ジュールズ・ゲイルとフライガイスト・アンサンブル(自由精神合奏団)——旧名アンサンブル・ミニ——による、室内楽的に編曲されたマーラーやブルックナーは、原曲に囚われはしないが、原曲から乖離するのではなく、離反したうえで回帰する、オルタナティヴなクリエーションになっている。
大オーケストラが物理的に使えないという実際的な制約に起因する、仕方のない妥協策ではなく、「あえて」の二次創作であり、さらに言えば、オリジナルを超越しようとする野心的な試みでさえあるかもしれない。原曲の(絶対に不可能な)再現ではなく、原曲に備わっている(絶対に開花するはずのない)潜勢力の現働化。オリジナルに比肩できない代替物ではなく、その別の可能性を現出させる再創造。
それほどまでに彼らの試みはラディカルに聞こえる。というよりも、肥大したオーケストラを各パートひとりに切り詰めるという発想は、音響的な意味でのオリジナルの忠実な再現からは出てこない方向性であるように思う。
指揮者が編曲者であり、かつ、アンサンブルの創設者であるという三重の役割を引き受けている。これは歴史的に見ても珍しい存在様態だろう。たとえば、20世紀音楽の守護聖人のひとりとも言うべきパウル・ザッハーは、スイスのバーゼル室内管弦楽団の創設者にして指揮者であり、様々な作品の委嘱者ではあったものの、彼自身は創作側には回らなかったはずだ。ピエール・ブーレーズとパリのアンサンブル・アンテルコンタンポランのように、作曲者が自身の新作を当て書きすることはあったし、第一次大戦後のストラヴィンスキーのように、大オーケストラを揃えることが物理的に困難な状況のなかで小オーケストラ向けに作曲するたという流れもあった。しかし、指揮者・編曲者・楽団主宰の三つを同時にこなすというのは、やはり異例だろう。
1983年生まれのジュールズ・ゲールの経歴もなかなか異色だ。もともとはヴァイオリン奏者。オックスフォード大学では音楽学を専攻し、ロンドンの王立音楽大学では声楽を学んでいる。2007年に卒業した後、ジョン・エリオット・ガーディナーが率いるモンテヴェルディ合唱団に研修生として加わってる*1。指揮者の技術はその時分に学んだらしい。同年、マーラー指揮者コンクールのファイナリストに残る*2。ノリントンとパーヴォ・ヤルヴィからも学んでいる。前者からはピリオド演奏を教わり、後者の代役として指揮台に立ったことがあるそうだ。
フライガイスト・アンサンブルが結成されたのは2010年のこと。「ドイツのトップオケのソリスト」で構成される団体であるとゲールの公式サイトは述べている。アンサンブルの公式サイトの謳い文句はさらに大仰。「新たな聴衆のために超交響的音楽をもっとよいかたちにする、ドイツの交響楽団の超音速のソリストからなる、勇気あふれる団体(コレクティヴ)[a courageous collective of supersonic soloists from German symphony orchestras that repackages super symphonic music for new audiences]」。メンバー表を見ると、ヴァイオリンとヴィオラに日本人らしき名前が見える。映像で見るかぎり、奏者たちの国籍は多彩であるようだ。
編曲は案外素直。基本的に各パートのもっとも音程の高い音をキープしていく。下の方の音は、別パートとのアンサンブルで補完するか、鍵盤楽器に拾わせているようだ。主旋律優先的であり、奇をてらった感じはない。
ただし、パートを一人で演奏するということは、パートの音が必然的に薄くなることを意味する。チェリビダッケはたしかリハーサルの最中、弦楽器奏者に向かって、「全力で弾かないように」と指示していたように記憶している。個としての音を主張するのではなく全体の音楽と調和するには、ソリスト的なアグレッシヴさとは異なる感性が必要であり、周囲と溶け合う音色を優先するためにあえて音量を落とすべであるということを言おうとしていたのだと思う。他者の音と自分の音の輪郭を溶かして、相互に浸透させることは、副産物的に出来てしまうことではなく、主体的に試みなければならないことなのだ。
フライガイスト・アンサンブルの弦楽奏者たちはかなりゴリゴリと弾いている。一人で木管や金管と拮抗するには、物理的な音量はどうしても必要なのだろう。にもかかわらず、マスとしての音は、互いに隔絶したソロの寄せ集めにはならず、しっかりと混ざり合って聞こえる。不思議なほどに。
これはもしかすると、演奏空間の音響の助けがあるのかもしれない。とくにブルックナーは、かつての発電所をアートスペースにリノベーションしたというベルリンの MaHalla で演奏されているけれど、厄介なくらい長い残響がありそうな雰囲気もある。
とはいえ、つまるところ、この編曲は、誰が演奏することになるかを知りながら編曲した当人が指揮するからこそ聞き映えがするという可能性は大いにあるだろう。別団体がこれほどうまくこの編曲を音楽にできるかは未知数であると思う。
ふと気づいたことがある。ゲールの声楽/合唱というバックグラウンドだ。オーケストラよりも合唱のほうが、一人一パートのようなミニマムな形態に馴染んでいる部分があるかもしれない(バッハのミサ曲の合唱パートをソロで歌うという試みはすでに1980年代から試されてきている。また、ソロであるかどうかを問わず、合唱は器楽よりもはるかに声を「合わせる」ことに、しかも、リズム的な同時性ではなく、音響・音色的な意味でシンクロさせることが肝要であるように思う。ゲールの響きの感覚、そして、器楽的ないわば工業的に作り出された流線形とは異なる、有機的でフリーハンドな流線形の流れと勢いは、声楽的なものなのかもしれない。
ここには合奏することの圧倒的な歓びがある。それでいて、それに耽溺しすぎることのないニヒルな自意識もある。このような二面性にノリントンの影響が感じられる。
学術的で、批判的だが、生理的で快楽的でもある。ユーモアとアイロニーがみなぎっている。ブルックナーの8番3楽章のシンバルを指揮者みずから鳴らそうというのは、自身を指揮者としてのみ捉えている人間には絶対に出てこないアイディアだ。
クラシック音楽を新たな可能性に、新たな聴衆層に開くために、ポップスにクロスオーバーする必要はないのかもしれない。それは、クラシック音楽のポテンシャルを信じ切れていないことを露呈することにしかならない。むしろ、クラシック音楽の源流を遡ること、コンサートホールという近代的制度とその因習的な期待から逃れるだけで、クラシック音楽はもっとずっと面白くなることを、ゲールたちは実地に証明してくれている。
バルトークのルーマニア民俗舞曲をダルブーカと呼ばれるアラブ圏の金属製の太鼓を軸にした編曲に、聴衆は大いに沸いている。旋律もリズムも大筋ではバルトークの音楽そのままなのに、そこに同じくアラブ圏の撥弦楽器であるウードが加わり、中国起源のヨーロッパの産物である無国籍的なアコーディオンが入ると、バルトークの西欧的モダニズムの洗練の根底にあった、民俗的なコアが、他の民俗音楽と反響して、普遍的な強度を現出させる。
もちろん、このような試みはけっして目新しいものではない。たしかクロノス・カルテットも似たようなことはやっていたように思う。けれども、彼らがそれを主に新作やプログラミングの妙によって実践していたとしたら、ゲールとフライガイスト・アンサンブルはそれを編曲によって、もっと軽やかに、もっと自由に実践している。
*1:ただ、モンテヴェルディ合唱団には実際に「研修生プログラム apprentices programme」なるものがあり、歴代の研修生の名前が載っているのだが、ゲールの名前はない。カウンターテノールで Julian Gale という人物はいるが、これがゲールの別名なのかはわからない。
*2:公式サイトを信じるなら、これは2007年のことだと思うが、マーラー指揮者コンクールの公式サイトの過去の記録を見ても、ファイナリスト全員はリストアップされていないため、裏を取ることはできなかった。