うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。タトゥーについて。

アメリカ観察記断章。タトゥーについて。自分の見るかぎり、タトゥーをしている人は、三つのグループに分けられる。ひとつ、アスリート(そしてその民衆的な反映としてのブルーカラー)。ふたつ、セレブリティ(そしてその反映としてのファッショニスタ)。みっつ、反体制な人々。

これらは必ずしもオーバーラップしない。アメリカのメンズファッションは基本的なところでマッチョなので、ひとつめとふたつめは連続的だけれど、必ずしも同意しないし、それどころかみっつめと相補的ではない。アスリート的なものは徹頭徹尾マッチョだが、ファッション的なものは必ずしも100パーセントそうではない。アスリート的でものすごくダサい者もいれば、ファッション的だがマッチョではない者がいる。

ただ、日本に比べると、アメリカのメンズファッションはあくまで「メンズ」だと思う。メンズでどこか「フェミニンさ」を思わせるものは相当に稀で、そういうものは大抵インポートものである。ブティックのウェブサイトに載っているメンズモデルを見ると、いろいろと違いはあれ、絶対にどこかでマッチョで、それを表すための標識が(とくに痩せ型の男にとって)タトゥーなのかもしれない。

一方の極に、こうした「肉体系」の男たちがいる。だから、なぜ「文科系」で「高学歴」で「人文学専攻」の大学院生がタトゥーを入れるのかいまだによくわからないでいる。日本でもそうであるように、左翼的な政治はアメリカでも、非「体育会系」的な人々によって担われているように思われる。

しかしもし日本の左翼的なものがざっくり言って文科系かつ知的なもの「でしかない」とすると、アメリカの知的左翼には「アウトドア系」が多いようにも思うし、自分のような引きこもり系なラディカルはここで外れ値なのだと思う。比較文学科の友人たちを見ているとそんな感じがしてくる。アメリカにおけるアウトドアは、保守的なものでもあれば、革新的なものでもあり、体育会系的な娯楽でもあれば文科系的な快楽でもあるらしい。

アメリカの左翼=反体制には、伝統的な文化があるように思う。だからアメリカにおいて、左翼であることは、単なるポーズである以上に、何らかの文化的価値観(それはそれ自体として結構クールな代物である)をまとうことであり、そうした価値観はベジタリアニズムとか環境保護とかと地続きであるように思う。左翼は、言葉の深い意味で文化的であり、政治的であると同時に(それ以上に)文化的な事柄でもある。

まとめてみよう、アメリカでは、左翼でありながら文化的にスタイリッシュであることは不可能ではないし、左翼でポップであることもまた可能である。言うなれば、政治は文化であり、それ自体としてなんの華燭もなく魅力的である。おそらく日本の左翼にかけているのは、こうした本源的なポップさではないのかという気がする。

日本でもアメリカでも、政治そのものはクールでないかもしれない。しかしアメリカでは、政治的であることは絶対的にクールでないわけではない。そしてこの「ないわけではない」が重要なのだ。

政治をエンターテイメントにしてはならない。しかし政治からエンターテイメント的なものを、文化的なものを、完全に排除することは、危うい。おそらく日本の左翼にとっての課題は、政治を真面目なものにしておきながら、そこにポップな弾み方を持ちこむことではないだろうか。