うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

メディアと変換と翻訳(キットラー『書き取りシステム 1800‐1900』)

「皆さんから[私の方法の]正しい理解を引き出すために、とりわけお願いしたいのは、私たちの口というものを、その様々な要素もろともに、言語と総称されるある種の意味豊かな楽音を奏でることができるような、一つの楽器と見なしていただきたい、ということです。他の楽器においてもそうですが、口というこの楽器もまた、楽譜なしでも楽譜に従ってでも奏でることができます。私たちが語るとは前者の場合であり、読むとは後者の場合です。(注:書くとは、この観点からすると、口という楽器のための作曲の一種となりましょう。)したがって読むとは、与えられた楽譜に従って、私たちの言語楽器を奏でる技術なのです。この観点において文字というものが何を表しているかは、簡単にお察しがつくでしょう。文字とはこのために案出された音符にほかならないのです。」(Heinrich Stephani. "Beschreibung meiner einfachen Lesemethode fur Mütter." 18, Anm. quoted in キットラー『書き取りシステム 1800‐1900』68頁)

 

「書く行為(シュライベン)が読む行為(レーゼン)から生まれ、読む行為(レーゼン)が聞く行為(ヘーレン)から生まれるのなら、すべての書く行為(シュライベン)は翻訳である。」(キットラー『書き取りシステム 1800‐1900』195頁)

 

「メッセージをメディアからメディアへ移すということはつねに、それを別のスタンダード、別の物質性に従属させることなのである . . . 翻訳の場合には特異なものがすべて普遍的な等価物のために失われるのに対して、メディア変換は一つ一つ逐次的に行われる . . . 変換は必然的に、恣意もしくは介入(ハントグライフリヒカイト)とならざるを得ない。変換は翻訳とは違って普遍的になるものに訴えることができないので、つまりは穴を残さざるを得ないということになる。翻訳という基本的かつ不可避的な行為を行おうとするだけで、すでにメディアの限界に突き当たる。」(キットラー『書き取りシステム 1800‐1900』520頁)