うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

意図された(されなかった)消化不良:アルベール・カミュ、ディアナ・ドブレヴァ演出、イヴァン・ヴァゾフ国立劇場『カリギュラ』

20220429@静岡芸術劇場

4カ月遅れの劇評、というか、記憶の発掘(これは観劇後のちょっとしたメモと、冒頭だけ書いて放ってあったものをいまさらながらに補完したもの)。

頭のてっぺんを観客に向け、足先を上にまっすぐ突き出し、白黒の格子模様の床に、俳優たちが仰向けになっている。全員が同じような衣装なので、個体として識別できない。照明の光が色になるほど、舞台はモノトーン。床は白黒のチェック模様、背景は灰色のレンガ調。

ホラー映画にふさわしい不穏な音が響いている。高音のソプラノ。不快な無機質音。両袖の上から垂れ下がるカーテンは、額縁のように、舞台中央のスペースを際立たせる。

そこにそびえる急階段の中ほどに、裸の上半身が妖しく浮かびあがる。生きた人間の身体というよりも、命のないトルソーのようだが、肩甲骨のあたりは丸く柔らかい、異形のく、異星人の肉体のようでもある。人ならざる獣の肉体であるかのように見える。

ブルガリアのイヴァン・ヴァゾフ国立劇場、演出家ディアナ・ドブレヴァによるアルベール・カミュカリギュラ』は2022年ふじのくに⇆せかい演劇祭のオープニングを飾った作品だけれど、ロシアのウクライナ侵攻やCOVID-19の感染拡大よる物流の滞りのため、衣装や小道具や舞台装置が届かないという異例の事態のなかでの公演だった。俳優たちにしても隔離期間がまちまちであったため、聞くところによると、公演当日のゲネプロで初めて全員が揃ったというありさまだったらしい。

カリギュラ』はローマ皇帝の暴走と、臣下によるクーデターを描き出したものだが、カミュらしいひねりがある。たんなる叛乱劇ではない。暴君の狂気の異常性をことさらに強調するというよりも、そのような異常性にはらまれている絶対への志向、不条理な現実を不条理に破壊することで、逆説的に、人間の不条理が世界のそれに優越することを証明しようとする狂おしい意志を、物議をかもす問題として——つまり、観客の同情や共感を誘うことをかならずしも追求しないかたちで——提示する。カミュカリギュラはまさに理解不能な、わたしたちの常識的な理解を超越する存在なのである。

だから、カリギュラ役が、若手ではなくベテランの域に達した成熟した俳優によって演じられていたのはきわめて腑に落ちるものであった。そのおかげで、カリギュラの狂気が、若き皇帝の若気の至りではなく、こう言ってよければ、正常な狂気として、描き出されていた。ほとんど全裸に近い身体の一人芝居的なシーンもあれば、自らが演出した酒池肉林の情景をまるで観客のように眺めるメタ的なシーンもある。息を切らせた動物のように荒く不規則な呼吸を劇場にこだまさせたかと思うと、臣下たちに何度もナイフを突き立てられながら、死人どころかまるでゾンビのように、のそのそと梯子を上って不可能な絶対の高みへとにじりよっていく。肉体性が強く出た演技だった。

(公演はブルガリア語だったが、カミュの翻訳は詩人のアレクサンドル・セクロフ(と演出家のディアナ・ドブレヴァ)の手掛けたものだったようだ。セリフの朗誦自体に、なにかしらの詩的な香りがあったのだと思うが、そこは字幕ではまるでわからなかったし、静岡芸術劇場のスタッフに苦情を言うなら、字幕送りがあまり好調ではなく、混乱を招く部分もあったことを付け加えておきたい。また、複数の俳優が舞台に登場しているとき、字幕だけ出されても誰のセリフなのかがわからないという問題があったことも指摘しておこう。こちらはスタッフの不作為ではなく、演劇字幕それ自体の問題ではある(映画字幕の場合、セリフを口にしているほうがスクリーンにアップになっている、または、観客のほうを向いている構図になっているから、誰が話しているのか問題は表面化しにくいのだろう)。けれども、正直な感想を言えば、はたしてカミュの原作を読まずに見に来た観客が、どこまで芝居の筋を追えたか、どこまでどの俳優がどのキャラクターなのかを理解できたのか、大いに疑問があるところ。)

大急ぎで間に合わせた衣装がどこまでオリジナルの演出意図を汲んだものだったのかは、正直、わからないところがある。『カリギュラ』には少なからぬキャラクターが登場するけれど、衣装で弁別できるような提示の仕方をしておらず、カリギュラほか数人の主要人物を除くと、それ以外はいわば匿名的な存在になってしまっていたし、きわめて様式化されたシンメトリックな俳優たちの使い方と相まって、群集劇と化してしまっていた部分もある。

匿名的な男性キャラクターは、ウクライナ大統領のゼレンスキーを思わせるようなTシャツにカーゴパンツという装い。だからいっそう、カリギュラの狂気をロシア大統領のプーチンの測り知れない心の深淵と重ね合わせないわけにはいかない。しかし、そのような見方がどこまで演出家の意図したものだったのかどうか。具体的な参照項が剥奪された抽象性の高い舞台装置や衣装だったからこそ、戯曲の寓意性がはからずも増幅され、現実の反映を読み込む隙を呼び込んでしまったような気がしてならない。

匿名的であるがゆえに、売春宿のシーンにおける売春婦のヌードや性行為の演技が、過度に前面に出すぎていたきらいもある。裸体の使用は本演出の無視できない部分ではあったけれど、それがどこまで本来の演出意図なのか、それを煽情的に使うことがどこまで演出家の望んだことなのかが、よくわからなかった。裸体の使用はおそらく、さらに大きな演出的意図に組み込まれるべき細部だっただと思うのだけれど、それを包み込む全体を作り切れなかったところに、本公演の惜しいところがあったように思う。

舞台はカリギュラの集団処刑によって終わる。長机のうえでカリギュラは複数の叛乱者によって、きわめて儀礼化されたかたちで、何度も何度もナイフを突き立てられる。しかし物理的には息絶えたはずの皇帝は、にもかかわらず息を吹き返し、舞台中央にずっと鎮座していた階梯を上へ上へと昇っていく。SFめいた銀色の丸い装置が彼の頭のうえに下りてくるかのようである。

もしかするとカリギュラは肉体的に死ぬことで、自身の望んだ絶対に精神的に到達するその直前までいったのかもしれない。歴史的には皇帝カリギュラは負けたはずである。にもかかわらず、彼は全面的に敗北したわけではない。彼の不条理な精神の企図は、何かしらは、かなえられたのかもしれない。消化しがたい、というよりも、消化不能な残余をわたしたちに送るようなかたちで、演出家ディアナ・ドブレヴァによるブルガリアのイヴァン・ヴァゾフ国立劇場の公演は終わったのだった。

ここでの消化不良感が、いまでも自分のなかに残っているような気がする。

 

Sans doute, ce n'est pas la première fois que, chez nous, un homme dispose d'un pouvoir sans limites, mais c'est la première fois qu'il s'en sert sans limites, jusqu'à nier l'homme et le monde. (II, ii; 27頁)

Mais Caligula me disait qu'il n'est pas de passion profonde sans quelque cruauté. (II, vi; 34頁)

On est toujours libre aux dépens de quelqu'un. C'est ennuyeux, mais c'est normal. (Avec un coup d'œil vers Mucius.) Appliquez cette pensée à la jalousie et vous verrez. (Songeur.) Tout de même, comme c'est laid d'être jaloux! Souffrir par vanité et par imagination! (II, ix; 35頁)

Mais je sais trop la force de ma passion pour la vie, elle ne se satisfera pas de la nature. Tu ne peux pas comprendre cela. Tu es d'un autre monde. Tu es pur dans le bien, comme je suis pur dans le mal. (II, xiv; 43頁)

 J'ai simplement compris qu'il, n'y a qu'une façon de s'égaler aux dieux : il suffit d'être aussi cruel qu'eux. (III, ii; 49頁)

Reconnaissons au moins que cet homme exerce une indéniable influence. Il force à penser. Il force tout le monde à penser. L'insécurité, voilà ce qui fait penser. Et c'est pourquoi tant de haines le poursuivent.  (IV, iv; 62-63頁)

Les autres créent par défaut de pouvoir. Moi, je n'ai pas besoin d'une œuvre : je vis. (IV, xii; 70頁)