うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20250516 安堂ホセ『デートピア』(河出書房新社、2024)を読む。

読み終えたのは2、3週間は前のことで、だいぶ内容が抜けてきているが、あえて再読はせず、記憶に残っているところを中心に書き留めておく。

 

舞台となるのは南の島、「フランス領ポリネシアのボラ・ボラ島」(3頁)。そこで、ミスユニバースの女性をめぐって十数人の男たちが競い合うリアリティー番組「DTOPIA」の撮影が行われている。男たちは各国を代表する存在であり、互いに協力したり、相手を出し抜いたりして、なんとか女性の気を引こうとする。裸体がフィーチャーされ、セックスがクローズアップされる。

この番組はストリーミングと完全に連動しており、視聴者は制作者が編集した番組だけではなく、未編集の別視点のカメラからの映像を見ることもできるし、そうすることで、自分の推しのショットを愉しんだり、または、制作側が意図しなかった関係性を参加者のあいだに読み込んだりすることができる。

視聴者のコメントもまた、この番組の生態系の一部をなしている。小説のなかにも、そのようなコメントがふんだんに割り込んでくる。視聴者の解釈が番組の方向性を決めている部分があるとさえ言える。

21世紀のショーの宿命として、人種的なもの、ナショナルなものが、炎上のネタとなる。ひとりの女をとりあうという軽薄なバトルに、現代的なポリコレ的配慮が入り込んでくる。

 

物語の冒頭を何気なく読むと、現代的な主題に飛びついただけの小説のようにも見えるが、安堂ホセのテクストには最初から違和感が仕込まれている。「おまえ」という二人称の多用だ。

二人称を使った小説は、すでにある。マルグリット・デュラスが試していたし、イタノ・カルヴィーノもそうだ。だから、安堂による二人称の使用自体は、とりたてて新しいギミックではない。

しかし、ここで特徴的なのは、「おまえ」と名指されるのが、読者ではなく、小説内のキャラクター「Mr.東京、こと井矢汽水」であるところ——この点は始まって数頁のところで明記されている——、そして、そうであるにもかかわらず、執拗に繰り返される「おまえ」という呼びかけによって、読者は、自身が「Mr.東京、こと井矢汽水」であるかのようにも思えてくるところである。

小説はキャラクターの生に深く分け入っていくことができるメディアだが、一人称や三人称よりも、二人称で主人公を名指すほうが、読者をより深く導いていくことができるのかもしれない。というのも、一人称にしても三人称にしても、それが読者と別人であることは明白だが、二人称が使われると、別人であるとわかっていながら、それでも自分が呼びかけられているように感じてしまうからである。

 

とはいえ、二人称の呼びかけがつねに成功するわけではないだろう。読者と、テクストが二人称で呼びかけるキャラクターとが、あまりに隔たっていたら、読者はキャラクターを自分事として引き受けることができないかもしれない。または、そのような隔たりを抱えてキャラクターを自己に投影させることは――そう、一人称や三人称の語りでは、読者は「わたし」や「彼」「彼女」に自己を投影することになるが、二人称の語りでは、それとは逆に、「あなた」のほうが読者に投影されることになるのではないか、まるで読者が「あなた」と呼ばれるキャラクターの影になるかのように―――、自己分裂的な状態を引き起こすだろう。引き受けることのできない自己イメージと、自分自身のあいだに、軋轢が生じるだろう。

 

事実、『デートピア』の物語が、ボラ・ボラ島での撮影の話から、「井矢汽水」と「私」こと「モモ」の話——過去篇——へとさかのぼっていくなかで、わたしたちは、このふたりの特殊な――すくなくとも、統計的な意味ではマイノリティである――セクシュアリティと差し向かいになるからだ。

当時は「キース」と呼ばれていた「汽水」は、彼に言わせれば「一応韓国とのハーフ」(49頁)であり、彼は「モモ」の睾丸を、同意のうえで、素人手術で摘出しようとする。そこから、ふたりの親を巻き込んだ物別れに終わる話し合い――ただし、ここで物別れに終わるのは、キースとモモでもなければ、キースの母とモモの父でもなく(モモの父は一方的にまくしたてる)、親たちと子どもたちの関係である――へと発展していく。そして、キースは睾丸を摘出するという闇バイト的な世界に、反グレ的な世界に入り込んでいく。

そこで安堂が披露する現代社会についての省察はきわめて興味深いし、なかでも、新興富豪とスピリチュアリズムの危うい結合についての分析は見事である。

彼らのような富豪は従来の保守的な宗教を好まない。自分たちのように膨大な富を 独占することは、普通にどの宗教でも悪徳とされているから、もっと自由な解釈のスピリチュアリズムで世界を捉えようとする。その核にありがちな二つの大きなイメージが、 古代文明と宇宙。このイメージで現実をみることで、あらゆる不都合を受け入れようとする。富の不均衡、労働、紛争といった面倒事を、古代からずっと続く営みとして捉えること。ニュースで報道されているいざこざはあくまで人間の摂理であり、ピラミッドの上部にいたのはいつの時代も人間のふりをした宇宙人だった、つまり自分もまた、人類の常識外からやってきた宇宙人なのかもしれない、というイメージを彼らは好んだ。かつてアメリカに奴隷として拉致された黒人たちが「自分たちは宇宙人に連れ去られた」と連想したアフロフューチャリズムを、ちょうど真逆の立場から補完するようなスピリチュアリズムが、成金スピ界隈では根強く人気だったみたいだ。(85頁)

ただ、小説のこの部分は、サディズム的な描写と相まって、話としては読みごたえがあったし、引き込まれるところが多かったものの、ここに深入りする理由がいまひとつわからなかった箇所でもある。小説が何か別の方向に逸れ、そこで独自に増殖してしまったかのような印象を受けた。

 

小説の中盤をかたちづくるこのような過去篇を経て、物語はふたたびボラ・ボラ島に戻ってくる。しかし、「おまえ」と「私」、「汽水」と「モモ」の過去を知ったいま、読者はもはや、物語前半と同じようには「おまえ」という二人称の呼びかけを引き受けることはできないだろう。読者と「おまえ」/「私」の隔たりはもはや明らかである。物語は、読者に開かれるというよりも、「おまえ」と「私」のあいだで閉じていく。

しかし、そのようなふたりの親密な交わりのなかに、ふたたび歴史をまなざす批判的な言葉が入り込んでくる。島民であるマルセルが、島の歴史を語る。宗主国フランスが、どのようにして植民地を懐柔しようとしたのか――あからさまな暴力ではないがゆえに、いっそう性質の悪いやり方で――を、語り出す。

例えば多くの植民地には軍の基地が置かれているけど、そこでは軍人と現地民の間で子供が生まれるよね。で、フランス海軍のポリネシア撤退を訴えることは簡単だけど、その結果として生まれた子供を前に、軍をはじめから設けなければ良かったと言える人は少ない。それは現実の人間に生まれなければ良かったって言ってるのと同じだからね。デート兵は、生きた子供を使って、『歴史上のこれ以前には逆行できない』っていう杭を打った。植民地ではいろんなものが兵器になるんだ。 銃、核、選挙権、性欲、愛、 子供⋯⋯ほぼ全ての行動が、 力関係の中で兵器になれる。おれたちの笑顔も、この世界を温存させ、時間の流れを固定していく。 やばいよね(152頁)

 

鈴木結生の『ゲーテはすべてを言った』が細部まで周到に構築された完成度の高い秀作であるとしたら、安堂ホセの『デートピア』は野心的な実験作である。現代社会の問題——ネットという魔窟、アングラ経済、人種やセクシュアリティ、マイノリティの生——を深く抉ってくるのは安堂のほうであり、圧倒的な迫力がある。語りの人称の実験性という意味でも、安堂に軍配があがる。しかし、テクストとしてのほころびのなさとなると、鈴木には及ばないだろう。『デートピア』は力業で押し切ったようなところがないとはいえない。

 

鈴木の『ゲーテはすべてを言った』は、翻訳されても面白いだろうかという気はする。鈴木の小説の面白さは、こう言ってよければ、ミステリー小説的なプロットの妙にあるのだから、翻訳されることで面白さが減じはしないはずだが、にもかかわらず、『ゲーテはすべてを言った』は翻訳によって何かが変質してしまいそうな気もする。

その一方で、安堂の『デートピア』は翻訳に耐えるように思う。文体がテクストの基幹的なところをかたちづくっているテクストであるにもかかわらず、安堂のテクストはむしろ翻訳されることによって、そこにはらまれていた潜在的な可能性が別のかたちで開花するようにも思う。その意味では、「生まれつき翻訳 born translated」なのは『デートピア』のほうだろう。