2020-01-01から1年間の記事一覧
シャーンドル・ヴェーグの音楽は、あたりまえのように表情が濃い。ひとつひとつの音が極限まで磨き上げられているけれども、アンサンブル全体としての音は、不思議なまでに音離れがよく、密集していない。凝縮しているのに、隙間があって粘らない。 静的な面…
生き物の世界では機会さえあれば、動物の美に対する主観的経験と認知的選択によって生物多様性は進化し、形成されてきた。自然界における美の歴史は終わりのない雄大な物語なのだ。(143頁) 進化生物学をそのルーツである優生学から完全に切り離すためには…
「人が後世と呼ぶものは作品の後世である。作品が後世を作り出していかなければならない(同時代にあって、未来のためによりよい読者を複数の天才たちが併行して準備することがありうる。そしてまたほかの天才たちがその読者の恩恵を受けるということが。た…
「地位と人間が表裏一体になっているなどと信じているのは、最初に分割不可能に見えただけで、もう分解して知覚することができないと考える者だけである。ある人間の人生を次々に継起する瞬間瞬間で捉えてみると、社会階層のさまざまな段階におけるそれぞれ…
エーリッヒ・クライバーの音楽には不思議な外連味がある。クライバーの指揮は、基本的に、見通しのよい構築的なものだ。建築的と形容してみたくなるほどに音楽の構造がクリアに立ち上がる。カミソリのように薄く尖った鋭角的で直線的なニュアンスは、彼がバ…
翻訳語考。inequalityは「格差」でいいのだろうか。そこそこ妥当な訳語ではある。「不平等」より耳なじみもいいだろう。しかし、「格差」は、彼我の相対的な差を記述するための言葉にすぎないようにも思う。目指すべき方向性やあるべき状態についての理念は…
コリン・デイヴィスの愚直なまでの生真面目さには生理的な心地よさがある。縦の線が気持ちよく揃っている。何が何でも合わせようとして音を置きにいったのではない。結果的にたまたま音がシンクロしているかのように聞こえるぐらいに、自然に、音のインパク…
「されど、一つの信仰が消えても生き残るものがある──しかも、私たちが新しい物事に現実性を与える力を失ったので、その力の欠如を覆い隠すためにますます強力になって。それはかつて信仰がかき立てていた古いものへのフェティシズム的な執着である。あたか…
セルジュ・チェリビダッケの音楽はどこか妖艶だ。とくに死後に発売された晩年のミュンヘン・フィルとのライブ録音は、実音の生の強度の存在感というよりも、倍音のエーテル的な共鳴の空間的拡がりを強く感じさせる。 極端に遅いテンポと相まって、どこか実在…
カルロ・マリア・ジュリーニの音楽を支配しているのは連綿とした歌だ。それは息苦しくなるほどに濃密だが、肌に張りつくような不快感はない。怖ろしく粘度は高いが、よどむことはない。トロリトロリと流れていく。濃厚だが、重たくはない。折り目正しいが、…
"Thou seest we are not all alone unhappy:/ This wide and universal theatre/ Presents more woeful pageants than the scene/ Wherein we play in." (Shakespeare. As You Like It. 2.7) 「おわかりでしょう、わたくしたちだけが不幸せなわけではありま…
「わたし」を理解すること、理解してもらうこと――それが『わたし』の核心にある主題だ。増田雄が2016年に執筆した『私』を脚色した関根淳子の『わたし』は、関根が言うように、「当事者演劇」と呼んでいいものなのだろう。原作者の増田はADHDであり、関根は…
ブルーノ・マデルナの演奏は異形としか言いようがない。これほどデフォルメした演奏は稀だ。突然のスローモーション、突然の加速、特定パートの誇張、濃厚なカンタービレ。 それらはおそらく、場当たり的なものではない。楽譜分析にもとづいた理知的なもので…
ネヴィル・マリナーの演奏は凡庸だ。マリナーはカラヤンに次ぐ大量録音記録保持者らしいが、カラヤンが良くも悪くもトレードマーク的なスタイルを持っていた――カラヤン・レガート――のにたいして、マリナーの録音は特徴に乏しい。彼の演奏から聞こえてくるの…
エリアフ・インバルは音楽を充実させる。マニアックな版でブルックナー交響曲全集を作ったり、マーラーやベルリオーズといった大規模な大作系の作曲家をコンプリートしたりと、ニッチなレパートリーを網羅的に録音しているわりには、細部を不自然なまでに強…
マレク・ヤノフスキは演奏の速度と音楽の強度を比例関係に持ちこめる珍しい指揮者だ。ヤノフスキは速度を、推進力や運動性ではなく、表現そのものに転化する。 テンポを上げればマスとしての音の凝縮度は高まるが、その一方で、個々の音は痩せてしまいがちだ…
ジェフリー・テイトはサインをもらいにいった唯一の指揮者だ。2000年前後の読響とのエルガーだったと思う。正直、演奏会の内容はあまり覚えていないし、そこまで感動した記憶もない。しかし、なぜかテイトは自分にとって気になる指揮者であり続けている。 同…
地方の公立美術館が所蔵すべき品は何なのだろかと考えてしまう。地元にゆかりのある芸術家、地元を題材にとった作品だけを集めるのは、美術館というよりは郷土館の役割という気がするし、美を郷土愛=主義(パトリオティズム)に帰属させるのは的外れである…
特任講師観察記断章。非対称的な英語能力の必要性。必修のTOEIC科目の中間試験の附録として音読の課題を出し、それを採点していたのだけれど、いまの発音教育はどうなっているのだろう。なんとなくネイティヴ「風」の音声が目指されているような雰囲気は感じ…
まったく、ペストというやつは、抽象と同様、単調であった。(132頁) われわれはあたかも市民の半数が死滅させられる危険がないかのごとくふるまうべきではない、と。なぜなら、その場合には市民は実際そうなってしまうでしょうから。(76頁) 彼らに欠けて…
マリオ・ヴェンツァーゴの演奏は軽さと速さの遊戯である。CPOとのブルックナー全集の軽量級っぷりは、ほとんど常軌を逸していると言ってもいい。敏捷さをここまで前面に押し出した演奏は聞いたことがない。 とはいえ、この軽さが古楽器の影響なのかというと…
ロジェ・デゾルミエールがどういう指揮者だったのか、どうもよくわからない。ブーレーズはとあるインタビューで、50年代に現代音楽をきちんと触れる指揮者はほとんどいなかった(だから自分で振り始めた)と回想しつつ、そのような稀有な例外的存在のひとり…
イーゴリ・ストラヴィンスキーは指揮もする作曲家の系譜に連なるひとりではあるけれど、指揮するのが自作に限定されているという点で、きわめて特異な存在である。 もちろん、自作以外を振っていたことは間違いないと思うし、実際、LAフィルとのチャイコフス…
ベンジャミン・ブリテンの指揮からあふれ出す強い説得力の源にあるのは、流れていくものである音楽の生命力だ。すべてが生き生きと脈打っている。すべてが動き、前に進んでいく。音楽に死んだところがない。 あまりにあたりまえのことではある。しかし楽曲構…
シルヴァン・カンブルランは音楽を層や面において捉える珍しいタイプの指揮者だ。線でも点でもなければ、流れや色彩でもない。パートの音をひとつの帯にまとめあげ、それを地層のように積み重ねていく。 だからカンブルランの作り出す音楽はとこか響きが丸い…
特任講師観察記断章。やることで得られる利益を逃すことよりも、やらないことで発生する不利益を怖れている。学生たちの態度をまとめれば、そうなるような気がしている。 自分で読み込むよりさきに、とにかく聞いてみるというのが学生の基本態度であるらしい…
庭仕事はつづく。ツタの成長速度には目をみはるものがある。ツルはどこか昆虫のようだ。表面にびっしりと強い産毛が生えていて、少し赤味がかっている。先端は触覚や脚のようだ。ほかの植物の枝や茎を支柱のように使い、絡みつき、大きな葉を広げ、光を奪う…
「しかし、ときどき、ふとしたはずみで思考がそれまで気づかなかったその出来事の記憶に出会い、ぶつかったはずみにその記憶をさらに奥に追いやることがあり、スワンは心の奥底に届く深い苦悩を突然のように感じた。スワンがどんなに考えても一向に弱まらな…
特任講師観察記断章。不思議なサイクルになってきている。博士論文を書きあぐねていたときのような、ひたすら酒をあおりながら何かをひねり出そうとしていた留学時代の酔っ払った憂鬱のような、非生産的な生産性。 オンデマンド型の遠隔授業のためのレクチャ…
ハンス・クナッパーツブッシュの指揮技術は傑出していたというが、残っている晩年の映像をみると、驚くほど何もしていないように見える。かなり長い指揮棒を使って、大きな身振りで、几帳面に折り目正しくリズムを刻んでいるだけに見える。音楽の要所で左手…