解像度が段違いなのだ。

余韻が深いとでも言えばいいだろうか。楽譜の音が鳴っていることは間違いないが、それと同時に、楽器の音が鳴っているし、楽器の音が鳴っている空間も響いている。

はてさて、そのような音響感覚が倫理哲学者レヴィナスの他性と果たして関係あるのかはわからないし、そのようなことをピアニスト兼作曲家が意識しているのかはわからないけれども、ここにはたしかに、普通にあるのとは別の仕方で音があるし、その音は楽譜の作り出す純粋な構築物に閉じこめられるのではなく、生起する時と場に開かれている。

 

www.youtube.com