うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音にひたることの官能性:層や面によるシルヴァン・カンブルランの音楽

シルヴァン・カンブルランは音楽を層や面において捉える珍しいタイプの指揮者だ。線でも点でもなければ、流れや色彩でもない。パートの音をひとつの帯にまとめあげ、それを地層のように積み重ねていく。

だからカンブルランの作り出す音楽はとこか響きが丸い。歯切れが悪いというわけではないけれど、エッジが太い。鈍いわけではないし、濁っているわけでもない。色彩感に乏しいというのでもないけれど、すべてがすこしウェットで、すべてがたっぷりと潤っているので、ミクロな運動性よりも、マクロな不動性のほうに先に気がつく。大河の雄大な流れが一見すると静止して見えるように。

どこか退廃的な雰囲気をまとった湿り気が、カンブルランの音楽から香ってくる。どの響きもひどく艶めかしい。原色のどぎついカラフルさでも、水彩画的な透明感でもなく、半透明であるがゆえにさまざまな色彩が乱反射するもったりとした厚み。それはたとえばブーレーズのような蒸留され純化された水晶的な響きでもなければ、チェリビダッケのようなすべてが共鳴して増幅されて拡がっていく響きでもない。磨き上げの途中で作業を中断することによって、素材の物質感を逆説的に前景化させるような、どこか垢抜けない、どこか抜けきらない、抵抗感のある確かな手ざわり。

カンブルランがメシアンの大家であるのはよくわかる。メシアンには、洗練されたところと垢抜けないところが同居しているけれど、まさにそこが、生々しいというよりも生っぽいと言いたくなるカンブルランの響きと共鳴するのだろう。

 

カンブルランの作り出す音楽には同類がほとんど存在しないと言っていい。カンブルランはキャリアの初期である1970年代半ばに、リヨン歌劇場でセルジュ・ボドのアシスタントを務めていて、はたして彼がどこまでボドから学んでいるのかは知らないけれど、たしかにボドは層的な音楽作りをする指揮者だ。しかしアンサンブル・コンタンポランへの客演を依頼したブーレーズの音楽とはあまり似ていない。

もしかすると、指揮者は、出身楽器の生理に引きずられる部分があるのかもしれない。ラトルが打楽器出身と聞いて納得するように、カンブルランがトロンボーン出身というのは、何か奇妙なほど腑に落ちる。カンブルランの層的な厚みは――個人的な偏見かもしれないけれど――トロンボーン的な泰然自若なところ、ビオラに一脈通じるような、低音でもメロディーでもない接着剤的中間項なところに起因するのではないかという気がしてならない。

 

カンブルランが振ると、現代音楽でさえ、とても肉感的になる。フェルドマンの「ベケットのために For Samuel Beckett」も、ツェンダーの「冬の旅」も、同曲異演に比べて、不思議なほどつややかだ。

そのなかでも、アブリンガーの「雨、ガラス、笑い Das Regen, das Glas, das Lachen」に麻薬的な魅力を感じる。ノイズ音楽に近いのだけれど、なぜか心地よい。毎日聞きたい音楽ではないけれど、たまにひどく聞きたくなる。

 

音にひたることの官能性を教えてくれたという意味で、カンブルランは自分の音楽経験のなかで特別な存在だ。

 

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