音楽メモ
指揮者はかつて、転職してなるものだった。オペラのような劇場付きの指揮者は別として、すくなくとも純粋器楽の指揮者は、キャリアの最初から目指すものではなかった。指揮者は兼業的なものだった。 だからなのか、20世紀の初頭から中頃にかけての指揮者は、…
無国籍な演奏。フリッチャイのモーツァルトのオペラ録音を聞いていると、そんな言葉が頭に浮かぶ。とくに『ドン・ジョバンニ』。ハンガリーの指揮者が、ドイツの放送オケと、ドイツ系のキャストとともに、イタリア人台本作家がイタリア語やフランス語の種本…
複製技術時代の到来とともに、演奏家はそれまで不可能だった自己意識を獲得することになるが、それはもしかすると、強いられたものでしかなかったと言うべきかもしれない。 オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』に添えた有名な序文のなかで、「リ…
リズムの弾力性は肉体的な衰えと密接に絡んでいるのかもしれない。トスカニーニの戦前と戦後の録音を聞きながら、そんなことを考えてしまう。一般に流布している戦後の録音はリズムが硬い。叩きつけるようなアタックと、息苦しくなるほど突進していくテンポ…
音を合わせることはアンサンブルの基本中の基本ではあるけれども、どのようなバランスで、どのようなニュアンスで合わさせるかは、千差万別だ。それに、縦の線を合わせることをあえて意識させないというやり方さえありえる。 その究極的な形態は、合わせなけ…
ある特定の楽器群を響かせるのが異様に上手い指揮者がたまにいる。奏者からの転向組の場合、それはよくわかる。ヴァイオリン弾きのマリナーやヴェーグが弦楽器をリッチに響かせるのが上手かったり、オーボエ吹きのホリガーが管楽器の息遣いを生かすのが上手…
エネスクのバッハの無伴奏の初出レコードは本当に異常に高価なコレクターズ・アイテムだと言うが、幸いなことに今はいくつも優れた復刻CDがあって安価で手に入るのだけれど、現代の聴者からするとまずなにより面食らうのは、外していると感じられるほど独特…
ハンガリーの音楽家たちには共通した特質があると言うのはあまりに大雑把な一般化すぎて、そんな粗雑な議論をする自分に我ながら呆れてしまうけれど、乾いた厳しさのようなものがあるような気がするという自分の感覚を偽ることはできない。 冷たさではないし…
ミカエル・レヴィナスのピアノ録音を初めて聞いたとき、彼があの有名な哲学者エマニュエル・レヴィナスの息子であることを知っていたのかどうか、いまとなってはもう思いだせない。定かではない記憶を無理やり探ってみるけれど、やはり確実なことはわからな…
ピリオド楽器による演奏がすべてそうだというつもりはないけれど、ピリオド楽器は身振りを音化しているのだと思う。音でダンスし、音楽を演奏するという行為それ自体を舞いに変える、そんなふうに言ってみてもいいかもしれない。 それは指揮者の身体の動きを…
なぜそんなことが可能なのか、いまだによくわからないのだけれど、一聴しただけですぐにそれとわかる独自の響きを持っている指揮者がいる。昨年亡くなったハンス・ツェンダーはそうした特異な能力を備えていた指揮者だった。 彼の音楽にいつでもこだましてい…
ハンス・ロスバウトについて書いてみたい。 ロスバウトが半世紀以上前に指揮した録音を聞いてまず思うのはその驚くほど瑞々しい現代性だ。まったく古臭くないし、まったく古びていない。ラモーであれ、グルックであれ、モーツァルトであれ、ブルックナーであ…
響きを透きとおらせるには何が必要なのか。個々の奏者が正確な音程を出せることは大前提ではあるが、それ以上に決定的なのは、個々の音のあいだのバランスであり、マスとしての全体の音のあいだに出現する重層的で複数的な関係性なのだと思う。指揮者はそれ…
最近ニューヨーカーが届くとまずアレックス・ロスの音楽評論があるかをチェックして、そこから読むことにしているのだけれど、それは彼の審美眼(審美耳?)の正しさにますます信頼を置くようになってきたからでもある。いや、もしかすると、客観的な正しさ…
生産的な人間は自分が再現したいと願っているものを完全にイメージして心の中に抱くことができるのだ。(149頁)*1 天才論というコア シェーンベルクの芸術観の根底にはあるのは天才論であるように思えてならない。 独り天才のみが存在し、未来は天才のため…
イタリア語で歌われるとベルクがプッチーニからさほど遠いところにいるわけではないことが直感できる。 彼らの室内楽的なアンサンブルは、リヒャルト・シュトラウスのものと比べると、響きの層に中抜けがある。それはマーラ―の9番の系譜に連なる不安定な音響…
アンサンブルほどデモクラシーの原理にのっとっているものもない。そこでは、互いに異なる存在たちが、まさにその多様性ゆえに尊重される。本質的に異質な存在が、同じひとつの目的のために、様々な役割を演じる。どれほどちっぽけなパートであれ、たとえほ…
微妙な見下しのニュアンスがある「伴奏ピアニスト」――ソリストとしては一本立ちできない二流のピアニスト――という肩書はいまも使われているのだろうか。 室内楽における伴奏は、ソロと同じように、動機を発展させ、和声を確保し、リズムを刻んでいく。たしか…
パリのコンセルヴァトワールの院長就任翌年の1906年に作曲されたエチュード・ヴォカリーズは、まずなにより教育的な「練習曲」として意図されていたのかもしれないが、ここには、その後に紡ぎ出されていく晩年のピアノ曲や歌曲や室内楽曲に通じるような雰囲…
超絶技巧もここまでくると、適当に弾きとばしているかのように聞こえてしまうが、もちろんそんなことはない。作り込まれた自然さであり、突き詰められた融通無碍だ。 この軽やかにスルスル前に進んでいく流れは、バロック弓と低いチューニングによるところが…
『ニューヨーカー』でアレックス・ロスが褒めていたDanish String Quartetは久々に「これは!」という演奏だった。旋律の叙情性をエスプレッシーヴォで表現しつつ、どの音もほかの音と意識的に重ね合わされている。 音を時間的にシンクロさせるのはわりと機…
ルロイ・アンダーソンの音楽の圧倒的な多幸感は何なのだろう。どことなくクリスマスを感じさせるからだろうか。あまりに長い間クリスマス音楽として使われてきたせいで、クリスマス性を後天的に獲得してしまったからだろうか。Wikipediaを見ると、かなり面白…