宮城聰は迷走しているのではないか――そのような印象が終始付きまとい、最後まで拭い去ることができなかった。インドの叙事詩『ラーマーヤナ』を題材とする本劇は、ある特定の土地における神話的物語を脱土着化し、日本的なテイストをスパイスとしてふりかけ、想像的に捏造されたアジアへ再文脈化する一連のプロジェクトに連なるものであろう。
しかしながら、ギリシア悲劇に仏教的な鎮魂をクロスオーバーさせた『アンティゴネー』や、インドの叙事詩に影絵芝居や日本的な衣装をペアリングさせた『マハーバーラタ』、日本の妖怪物語をアジア的な壮麗さに開いた『天守物語』は、時間をかけて練り上げられたワーク・イン・プログレスであり、宮城の代名詞であるモダニズム的な切断と再接続——言葉と動作を独立させたムーバー/スピーカーの分業制、言葉を意味から解放させるコロスの重層的重唱、相対的に自律する言葉と身体と音楽のシンクローーが、必然的なかたちでパフォーマンスに統合されていた。それに比べると、『ラーマーヤナ物語』では、メソッドが自己目的化してしまっているように感じられた。端的に言えば、マンネリ化しているように思われたのだ。
全7巻にわたる長大な叙事詩を90分に圧縮するのだから、相当に剛腕な編集が必要になる。プロットは圧縮されるし、キャラクターも絞り込まれる。超人的なヒーローと超人的なヒールのバトル。誘拐された妻を救おうとする夫、助っ人となる弟と猿たち、妻をさらった悪役とその息子。そして、必然的に、主題も厳選されるわけだが、幕切れ前で導入される、救出した妻を信じることができない夫の苦悩は、たしかに原作どおりの展開ではあるものの、唐突感は否めない。それまでの話が冒険活劇であっただけになおさら。
配役は意図的にジェンダーを反転させていた。ラーマ王子にしても、その弟にしても、ムーバーもスピーカーも女性であり、猿たちも女性が担う。その一方で、悪役側は男性が独占する。ここに何か深い演出的もくろみがあったようには思われなかった。面白い試みではあるものの、アイディア倒れに終わっているように感じられた。
ここに欠けていたのはコロスである。叙事詩は単声的なものなのだろう。たとえそこに集団の声が織り込まれていようと、それを語るのはさまざまな役柄を代弁するひとつの声であり、だからこそ、複数的な響きに開くことが難しいようである。ここには、物語をその外部から注釈する弁士はいても、物語に内包されているはずの集合的(無)意識を体現するような存在はいない。
舞台はわりと目まぐるしく転換する。それを補助するためだろうか、楽器を積んだ軽トラがシーンの交替にともなう登場人物の入れ替えを、ユーモラスに演出する。そして、古代の神話的物語に、軽トラという場違いな機械が紛れ込むことで、わたしたちはこれが芝居であることを強く意識させられる。想像の共同体を立ち上げるというよりも、想像の共同体の虚構性が前景化される。
シンプルなプロットだからこそ、俳優の特性がストレートに顕わになっていた。圧倒的だったのはラーマ王子のムーバーを演じた美加理である。静止しているときはあたかも人形のように見えるし、まるで人形であるかのように身体の一部のみを可動させる。しかし、軽やかにステップを踏むときは、重力の制約を受けていないかのように、優雅に舞う。不思議なことに、彼女が指先を伸ばすと、観客席の最後尾からでもそれがはっきりと見える。彼女の表情は能面のようであり、あまり動かないにもかかわらず、無限のニュアンスを帯びている。彼女の圧倒的な存在感を前にしては、ラーマの弟のムーバーのながいさやこも、ラーマを助けるハヌマーンのたきいみきも、動きすぎているように感じられてしまう。
寺内亜矢子による音楽は、これまでの宮城作品の作曲家であった棚川寛子のそれとは、随分異なる。寺内の音楽は、こう言ってよければ、説明的で効果音的であった。その結果、音楽は、舞台における動作や言葉に拮抗するというよりも、それらに従属し奉仕するかたちになってしまっていたように思う。もちろん、それはそれできわめて効果的ではあったものの、俳優が演奏することの必然性は弱まってしまっていたのではないか。
叙事詩とは、英雄の超人間的な勲を語るばかりではなく、英雄の人間的な弱さを語るものでもあり、だからこそ、数千年にわたってわたしたちを惹きつけてきたのだというまとめは、たしかに腑に落ちる。俳優ばかりか、裏方のスタッフをも舞台に載せ、「このようにして叙事詩が始まった」と唱和させるのは、感動的ではある。しかし、その前振りとして、叙事詩の意義を言葉でくどくどと語ってしまうのは、たとえデウス・エクス・マキナとしても、あまりにわざとらしい。
宮城の模索は感じられる。十分に満足させてくれる舞台ではある。しかし、それ以上を期待させて欲しいところでもある。