うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音の運動に身体が感応する:ピリオド楽器の音楽の身振り

ピリオド楽器による演奏がすべてそうだというつもりはないけれど、ピリオド楽器は身振りを音化しているのだと思う。音でダンスし、音楽を演奏するという行為それ自体を舞いに変える、そんなふうに言ってみてもいいかもしれない。

それは指揮者の身体の動きを見ているとよくわかる。叩きつけて完全に地面に下ろしてしまうダウンビートではなく、グッと深く潜ってはいくけれども次の瞬間には浮力をえて必然的に体が浮かび上がってくるダウンビートであったり、ふわりと引き上げるようなアップビートであったり、次に流動的に繋がっていく動きが基調になる。

ザッザッという歯切れよさがないわけではない。音のぶつかり合いがないわけではない。けれども、ピリオド楽器による演奏の音は、上に舞い上がり、横に流れていき、静止することが少ない。

それはもしかすると、ピリオド楽器自体が要求するムーブメントなのかもしれない。ピリオド楽器を弾いたことがないので、想像でしかない部分も多いし、弦楽器のことしかわからないけれども、モダン楽器に比べると、弓の毛は強く張られていて、弦にたいする弓圧は弱いようだ。その代わり、弓が速く動く。

あくまで自分が理解するかぎりのことだけれど、弦楽器の音は、弓が弦を下向きに押さえつける圧力と、弓が弦の上をすべっていく速度という、ふたつの異なったベクトルのバランスが重要で、圧が低いと音が抜けるし、圧が強すぎると軋んだ音になってしまうけれども、弓が速すぎると弦との摩擦が足りなくて音がでないし、遅すぎると摩擦が強すぎて弓が弦に絡まってしまって音にならないというジレンマを抱えているのだけれど、速度を落として圧をかけるほうがモダン楽器の生理に合うし、圧を弱めて速度を上げるほうがピリオド楽器の生理に合うのだろう。

弓圧が軽くなり、軽快な動きが基調となった結果、楽器を弾く身体そのものの強張りも緩められるのかもしれない。ピリオド楽器とモダン楽器では、それを奏でる身体の筋肉の緊張の具合がそもそも原理的に違うのではないかという気もする。

それが正しいかはともかく、モダン楽器による音楽が単音の実在感によっても成り立ってしまう一方で、ピリオド楽器による音楽はつねに複数の音の関係を前提にしているのはたぶん間違いないと思う。だからこそ、ピリオド楽器の演奏においては、フレーズのアーティキュレーションが重要になるし、だからこそ、ピリオド楽器の演奏は身振りであり舞いなのだ。静止したドットをつないだ図形ではなく、動き続ける線によるシークエンスであり、アニメーションなのだ。だから音は横に上にと伸びていく。

完全に止まるということがなく、いつまでも伸びて流れていく、けれども、無軌道にあちこちに流れていくのではなく、微細な装飾を伴いながら一定のパターンを繰り返し描き出しながら、最終的にはひとつの方向を目指して大きく流れていく。

ミクロな運動性と、マクロな方向性とが、とても見えやすく、とても聞こえやすいからこそ、演奏者の身体だけではなく、聴者の身体までもが、音楽の運動に感応しやすいのだ。ピリオド楽器の演奏が与えてくれる生理的な爽快感はそこにあるのだと思う。

 

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