うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。政治的だけれどローカルかつ具体的な公報活動。

アメリカ観察記断章。今日カフェテリアそばのちょっとしたステージのようなところを通ると、「mental health awareness week」という小さな看板がステージにポツンと置かれていた。アメリカで長らくキャンパスライフを送っているけれど、こういうPR活動の活発さにいつも驚かされる。たとえば2月はBlack History Monthで、その手のトピックが大々的に取り扱われる。これはナショナルな毎年のイベントだが、うちのキャンバスについて言えば、毎学期のようにパレスチナイスラエルの公報合戦があり、先日など図書館そばでいかにイスラエルのチェックポイントがいかにパレスチナの人々の生活を破壊しているかを寸劇形式で訴えていた。ジュディス・バトラーはあるインタビューでアメリカにおける政治活動がしばしば「目に見えるようになり、話題に上るようになることbecoming visible and sayable」に終始してしまっていると苦言を呈していたが、こうした政治的だけれどローカルかつ具体的な公報活動が日常的な一コマとしてあたりまえのように行われているのを目の当たりにすると、日本で政治(的なもの)が日常生活から隔絶していることを実感させられる。アメリカにおいて生存するにはまず見えるようになり語られるに足る存在にならねばならないのかもしれない。だからこそコミュニティにおける記憶の継承は重要で、それが文化的かつ政治的なアイデンティティを形成していく。たとえばアルメニア系の人々は相当深いところで第一次大戦期におけるトルコによる虐殺の記憶を継承しているし、それを雄弁に語り、語り継いでいる。移民先であるアメリカにおいて故郷の歴史=記憶を伝えていくことがどういう意味を持つのかいまひとつ実感としてわからないでいるのだけれど(現在におけるアメリカ人としてのアイデンティティと、伝統=歴史としての(たとえば)アルメニア人としてのアイデンティティがどういうふうに同居しているのか個人的によくわからない、しかしこれはつまるところ、日本がそうした二重の文化的=民族的アイデンティティを許容していないからだろうか、そしてそういう「単一民族イデオロギーのなかで育ってしまいそれを長いこと自然化してしまったからだろうか)、アメリカにおける政治的意識はかなりローカルでコミュニティー・ベースである。もちろんこうしたローカルな政治意識がどこまでナショナルなレベルにまで昇華されているのかはすこし疑問があるけれど、少なくとも、もっともベタな次元において、アメリカに暮らす人々は何かしらの固い基盤を持っているように思う。