うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20250505 『ラーマーヤナ物語』@駿府城公園を観る(続き)。

かなり批判的な内容になったけれど、パフォーマンス自体は楽しめたし、つまらなかったわけではない。しかし、このようなプロットに落とし込むなら、ラーマーヤナでなければならなかったのかという気がした。まあ、予習に使ったのは、河田清史が子ども向けに翻案したものなので、そもそも自分のラーマーヤナ理解がどこまで正しいのか疑問はあるけれど、河田の翻案でも濃密に感じられた神々の存在感や、仏教と似ているようで異なる因果応報や輪廻転生の世界観は、ほとんど取り入れられていなかったように思う。

前半の見せ場のひとつである鳥とのやりとりは、スペタクルとしては映えるものではあった(男性陣による翼の操作は、女性陣による猿の動きが集団としてはいまひとつバラけていたーー演技の質が揃っていなかったーーことと比べると、見事に統制が取れていた)。しかし、主題的な意味で必要だったのかとは思うところ。

野外という空間をうまく生かしていたのは、終盤の乱戦を、舞台を越えて、公園の木々のほうにませ拡大していたところ。花火の使用も、屋内では不可能であるし、有度でも難しかっただろう。しかし、野外であることのアドバンテージを存分に生かしたやり方かというと、どうだろうか。軽トラによる輸送は、どうしても『マダム・ボルジア』を思い出してしまい、その意味でも二番煎じ感があった。

ある意味、一番攻めていたのは音楽だったと思う。これまでのSPACの枠内には収まらない、新しい方向性が打ち出されていた。棚川さんの音楽では、同じリズムが何度も反復されるからこそ、そこにはある種のトランス感があり、太鼓系のリズムが基調をなしているからこそ、鉄琴や鐘のキラキラした音による旋律が彼岸的な空気感、天上的な雰囲気を作り出し、それらがフルで用いられると、爆発的な高揚感や祝祭性につながっていったけれど、今回の音楽は、ベースとなる部分がかなり複雑で、描写音楽としての解像度が高かった。しかし、裏を返せば、技巧的ということであり、それは舞台上の意図的なプリミティブさといまひとつマッチしていなかったようにも思う。

舞台を見ながら、『ギルガメシュ』はここで触れたような問題をわりとうまくまとめていたことにあらためて気づかされた。そして、実はここで挙げた問題はすでに『白狐伝』にあらわれていたのだけれど、題材が日本的なものであったのでーー物語の世界観が馴染みあるものであったのでーー、本当は足りていなかったのかもしれない部分をなんとなく補正しながら見てしまっていたのだろう。