Duolingoでロシア語をやりはじめて500日以上が経った。1年ぐらいですべてのレッスンを終えてしまい、その後は、同じレッスンをひたすら繰り返すだけになっていた。
同時にフランス語もやっていたから気づいたのだけれど、Duolingoが提供するマテリアルの数は、学習言語によってかなり異なっている。Duolingoはセクションのなかにユニットが数十あるという構成だけれど、ロシア語はセクションが3つしかないのに、フランス語は8つもある。また、フランス語だと、各セクションがそれぞれCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠、the Common European Framework of Reference for Languages)のどのレベルに対応するかが記されているのに、ロシア語にはそれがない。どうやら、学習者の多い言語ほど、マテリアが多く、かつ、内容もきめ細やかになっているようである。
学習に使われる言語によって、選択できる言語数も変わってくる。当然ながらと言うべきか、英語で学ぶ場合がもっとも選択肢が多い。日本語で学ぼうとすると、英語、中国語、韓国語、フランス語しか選べないが、英語で学ぶのなら、ヨーロッパ諸言語を始めとして、ヒンディー語、ヴェトナム語、インドネシア語などのアジアの言語、ヘブライ語やアラビア語、ナヴァホ語やゲール語のような少数言語、果ては、クリンゴン語や高地ヴァリリア語という架空の言語——前者は『スタートレック』シリーズに登場する架空の宇宙人であるクリンゴン人が使用する言語で、後者は「ゲーム・オブ・スローンズ」に登場する――まで選べる。
何語で何語が学べるかは、学習者の需要を反映しているようだ。アラビア語で学べる4言語にスウェーデン語があるのは(残り3つは英語、フランス語、ドイツ語)は、アラビア語を話す人々がスウェーデンに数多く移り住んでいるからだろう(Wikipediaによれば、2019年の統計では、スウェーデンの人口の5.3パーセントがアラブ系とのこと。
フランス語、ドイツ語、イタリア語といった西欧言語で学べるのが、西ヨーロッパ言語だけというのは、西欧の自己完結性というか、ある種の傲慢さを表しているようで面白い。
その一方で、スペイン語だと、ロシア語やスウェーデン語が学べるのは、スペイン語がスペインにとどまらず、南米をはじめとした世界各地で話されているからだろう(しかし、Wikipediaによれば、スペイン語話者が現在世界中に5ー6億人近くおり、英語フランス語アラビア語に次ぐ使用国の多さを誇り、国際連合の6つの公用語のひとつであり、インターネットでは「英語(約27%)と中国語(約23%)に次ぐ第三の言語」(約8パーセント)であることを思うと、意外と選択肢が少ない感じもするところ。
話を戻そう。
というわけで、同じレッスンをひたすらやっても不毛なので、いちどリセットして、もういちどセクション1からやり直すことにした。
二周目であり、強くてニューゲーム的な状態になっている。しかし、だからこそ、一周目では見逃していたものが、はっきりと見える。というか、一周目は、キリル文字を覚えることに精一杯な部分があったし、ロシア語の文法概念もよくわかっておらず、手探りなまま、文例をただひたすら繰り返すだけだった。しかし、初級文法はひととおりクリアした後で、初歩の初歩からやり直してみると、Duolingo のレッスンが非常にうまく構成されていることがよくわかる。
ロシア語は、フランス語やドイツ語と同じく、名詞に性がある。フランス語は男性女性しかないけれど、ロシア語は男性女性中性と3つあるので、その意味ではドイツ語に近い。
そして、ロシア語はドイツ語と同じように格変化する(ロマンス系言語であるフランス語やイタリア語には格変化はない)。つまり、ドイツ語同様、ロシア語では、主語になるか目的語になるかで語末のかたちが変わるし、前置詞との組み合わせでも語末が変化する。
そのあたりを Duolingo はうまく提示している。最初は主語のかたち(プレーンなかたち)を提示し、次に目的語のかたち(ドイツ語文法だと対格、英文法なら直接目的語)や所有格(スラブ語界隈では生格(せいかく))を出す。
ただし、これはあくまで、「わかっていればわかる」レベルのさりげないプレゼンテーションではある。ロシア語の名詞に男性女性中性があることを知らず、名詞が格変化するばかりか、形容詞もまた格に応じて活用されることを知らなければ、気づかない可能性は高い。
その意味では、Duolingo を効率的に使えるのは、学ぶ言語についてとまでは言わないまでも、学ぶ言語が属する語族の文法概念について、ある程度の知識がある人間ということになるのではないかという気もする。格変化のことを知らない者が、Duolingo の与える用例だけでそのような未見の概念を「発見」できるだろうか。
新しい言語を学ぶことは、新しい世界の捉え方を学ぶことでもある。そこには認識論的な飛躍がある。想像もしなかった視点を獲得すること。
そのような飛躍の意味を十分に理解し、我が物にするのには、帰納法的な考え方をすでにものにしていなければならないように思う。そのような下地が必要ではないかと思う。
「見て盗め」というのは、つまるところ、そのような帰納法的思考法——具体例を飽きるほど反復することによって、その精髄を身に付け、そうすることで、応用が可能になる――をベースにしたものだったのではないか。職人が身に付けていた技術とは、そのようなものだったのではないか。たとえ身に付けた技術をはっきりと言語化できた人々はごく少数だったとしても。
効率性を求めることは、そのような試行錯誤の末に腑に落ちる実感を奪うことでもある。なるほど、試行錯誤は無駄を伴うものであり、成功例という上澄みをすくいとったほうが、短縮になることは間違いない。
しかし、行き止まりであることをみずから確かめる経験がまったくの無駄ということもないだろう。間違えたという体験は絶対に必要なはずだし、うまく失敗できるのは、このような「趣味」的な領域でしかないのではないか。いまや、仕事で失敗することが、成長するための必要経費として認められているだろうか。
教育とは、いかに失敗の機会を与えられるか、いかにして失敗から学ぶチャンスを作ることではないかという気がしている。
AIはそのような機会を与えてくれる救世主たりうるかもしれない。しかしそれは、そのための下地があってこそ、利を得られるツールであるようにも思う。
だとしたら、そのような下地をわたしたちはどこで身に付けたらよいのだろうか。