パリのコンセルヴァトワールの院長就任翌年の1906年に作曲されたエチュード・ヴォカリーズは、まずなにより教育的な「練習曲」として意図されていたのかもしれないが、ここには、その後に紡ぎ出されていく晩年のピアノ曲や歌曲や室内楽曲に通じるような雰囲気がある。行きつ戻りつする循環的な旋律線、移ろいゆく和声、余白を開くような付点のリズム、そして、それらの相乗効果として生まれてくる、物憂げでありながら、切なく苦しいまでの憧れの雰囲気。
表面にあるのは、技術修練のための音高の跳躍や音価の変動であるけれど、随所で使われる半音階という連続とオクターブという不連続を切れ目なく繋ぎ合わせるやり方は、この曲がポスト・ワーグナーの時代に属することを、和声の色彩は、これが20世紀のフランス音楽と文脈を共有していることを、疑いないかたちで告げているし、ピアノの中音域の静かに自発的なムーブメントには、フォーレの個性がはっきりと刻印されている。
それに、さまざまな空耳も聞こえてくる。まるでベリオのシンフォニアを先取りするかのように。冒頭はシューベルトの『冬の旅』第7曲「川の上で」とそっくりだ。いや、既存の曲からの引用で出来たインターテクスチュアルなピースというよりは、あらゆる曲ーーすでにある曲、いまだない曲をふくめてーーの素材であるような断片のコラージュというべきだろうか。西洋音楽の原‐テクストからのこだまがある。
まちがいなくフォーレの作品でありながら、フォーレの個々の音楽作品のむこうにある、フォーレを越えた西洋音楽世界との共鳴が、この小品から聞こえてくる。