ある言語を学ぶたった一つの理由は、その言語で詩を読めるようになるためです。(34-35頁)
ここには2003年から2004年にかけて行われた4つのインタビューが収められている。ポスト911の時代の空気がただよっているが、会話の中心となるのは、副題にあるように、家、サバルタン、知識人のことである。しかし、このインタビューを通して本当に浮かび上がってくるのは、ポール・ド・マンのもとでW・B・イエイツについての博士論文を書き、デリダの『グラマトロジー』の英訳と長大な序論を出版し、フェミニズムやポストコロニアル研究といった分野において絶大な影響力を誇るコロンビア大学比較文学科教授ガヤトリ・スピヴァクの理論というよりは、いつでもサリーを着て、大学の休暇期間にはインドの田舎を訪れて初等教育に専心し、言葉習得の奇跡を信じ、言葉の力に賭けるスピヴァックというひとりの人間の姿だ。
スピヴァク*1のぶしつけな人柄はよく知られているし、それを知っていまさら驚くようなことではないけれど、インタビューを読むと、やはりそういう人なのだということに気づかされる。そして、彼女がそのことにきわめて自意識的であるということにも。
とはいえ、彼女はそうした人柄をわざと演出しているわけではない。いつもサリーを着ているのは、昔からそうだったからだけで、インド性を出そうとか、ニューヨークにおいて自分の文化的民族的アイデンティティを主張しようなどという戦略的な意図はないらしい。彼女のある種の粗さというか雑さは、意図せざる効果のようだが、それがまさに彼女という人をかたちづくっている。
スピヴァクはとても勇敢な人だ。それは、彼女が自らの特権をふりかざさない――しかしその一方で、使えるものはきっちり使う―――からでもあるけれど、なにより圧倒させられるのは、彼女が有利不利とか損得の「計算」で動いていないところだ。アメリカに帰化してアメリカのパスポートを持てばいいのに、それをやらない(コロンビア大学というアメリカのトップレベルの私立大学の教授である彼女が、市民権を取れないことはないだろうに)。ちょっとした手間でかなりの面倒事がスムーズにいくだろうに、そこには手を付けない。
しかし、だからといって、強い意志的な選択でそうしているのではない(たしか故エドワード・サイードも市民権を取得しなかったと思うが、彼は明示的な意志表示として、故国喪失者であることを選んでいたように思う)。やる必然性を見いだせない、というのがスピヴァクの立場らしい。やらない理由はないが、やる理由もない、ならばいまのままでよい。不思議なまでに微温的だが、同時に恐ろしくラディカルな放置の仕方だ。
ある学生が、あなたは教室の中でも外でも言動が一貫していて、継ぎ目がなくて、それが怖ろしい、と述べたというのは、きわめて特徴的なエピソードだ(174頁)。
これらのインタービューのなかでスピヴァクが繰り返し語っていることは、そして彼女が本当の意味で心血を注いでいるのは、地方における教育である。彼女の教育観――知識ではなく想像力の教育を、知識詰めこみではなく欲望の再配置を――は、まさに彼女の実地の体験から出てくるものなのだろう。
カリフォルニア大学アーヴァイン校でのウェレック・レクチャーとして発表された『ある学問の死』(2003)でも彼女は同じようなことを語っているが、そちらでのプレゼンテーションの仕方は、はるかに洗練されており、理論的な言葉がちりばめられている。ジャック・デリダの友愛論を敷衍しつつ、比較文学という学をポストコロニアルの文脈に開いていこうという試み、まだ知らない他者に成るために想像力を拡張するための文学教育、それは彼女がまさにここで述べていることである。
しかし、講演のほうではそれがデリダであるとかアカデミズムのなかから出てきたもののように聞こえる部分が少なからずあったのにたいして、ここではその真の源泉が、彼女の教育実践にあったのだということが強く感じられる。スピヴァクがなぜメラニー・クラインに興味を持っているのかも、彼女の幼児の言語教育への関心を思うと、かなり腑に落ちる。
言葉にたいする問題意識――「言語習得とは、時代遅れの言葉を使わせてもらうと、いわば人間の魂のもっとも深遠な活動の一つであり、奪われることがありません。したがって、いわゆる外国語をあまりよく知らなくても、人はバイリンガルというわけです」(179頁)―――、翻訳の焦点化、それらは、彼女がポールド・マン・から引き継いだものでもあるはずだが、同時に、彼女の教育実践によって裏打ちされ、強化されている。
ですから、私が毎年あきもせず努力しているのは、子どもたちにむかってただ教示するのではなく、子どもたちのなかになにかが消えずに残り、子どもたちが*2公的な領域を直感でわかるまでにすることです。なぜって、法的な意識を高めたり、権利について話したりといったもろもろのことは、じっさいは残らないからです。子どもや若者、青年期の人たちを教えたことがある人ならよくわかりますよ。相手にむかって教示することが――私は合衆国という意識改革の土地から来ています――愚かで、完全ないんちきだということが。教師が変えるべきなのは、身についてしまっている精神構造です。そういう意味で私は、強制をともなわない欲望の再配置について先ほど言っていたわけです。こういう仕事を私はやっています。(47頁[訳文を一部変更])
強制をともなわない欲望の再配置、それこそ、彼女の教育プログラムを要約するフレーズである。押しつけてはいけないが、相手に任せるだけではいけない。知識を教えこむのではなく、欲望の仕方そのものを組み替えていかなければならない。頭で理解するというよりは、体で直感できるように、人々の考え方や感じ方を鍛え直していかなければならないし、そのためには、これまで習得して内面化してきたものをいったん意識化し、その後、それらを意識的に捨て去ること――学び忘れる/学び捨てる unlearnこと――が必要になるだろう。
スピヴァクにとって、指導教官であったポール・ド・マンにたいする思い入れは深い。インドからアメリカにやってきた彼女を、ド・マンが、エキゾチズムの色眼鏡で見ることなく、研究者として扱ってくれたという感謝の念が根底にあるのだろう。それは彼女がアメリカに留学した1960年代の状況を考えれば、驚くべきことだった。大学院生のほうが彼女を僻目で見ていたのだから。
ド・マンの第二次大戦中の親ナチ的ジャーナリズムが暴き立てられてからすでに10年以上がすぎていたとはいえ、彼女のド・マンにたいする含むところのない称賛の言葉は、ちょっとした驚きではある。デリダをはじめとしてド・マンの近くにいた同僚たちを大いに悩ませ、ド・マン擁護のためにかなり苦しい議論を強いられたわけだけれど、スピヴァクはその点について釈明するような雰囲気はないし、それどころか、その点にまったく言及しない。ド・マンについてひとことも言い訳をしないところは、いかにもスピヴァクらしい。どこかハンナ・アーレントとハイデガーの関係を思い出させる。
彼女がド・マンから引き継いだのは、言葉そのものにたいする精緻で細やかな感性だろう。それはややもするとオールディーで、本質主義的なものかもしれない。神秘主義的で、宗教的と言ってもいいものだ。しかし、それこそが、彼女の言語観の根底にあることは間違いない。
私が思うに、子どもが言語を学ぶとき、言語が子どもに有機的に備わっているわけではまったくありません。というのも、そこで起きる奇跡とは、子どもすなわち幼児が、言語に似たなにものかを発明することだからです。発話の可能性こそ、人間を人間たらしめるものなのです。両親または周囲の人たちは、そこに言語を認めはじめますが、同時に、その子が参入させられるのは、その子が生まれる前から歴史があり、その子が死んだ後も未来があるようななにか、すなわち、一定の名前のある言語なのです。他方、その子が大人の女や男に育つにつれ、その子は、どれほど小さなものであろうとも、このなにものかが変化するのに貢献することでしょう。そのなにものかとは、外に存在していながら、同時に、一生をつうじて内側の道具になるもの、そうです、われわれが自分の内部を知るための道具になるもなのです。(30‐31頁)
スピヴァクの議論が、きわめて具体的な事例を論じているときでも、何か奇妙に抽象的で普遍的な雰囲気を醸し出しているのは、彼女の思考の根底にあるのが、歴史の具体性や限定性というよりは、言語の普遍性やオープンエンド性だからだろう。ある特定の言語ではなく、言語そのものへの信頼というか、賭けとコミットメントがある、と言ってもいい。
つまり言いたいのは、みなが言語に参入しますが、どれだけの数の言語に参入しようと、じつはそれは究極的に言語だということです。ですから、根づくという現象はいっそう進むのみです。悪い言語教育を受けると、そのためにとても自意識過剰になって、翻訳できることが多くの言語を知ることだと思いこんでしまうのです。そうなると、多言語を知るのは問題となりますが、じっさいは問題ではありません。(186)
ひとつの言語と本源的な関係を結ぶことができた者、言語に参入できた者は、つねにすでに、多言語的な可能性に開かれることになる。たとえひとつの言語しか話せないとしても、そのような人は、つねにすでに、バイリンガル的な生を、多言語的な生を、生きていることになる。重要なのは、複数言語を使いこなせることではなく、言語なるものに参入できているかという点なのだ。
スピヴァクが語るのは、言語有機体論とか、国語本質論ではない。というのも、すべての基礎となるひとつの言語は、何であってもかまわないからだ。何でなければならないというものではないからだ。
言語に参入することで、わたしたちは過去に連なり、未来に開かれていく。それはナショナルなものにとどまることはなく、言葉のもっとも広い意味での人間的な営為となるのだろう。言葉は歴史であり、現実であり、そしてユートピアであるのだから。