20220917@舞台芸術公園稽古場棟「BOXシアター」
「扇風機もございませんし」とは言うが、扇風機はある。「喧嘩の場所じゃございませんのですから、ここは」とは言うが、段々になった観客席に四方から取り囲まれた正方形の白い床の舞台はまるでリングのようではないか。石神夏希の演出による三島由紀夫の「弱法師」は、言葉のうえでは三島に忠実でありながら、演劇としては三島を裏切るかのように、語られる言葉と舞台の出来事のズレを際立たせるような空間のなかで始まったのだった。
腰ほどの高さに持ち上げられた舞台の床の中央にそびえる白い脚立。対角線になるコーナーふたつに横並びに置かれた、背もたれのある簡素な二脚ずつの木の椅子。また別のコーナーに置かれたマイクスタンドは観客席のほうを向いている。舞台の頭上に浮かぶ白い環には、四角に切り取られた開口部が一か所だけある。幾何学的なところと無機的なところが混在する舞台は、能舞台のような様式的に切り詰められた空白の豊饒さでも、表面的にはリアリズムを踏まえている三島のト書きがほのめかすような戦後社会の混沌たる豊饒さでもなく、SF的な仮想世界の欠乏を想起させる。時代や場所を特定できるような細部は注意深く取り除かれている。過去のようで未来でもあり、近いようで遠くもある。現実のようで、現実感がない。
「弱法師」の前半は、盲目の戦災孤児である高貴なる美青年の俊徳をめぐって、養父母の川島夫妻と実父母の高安夫妻が、家庭裁判所の調停委員である桜間級子を仲裁人として互いの言い分をぶつけ合う二対二の舌戦だが、そこからせりあがってくるのは、両夫妻の真摯な親心をも上回る俊徳の傍若無人なわがままぶりであり、その強烈な毒気に翻弄される両夫妻の悲喜劇的な姿である。当然ながら調停は不調に終わる。夕日の差しこむ部屋に残った俊徳と級子の噛み合わない一対一の対決が「弱法師」の後半をかたちづくる。そこで明かされるのは、俊徳の身勝手と思われたものが、じつは戦争のトラウマの顕れであり、彼は空襲に焼かれる世界を、終わった世界を見えない目でいつもずっと見ているのだという怖ろしい真実である。しかし俊徳の魂の叫びが級子に届くことはない。ふたりの精神的な距離は近づくが、それは共感的な理解が深まるからではなく、一方通行な思いが貫かれるからであり、ふたりとも互いに譲歩することはないだろう。三島はほとんど何の救いも与えることなく、劇を閉じる。「どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」という退行的に無邪気に幼い俊徳のつぶやきは、甘やかな退廃と陶酔だけを後に残す。いかにも三島由紀夫にふさわしいかたちで。
石神の演出は、そのような三島特有のデカダンスの脱構築をねらっていたのだろうか。養父母の川島夫妻(中西星羅、大道無門優也)は赤のドレスに青のスーツ、実父母の高安夫妻(布施安寿香、大内米治)は黄のワンピースとニットカーディガンに緑の半袖開襟シャツにチノパン。両夫妻の経済階級的な格差は一目瞭然だが、下から上まで一色のグラデーションに包まれた姿は、ひとりひとり眺めれば、リアリズム的にありえそうな感じもするが、4人揃うと、モダニズム的に意図された不自然さを強く感じる。両夫妻の演技もまた、自然主義的な感情の表出であるように見えながら、同時に、きわめて様式化された演技であり、それはもしかすると、プロレス的な(筋書のある)即興のマイクパフォーマンスであり、(八百長的な)迫真の肉弾戦であったと言ってよいかもしれない。「僕はひょっとすると、もう星になっているのかもしれないんです」と嘯く俊徳に合いの手を入れるように「星ですとも、お前は」と声を合わせて叫び、親を虫けら扱いする俊徳の言うがままにて床に這いつくばる4人の姿は、あまりにも見事に振りつけられているので、笑うべきなのか涙すべきなのか、戸惑わされるところである。
その一方で、俊徳と級子は、川島夫妻や高安夫妻とはまったく別の原理にもとづいて造形されていた。石神による演出の核心にあるのは、俊徳と級子をジェンダー的にスイッチした後で、元に戻すという手法である。それはつまり、同じ戯曲を、主役ふたりを入れ替えて、2回連続で上演することである。こうして、前半では、級子を男優(八木光太郎)が、俊徳を女優(山本実幸)が演じることになるのだが、三島のト書きでは和服のはずの級子は、赤いハイビスカス柄の黒いアロハシャツにショーツ、クマの着ぐるみのような灰色の帽子とレッグウォーマーをまとい、コミカルともシリアスともいえない撹乱的なトリックスターとして、四角いリングのような舞台の下をキャスター付きの肘掛け椅子で滑るように移動しながら、夫妻たちを宥めるというよりも、観客を含めて煽っていく。「仕立てのよい背広に黒メガネ、ステッキ」となっている俊徳のほうは、ダブルスーツにサングラスの出で立ちで、一見すると忠実なようだが、彼女は級子の分身であるかのような灰色のクマのぬいぐるみをずっと抱えている。脚立の上から5人を見下ろす前半の俊徳は、いわば古典的な静の演技であり、三島が意図したであろう自律的な記述言語——俊徳が視界を失った焼け野原で最後に見た世界の終りの風景描写——を、最低限の身体的所作をまとわせた増幅的朗誦として現前させていたと言えるだろう。
脚立から下りて自暴自棄にあばれる俊徳が級子に無理やり肉体的に組み伏せられた後、あたかもそう戯曲に書かれているかのように自然にダカーポした2回戦の俊徳(八木光太郎)は、かなりテイストが異なる。脚立の上から裁き手よろしく見下ろす級子(山本実幸)——1回戦で来ていた上着を脱いでノースリーブのカットソー姿で、前半の級子にあったそこはかとないお笑いテイストは皆無であり、法の番人よろしく過度の厳めしさがある——の下で、ツイードの上着にショーツ、ハイソックスにサングラスという、クラシカルではありながらどこかコスプレ的な、本物でありながらどうしようもなく偽物めいた俊徳は、言葉の意味を朗々と響かせるというよりも、烈しい肉体的な運動性の随伴物として言葉の音を反響させる。俊徳が最後に目にした世界の終わりを描写する「阿鼻叫喚」という単語は、意味から解放され、強迫観念に取り憑かれたかのように舞台を周回する肉体がほとばしらせる体液であるかのように、オノマトペになるまで執拗に反復される。夕日は舞台をいまいちどほのかにノスタルジックに赤く染め上げるが、最後はふたたび人工的な白い光に照らし出されて、暗転する。
石神は三島の謎めいた幕切れにわかりやすい解釈を与えることを拒むために、いかにも三島らしいデカダンスな読解——凡人を無慈悲に翻弄する天才の男と、従順なようでいて彼を包み込んでしまうファム・ファタル——を退けるために、ふたつのバージョンを「ただ」並列させてみたのかもしれない。石神の演出には、戯曲を反復する理由をあえて正当化しないという無防備な勇敢さがあった。2回戦ではテクストが多少削られていたし、言葉の意味を解体してその音を受肉化するためにテクストにない反復を断行していた部分はあったとはいえ、話されるセリフの扱いは禁欲的であった。その一方で、視覚化のためのト書きは大胆に読み替えられていた。
複数的な演出原理を説明なしに同居させながら、ひとつの上演として破綻なくまとめあげていたところ、三島の美意識に寄り添いつつもそこから距離をとり、かといって、完全に相対化するのでもなければ完全に我有化するのでもなく、いわば自由間接話法的に、三島の声を模しながら同じ話を別の形で具現化してみせたところに、石神の独創的な手腕があったと言っていいのだとは思う。きわめて挑発的で、省察や反芻を誘う舞台ではあったとは思う。しかしながら、わたしとしては、この統合されざる単なる複数性に、いまひとつ納得できない思いを抱いてもいる。