うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。非情動労働的なアメリカの接客小売。

アメリカ観察記断章。アメリカの接客業や小売業を見ていると、日本のそれはむしろ情動労働affective laborに近いのではという気がしてくる。たとえばアメリカのスーパーのレジ打ちはかなり適当だ。妙にフレンドリーに絡んでくる人もいるが、おざなりな挨拶(hi, how are you, did you find everything okay?)の後ほかの店員とおしゃべりしてこちらを見ないことも珍しくない。「レジに商品を通して袋詰めすることで金を貰っている。あんたに丁重に対応するかはこちらの気分次第だ。それで何が悪い」といわんばかりに。アメリカの労働者は肉体的な労働力「だけ」を売っている。さらに正確に言えば、彼ら彼女らは物理的な労働力だけを雇用者に売り、感情的な部分については資本家に売り渡さない。それはチップが期待できる場面においてのみ換金対象になり、その時でさえ、それを売りつけるのは雇用者ではなく顧客である。ところが日本(のフランチャイズ化された大衆小売店や飲食店)で働くということは、顧客にたいして平身低頭に振る舞うことをすでにつねに意味しているように思う。つまりここでは、物理的な労働力ばかりか、精神的感情的な部分まで含めて自らを雇用者に売り渡しているということになるのかもしれない。「お客様は神様です」とはよく言われるが、これが「お客様は神だ」ではないのは重要だと思う。つまりここでいう「神」とはユダヤ=キリスト=イスラム的な上から顕現する一なる絶対神ではなく、季節ごとにやってくる多神教的な「かみさま」なのだ。訪れる神様、それは幸運の運び手でもあれば不幸をもたらす存在でもあり、それがどちらに転ぶかはおもてなしの巧拙にかかっているところがある。この意味で、日本の飲食産業が食べログのような口コミ(「かみさま」の気まぐれ)に敏感なのは民俗学的に納得できるところがある。何だかんだで日本はいまだにかなり「迷信的」なパラダイムのなかで暮らしているのではないか。日本はアメリカ以上に郊外化が進んでいるが、にもかかわらず、嫌になるほどポストモダンでありながら依然としてプレモダンな呪術性が残っており、それどころか、そうした非合理的なもの=非啓蒙的なものがいまだにローカルな生の底にあるように思われる。