うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20231201 アリックス・パレ『魔女絵の物語』(グラフィック社、2023)を読む。

魔女絵には、若き美女と、醜い老婆の、ふたつの系譜があるという指摘にまずハッとさせられるが、読み進むほどに、はたして両者を「魔女」というワードでくくることが妥当なのだろうかという気もしてくる。本書は西洋美術における魔女表象を、100頁ほどのコンパクトな分量で、古代から現代まで、ひじょうに手際よくまとめている。クオリティの高い挿絵——しかも、ところどころに、画布のアップが収録されており、実物を見たとしても気づきにくいところがフィーチャーされているのが嬉しいところ――と相まって、ページをめくるのが愉しい本になっている。しかし、なにか微妙に腑に落ちないところも残る。

 

ひとつは、フランス語の socière というワード。そう、本書はフランス語からの翻訳なのだ。筆者のアリックス・パレは「8年間、ルーブル美術館ヴェルサイユ美術館で勤務」とある。その意味で、本書はフランス語圏における魔女理解にもとづいたものである言って差し支えないのではないか。

フランス語の socière は、socier の女性形であり、その意味では「男の魔術師」のペアになるワードだが、英語の witch はそうではない。OED によれば、「A person (in later use typically a woman; see note) who practises witchcraft or magic, esp. of a malevolent or harmful nature〔魔法または魔術を、とりわけ悪意や害意のあるたぐいのものを実践する人(後代の典型的な用法では、女性を指す;註を参照)〕」となっている。

英語においては、witch はその起源においてこそ、男女をカバーするワードであったものの、「15世紀以降」は女性を指すようになっていったとのこと。つまり、witch は男性的対応物を持たない、女性にのみ与えられるワードになっていったのであり、そこから、he-witch や man-witch のような言い方が「17世紀末」から出現したという。

(ところで、witch hunt〔魔女狩り〕というフレーズは、現代では、男女両方に適応されるものであるらしい。元トランプ大統領は、彼にたいして仕掛けられた法廷闘争をことあるごとに「witch hunt」だと批判するが、そのとき彼は自分が「witch」としてスケープゴートにされていることを暗黙のうちに承認しているとも言えるわけで、そこはちょっと面白いと思う。マッチョな自画像を押し出そうとしている人物が、自身の女性化(witch として狩られる自分)を戦略的に使用しているという点が。)

もしかすると、美女の魔女と老婆の魔女は、次のように整理したほうがいいのかもしれない。キルケにつらなるような美しい異教の魔女。マクベスに登場するような、民間信仰的な、おどろおどろしい老女(それはグリム童話に登場する老婆の魔女につながるものだろうか)。そして、キリスト教が異端と見なす、しかし、キリスト教にとって重要な象徴である羊と交わり、悪魔と交流するという点で、キリスト教神学の影響圏の内側においてこそ意味を持つような存在である魔女。

 

もうひとつは、これが中立的な紹介本なのか、西欧における魔女表象の問題性にたいする批判の書なのかが、いまひとつ判然としないのだ。

魔女が周縁化されるのは、彼女が社会にとって怖ろしい存在だからだろう。魔女はその性的放縦によって、その知識——治癒的なものであれ、呪詛的なものであれ――によって、社会構造を揺るがしかねない。そのような批判的視点は、本書でも、何度か表明されている。

異教/異国の魔女が、裸体を書くための口実として機能してきたという事実に触れてもいる(80頁)。宗教画が絵画のメインストリームであった中世期や古典時代のみならず、世俗化が進む近代においてすら、社会的慣習としての性的タブーのなか、魔女裁判とはまた別の意味で、魔女がいいように使われてきた。それは言ってみれば、表象レベルにおける性的搾取だろう。世紀末における魔女とファム・ファタルの融合は、その意味で、ひとつの重要な(だからこそ、いっそう問題含みな)結節点であると見なすべきである。

 

とはいえ、ここには、本当にさまざまな魔女絵が掲載されており、有名作家の作品からそれほど知名度の高くない画家による作品まで、アンソロジーとしての価値は高いことは間違いない。本書が目指しているのは、イントロダクション的なデータベースであり、だからこそ、もろもろの主題や傾向を提示しつつも、それにたいして明確な価値判断や批判を差し向けることを、あえて避けているのかもしれない。ここで提示されたものをどう受け取るかは、読者次第であると言ってもいい。