正直、プルードンはよくわからない。『所有とは何か』はむかし日本語で読み、その後にフランス語でも読んだけれど、プルードンの論理の運びにうまくついていけないのだ。テクストの肌理にもなじめないところがある。唐突に感じられるところ、飛躍に感じられるところがそこかしこにある。プルードンのなかでは話がつながっているのだとは思うし、たしかに話はつながってはいる。しかし、生理的にどうにも腑に落ちない。
その意味で、プルードンはどこかルソーに似ている。言っていることはわからなくはない。しかしどこかハマらない。賛成できないというのではない(というよりも、言っていることにすべて賛成できるとしたら、それは読者のほうに自分の考えがないからだろう)。納得しきれず、首をかしげるところが残る。
というわけで、久々に、三一書房のアナキズム叢書のプルードンを引っ張り出して、プルードンを読み返してみた。III巻の『連合の原理』——プルードン最晩年の主著——のページをめくってみたものの、昔の印象と大きく異なるものではない。
しかし、さすがに昔と比べればずいぶん読書レベルも上がったせいか、前よりはプルードンの言うことが飲み込めるようになってきたし、なぜ彼がそのような主張をこのような議論で進めていくのかも、ずいぶん見えてきた。とはいえ、やはり、究極的には、どこかで自分がプルードンとすれ違っているという違和感を払拭することができない。
それはもしかすると、ルソーにしてもプルードンにしても、彼らが左翼的なものと右翼的なものを混在させているから、しかも、それらの要素がそれぞれ分離しているのではなく、混然一体となっているところがあるからではないかという気がしてきた。
プルードンは究極的には個人主義者であると言ってしまってもいいのかもしれない。ただし、プルードンの場合、「個人」はシュティルナーのように「エゴ」という最小単位ではなく、小規模な共同体にまで拡大されうるものであり、それはいわば、その外部との関係において絶対的な自律性を最後まで手放さないという意味で、個々の優位性を擁護する立場である。
裏を返せば、プルードンにとって、個々は連合しうるものではあるが、連合したからといって個々がその自律性を手放すべきではないのである。個々はいわば、自身らの自律性をキープしたまま、他/多と連合するのであり、それは他の個についても当てはまる。わたしだけが自律しているのでは不十分であり、あなたもまた自律していなければならない。自律したもの同士でなければ連合はプルードンが求めるかたちにはならないだろう。
その意味で、プルードンの思考のなかでは、個々それぞれの自律性が絶対的な前提であり、それはつまり、個々が持つ自由と、個々が互いにたいして持つ対等=平等性が前提となっているように思われる。自由と平等はいわばコインの両面であり、両方が同時に成立していなければならない。
プルードンは契約という考え方を支持するが、契約することは自己の自由を完全に手放すことではない。ここがホッブズであれルソーであれ、プルードンに先行する社会契約論者と大きく異なるところである。プルードンに言わせれば、個々が何かしらの実利=功利のために自身の自由のすべてを誰かに——王であれ社会であれ——全面的に譲渡しなければならないというのは、受け入れられないことである。
もうひとつ、プルードンの契約概念が先行するそれと大きく異なっているように思われるのは、プルードンにとって契約に参加することは、つねに、そこから離脱する自由と表裏一体であるという点だ。
プルードンの考える契約は、究極的には、プラグマティックなものであるように感じられる(1部8章376頁)。
けれども、だからといって、フリーライダー的というか、自己の利益をかなえるために他者を利用する—―自分の目的を達成したらただちにそれを切り捨てるというものではないらしい。契約は相補的でなければならないし。ギブ・アンド・テイクは釣り合わなければならない(1部7章370頁)
プルードンの思考はきわめて時局的であり、彼が生きていた時代から/について考えている側面が強い。プルードンに歴史的視点が欠けているわけではない(それはふんだんにある)。しかし、その一方で、歴史を彼が生きていた時代につうじるものとして捉えているように感じられる部分もある。目的論的というのではないが、現在中心的とでもいおうか。そのあたりが、ずっと大局的な視点から、いわば神のごとき超越的な視点から人類史を俯瞰しようとするマルクスのような人物と大きく異なるところである。
マルクスもある意味ではドイツ中心主義者ではあったように思うけれど、プルードンのフランス中心主義はもっとあからさまであり、彼はそれを隠そうとしない。もちろん、フランス的なものを何もかも無批判に称賛するわけではないけれど、フランスこそがヨーロッパ近代史をリードする存在であるという、ナショナリズム的というよりも郷土愛的な強い自意識がプルードンのなかにはあったように感じられる。
それは右翼的な心性と親和的なものだろう。
プルードンは慎ましい家庭の出であり、高等教育を受けていない独学の人である。にもかかわらず、いや、だからこそだろうか、プルードンのなかには「民衆 le peuple」にたいするある種の不信が根深く巣食っているようにも感じられる。
それはかならずしも民衆嫌悪ではないし、衆愚にたいする軽蔑でもない。民衆のある種の愚かさをデフォルトとして受け入れているとでも言おうか。その点、プルードンは、ナロードニキ運動を経由しているロシアの革命家たち——たとえばクロポトキンやエマ・ゴールドマン——に見られるような民衆神話にたいしては冷淡であるようだ。
だからこそ、プルードンの冷めた民衆観は、現在におけるポピュリズム、トランプのようなポピュリストの出現を予見していたかのようでもあり、その驚くほどのアクチュアリティに戦慄させられる。
民衆が求めているもの、それは法的な保証では決してない。民衆はそれについていかなる思想も持っていないし、その能力も抱いていない。それは機構の組合わせでも力の均衡でもない、民衆はそれらを自分たちのために必要としない。民衆が求めているのは、その言葉が信頼でき、その意向が知れわたり、彼らの利益のために献身してくれる首領なのである。この首領に対して、民衆は無限の権威を、抵抗しえない力を与える。民衆は彼が彼らにとって有益であると判断したものを正義のように見、彼が民衆の一員なので形式上の手続きを無視し、いかなる場合も権力の受諾者たちに対して課する条件を設けない。疑いやすく中傷しやすい、しかし整然とした討議のできない民衆は、結局人間の意志をしか信じないし、人間にしか期待をかけない。民衆は自分たちの被造物、人の子しか信用しない。民衆は彼らを救いうる唯一のものである諸原理に少しも期待をかえないし、彼らは思想についての宗教を持たないのである。(1部5章、357頁)
Ce qu’il [le peuple] cherche, ce ne sont point des garanties légales, dont il n’a aucune idée et ne conçoit pas la puissance ; ce n’est point une combinaison de rouages, une pondération de forces, dont pour lui-même il n’a que faire : c’est un chef à la parole duquel il se fie, dont les intentions lui soient connues, et qui se dévoue à ses intérêts. À ce chef il donne une autorité sans limites, un pouvoir irrésistible. Le peuple, regardant comme juste tout ce qu’il juge lui être utile, attendu qu’il est le peuple, se moque des formalités, ne fait aucun cas des conditions imposées aux dépositaires du pouvoir. Prompt au soupçon et à la calomnie, mais incapable d’une discussion méthodique, il ne croit en définitive qu’à la volonté humaine, il n’espère qu’en l’homme, il n’a confiance qu’en ses créatures, in principibus, in filiis hominum ; il n’attend rien des principes, qui seuls peuvent le sauver ; il n’a pas la religion des idées.
彼ら[民衆]にとっては政治は陰謀でしかなく、統治は有り余るほどの力でしかなく、正義は制裁でしかなく、自由は彼らが翌日には打ちこわす偶像を建てる気ままさでしかない。(1部5章、358頁)
De la politique elle ne comprend que l’intrigue, du gouvernement que les profusions et la force, de la justice que la vindicte, de la liberté que la faculté de s’ériger des idoles qu’elle démolit le lendemain.
プルードンの思考は二項対立的だが、弁証法的ではない。彼は人類史を権威と自由の相克と捉えるものの、その両者を統合した第三の形態として連合を捉えているのかというと、それはどうも違うのではないかという気がする。
一方において、中央集権的な権威がある。他方において、分離独立的な自由がある。まとめる拡大力と、個のままとどまろうとする力がある。連合は後者に端を発し、前者に抗う。
プルードンの言う連合とは、中央集権化(近代国家)とは別のかたちで地方共同体を相互に関係させる組織形態であり、そこでは、言ってみれば、一票の平等が保たれていなければならない。というよりも、あまりにも力の差がある個々が連合すれば、そこでは権威が勝利してしまうと言うべきだろうか。
マルクスはラディカルに考えることは、物事の根本にさかのぼることであると言ったけれど、プルードンはその意味ではラディカルではない。プルードンは既存の社会形態を自明視している部分がある。プルードンにとって家父長制は自然現象であり、現存する共同体もまたそのようなところがある。
たしかにこれらは歴史的事実ではある。だとしても、人間関係がそのようにあらねばならない理由は存在するのだろうか。プルードンはそこに思いをめぐらせることがないようである(たとえば、結論416頁)。
プルードンは彼が生きていた時代の政治的、経済的現実には異議を申し立てる。それらは彼にしてみれば、あるべき姿ではない。その一方で、家庭関係についてはそのように考えていないようにも見える。
もちろん、家庭関係がすでに完璧であるというわけではないし、政治的経済的関係が全面的に間違っているというわけでもない。しかし、プルードンの全般的な評価としては、家庭関係は正しい方向にあり、政治的経済的関係は道を踏み外しているという感じではないかという印象を受ける。
最初に戻ろう。
プルードンは「個」の思想である。アナキーとは「英語でセルフ・ガバーメント(自治)という、自分たち自身による各人の統治」である(1部3章338‐39頁)。
そして、「個」がいかにして「他/多」と関係を結ぶのか/結ぶべきなのかという思想なのだろう。「法は人間の仲裁の規約である……これは契約と連合の理論である」(1部8章注1、383頁)。
だからそれは、一方において、個の絶対性という極端な個人主義に引き戻されうる(この意味で、アメリカにおけるプルードン主義者であったベンジャミン・タッカーが同時に個人主義的アナキズムの提唱者であるマックス・シュティルナーの拡散者であったというのは、奇妙なようでいて、実はきわめてプルードン的な流れでもあった)。他方では、プルードンの思想は地方自治的な流れにもつながるだろうし、自治体の連携という方向性につながるだろう。
その一方で、自律した個による連携というモデルは、やはり、プチブル的なところはある。というよりも、みずからの労働力以外何も売るものを持たないプロレタリアートは、そもそもその存在からして自律性を剥奪されている。というよりも、自律性を不可避的に奪われていることがプロレタリアートであると言うべきだろうか。だとすれば、プルードンの思想はそもそも近代工業労働者——マルクスたちが革命運動の主体と捉えたもの——と根本的なところですれ違っているのではないか。