うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。実技としての英語。

特任講師観察記断章。ここまで大多数の学生ができないとなると、学生のほうの努力不足ではなく、日本の英語教育の構造的欠陥ではないかという気がしてくる。アクセントとイントネーションのことだ。

カタカナ発音よりもよほど大きな問題だろう。アクセントがわかっていないから、フレーズのなかにコントラストがない。コントラストがないからフレーズからフレーズへの推進力もない。フレーズが死んでいるから、センテンスときてはもう死んでいるどころではない。

英語はアクセント(山)とアクセントなし(谷)のシラブルのあいだに大きな濃淡があり、そのギャップが旋律に山と谷を作る。グッとパワフルに踏み込んで、山から谷に向かってスピーディーに下り、すそ野で自然にスローダウンし、そこから再び山頂にヒョイと軽やかに伸びあがり、再び谷に降下していく。高いところから低いところに水が自然に流れ落ちるように。音高の上下移動は物理運動のようなところがある。それが文章の内部に自然な加速と減速を生む。

アクセントとアクセントなしのあいだに音価の差があるからこそ、長い音と短い音が生まれる。山と谷の間隔は一定ではなく、短いところが連続していきなり長くなったり、比較的長いものが定期的に続いたり、パターンはさまざまだ。イレギュラーなパターンだからこそ、そこに宿る推進力は有機的であり、弾力がある。

アクセントの有無が、文章の音高(垂直関係)と音価(水平関係)の両方に凹凸を作り出し、その粗密状態からエネルギーが発生するわけだが、英語のセンテンスに内在するエネルギーの潜在的な流れを見抜くセンサーをすでに装備している学生はほとんどいない。

本当に不思議でしかたない。コミュニケーション英語をプッシュしてすでにかなりの年月が経過したはずだと思うのだが、アクセントやイントネーションを正しく実践できる学生はほぼゼロだ。単語単位でのアクセントについていえば、そこまでひどいわけではないが、フレーズ単位、センテンス単位のアクセントとなると、壊滅状態である。抑揚のない平板なイントネーションがなぜこうも蔓延しているのか。

やればやるほど、これはもう知識=情報の伝播ではなく、経験知=ノウハウの伝授であることがはっきりしてきたし、言語と身体の関係を根本から考え直さないといけないことがますますあきらかになってきた。

ひじょうに困難な挑戦ではある。クラス全体に説明し、各自で練習させ、グループで確認し合った後、ひとりずつ実演させ、細かくダメ出ししながら出来るようになるまで繰り返させる。どういう指示を出せば求めている結果が得られるかがだいぶ見えてきたので、個人的には大いに楽しんでやっている。ブッキッシュに英語を学んだ自分がこんなことをここまでプッシュするのは奇妙な気もするけれど、いま自分が教えているのは、実技としての英語であるようだ。