うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』

20190202@世田谷パブリックシアター 

切り離して繋ぎ変える

言葉、身体、音楽のつながりが作り変えられる。ここでセリフと所作は統合されておらず、身体の運動はキース・ジャレットの演奏するバッハ平均律とシンクロする。

冒頭、ハ長調のプレリュードとフーガにのって、ふたりのコンビニ店員が「店長セックスレス疑惑」という下ネタのゴシップをネタに話を転がしているとき、彼らは腕や上半身や下半身をくねくねうねらせた動きをする。しかし、この曲線的で軟体的な動きが性的なものを表現/表象しているかというと、おそらくそんなことはないだろう。していないとは断言できないが、していると断言はできない。

+私的な象徴言語+

アーサー・シモンズは『象徴主義の文学運動』のなかで、19世紀後半における象徴主義と、伝統的な象徴利用を比較しながら、以下のように述べている。伝統的な象徴は書き手にも読み手にも広く共有されていたし、そのための解読コードも自明であった、だから、白を見れば、キリスト教というコードによって純潔という意味を直ちに導くことができた。19世紀後半の象徴主義者たちが行ったのは、象徴形式を否定することではなく、象徴の解釈格子を私有することだった。白が「白以外の何か」を象徴するという形式は、象徴主義においても残存する。しかしここでは、それがいったい何を象徴しているかは、作品内在的に読み解かれるか、さもなくば、作品の作者による自己言及的な解説を参照するしかない。つまり、19世紀の象徴主義者が語るのは私的な象徴言語であり、その解読コードはいわば読者には伏せられている。

+意味を問うことに意味はあるか+

岡田利規の演劇の身体の動きを、19世紀的な象徴主義から派生したモダニズムの私的詩的言語の流れにおいて捉えようとすれば、このように考えざるをえない。意味はある(はずだ)が、その解読方法は明かされていない、と。なるほど、「ここではすでに意味なるものが置き去りにされている、意味にこだわるのは時代遅れのハイモダニズムの妄執だ」と言われたら、「そのとおり」と答えざるをえない。しかし、「店長あれ絶対セックルレスだぜ」「なんでそんな確信してるんすか」「おれ目撃しちゃったから」「セックスレスの現場を目撃するってなんですか」「店長が休憩中に読んでた新書のタイトルがさ……」という、セリフ単体で読めばまったく裏の意味などなさそうな言葉が、その意味するところと繋がっているのかよくわからない所作と同時に舞台にのせられ、かつ、言葉ではなく身体のほうが音楽にシンクロするとなれば、これらがどのようなロジックによってつなぎ合わされているのかを考えるのが批評の仕事というものだろう。これらの関係性がたんなる偶然的なものでないことは確かなのだから。

+言葉=意味、言葉=音声、身体+

言葉に意味はあり、その字義通りの意味は明瞭である(「店長はセックスレス」)。しかし言葉=意味と言葉=音声の結びつきはそれほど強いとは思えないし――悲しいからといって悲しく言われるわけでもなければ、怒っているから怒って言われるわけでもない――言葉=意味と身体の運動の結びつきはさらに弱いだろう。せいぜい句読点の位置と体の動きの休止にある種の呼応関係がある程度だ(ここには、SPACの宮城がやるような、句またぎEnjambment的な、文章の「途中」で不自然に、韻文調でしかありえないわざとらしさで言葉の、流れを切断するようなことはほとんど、なかったと思う、言葉のフローはときおり、滞ったりするがそうした、滞留は宮城のように定式化された、ものではなかった)。だが、身体の動きと音楽は緊密に対応している。言葉=意味と身体がうまく同期しないなか、身体と音楽はシンクロする。

+音声と身体と音楽の強度の共振+

では、音楽と言葉に何の連関もないのか。あるにはある。しかしそれは、言葉の「意味」の共鳴や増幅ではない。何かが対応しているとしたら、それは言葉=音声(またはセリフのケイデンスcadence)の強度と、身体の強度、音楽の強度の度合いであり、それらの共振だろう。

バッハの曲は基本的に後半に向かって緊張関係が高まり、そしてそれがほどけて終わる。この緊張とその解決という構造はフーガにおいて顕著だ。声部が重なり、音の密度が濃くなり、最後の解決にむけて対立が熾烈になっていくように、身体の運動も言葉のフローもある種のクライマックスに向かっていく。しかし、たとえ言葉が苛立ちや戸惑いを募らせることによって強度を増してくとしても、身体にはそうした「感情」の表出はないし、音楽もまた感情の表現/表象ではない。バッハの音楽は純器楽的なものだ。この意味で、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』におけるバッハは伴奏accompanimentでも付随音楽incidental musicでもなかった。それは、互いに関係のないものがなぜかシンクロしてしまったかのような、本質的には何の関係もないところに人為的に関係を発生させたかのような、人為的に演出された偶然一致的音楽coincidental musicとでもいうべきものだったかもしれない。

岡田利規がどこまで音楽に詳しいのか寡聞にして知らないが、彼のバッハ理解は印象主義的なところがあるように感じた。「いや、それはバッハの音楽の構造的自明性をあえて無視する営為なのだ」と言われたら、「そうかなあ」といぶかし気にうなずくところではあるけれど、プレリュードとフーガをシステマティックに色分けしていたようには見えなかった。短調を悲劇的だったりドラマティックだったりするところに割り当てたり、長調の細かく動き回る曲にコミカルなところを割り振ったり、曲の冒頭から強いアタックの重音で始まる曲に衝突を仕込んだりと、音とドラマの間にはある種の呼応関係があったけれど、それはバッハの曲の構造分析から引き出されたものではなく、平均律の録音音源が岡田に与えた印象を下敷きにして、録音音源に再投影されたものでしかなかったような気がする。)

言葉と身体と体は切れ、身体が音とつながれる。しかし、声と体と音は、意味内容(象徴=代替)ではなく、強度(内在=それ自体)において共振し、協働しているかのようだ。 

+「不自然さ」とは?+

これは、一見したところ、明らかに「不自然な」操作のように思われるが、もう一歩つっこんで考えてみれば、これらのつながりを自明だと思う心理がどうして自然と言えるのかという問いが自然に出てくる。言葉の意味が身体のジェスチャー(広く一般に共有されているクリシェ的なサイン)と呼応し、その背後ではその瞬間の感情や心情を補強し、増幅するBGMが鳴り響くという構造は、わたしたちの日常の現実というよりは、ハリウッド映画の文法ではないのかという気がしてくる。

一般的に言って、言葉と身体には有機的なつながりがある。リズム的な呼応といってもいい。呼吸による体の上下、呼吸の長さ短さのような身体的要件は、フレーズの長さ短さ、話す速度のようなパフォーマンス側面の物理的基盤をなしている。しかし、そうした身体の機能的限界や要請を別にすれば、言葉と身体が協働「しなければならない」理由はどこに見出せるだろうか。

チェルフィッチュの身体は、わたしたちが自然だと思っているさまざまな結びつきを切り離すが、それは破壊というよりも、解除undoと言ったほうが適切かもしれない。だからチェルフィッチュによる繋ぎ変え(言葉=意味を、それ以外のファクター――言葉=音声、身体、音楽――から浮遊させることで、後者のあいだに別のリンクをつくる)は、むしろ脱構築的だろう。わたしたちの日常自体がつねにすでに「作られた自然」でしかないことを、ペーソスを帯びたヒューモアによって提示してみせるのだ。ただし、チェルフィッチュの身体が新たなオルタナティヴ=規範であるとはまったくほのめかすことなしに。そのような規範性の存在そのものを笑いとばすかのように。

 

物語構造
Immaterialな意味とmaterialなものの切断をこれだけ力説したあとで、この舞台で演じられた物語についてまとめようというのは、はげしく自己矛盾的な行為であるようにも思うが、チェルフィッチュにおいて意味はずらされているだけであって、決してナンセンスに耽溺しているわけでないことを考えれば、あながち無意味な試みでもないだろう。

しかしどうまとめるか。出来事という意味からいえば、ひとつの軸は、新しい女性バイトの採用/辞職であり、それに毎晩アイスを買いにくる女性の落胆/希望/失望(お気に入りの商品の生産中止、リニューアル、期待外れ)という軸が絡み合う。

もう一方の軸は、店長とスーパーバイザーのコンビであり、売り上げを伸ばせない店長とそれをパワハラ的にせっつくスーパーバイザーとの対立だが、こちらには女性バイト/女性客の筋にあるような悲哀に充ちた解消は存在せず、投げやりにバラけて終わるばかりである(「なんだよ、ふざけんなよ、やってられるかよ」と怒りを爆発させる店長、「てめえのせいで俺の査定下がりまくりだ、どうしてくれんだ」と怒りまくるスパーバイザー)。

ある意味でコンビニを「去っていく」2つの軸=4人にたいして、コンビニに残り続ける2人の男性バイトがいる。コンビニ有神論者とコンビニ・ニヒリストである。前者はコンビニを「なんかいい」場所にしたいと漠然と思うがゆえに、コンビニの現実に微妙に適応することができず、理想との乖離に苦しむが、後者は「コンビニ程度に期待するほうが間違ってる、コンビニもコンビニ客もな」とうそぶきながらコンビニので働き続けるのである。彼のニヒリズムは、皮肉主義であると同時に、テロリズム的でアナキズム的な虚無主義の側面もある。「おれできるならデータをぐっちゃぐっちゃにしてやりたい、ホットドック買ったら傘で記録されて、傘を買ったらホットドッグに記録されるようにさ、そうなったら、雨が降ったらホットドッグが大量に売れたって記録がついて、すっげえおもしれえ」と言うのである。しかし彼は、この妄想が決して実現にはいたらないことをよく知っているからこそ、自分ひとりでささやかな抵抗(購入者データを適当に打ちこむ)を淡々と楽しむのである。彼にルサンチマンはあるだろう(「コンビニ客はコンビニ店員を下に見てるけど、俺はあいつらに、お前らがいかにバカっぽく見えてるか教えてやりたいね」)が、この負の感情は同じヒラのコンビニ店員相手にだらだらとたれ流されるからこそ、溜めこまれて鬱屈することがなく、彼は正気でいられるのだ。真剣味の欠如は自衛本能であり、コンビニバイトとしてサバイブするための処世術であるかのように。

このコンビニ・コンビには第3項がいる。劇終盤で「コンビニ無神論者」と呼ばれる、キザで鼻持ちならない男であり、「コンビニで何も買わないことによって消費社会にたいする自由を実践するのだ」と吹聴する。興味深いことに、このコンビニ無神論者は、コンビニ・ニヒリストの思想的倒錯物なのかもしれないのに――ふたりともコンビニを空虚なものととらえる点では一致しているように思う、コンビニ・ニヒリストは中からそう思い、コンビニ無神論者は外からそう思う、別の言い方をするなら、前者は労働者の視点からの共犯的コンビニ批判(というのも彼もまたバイトとしてではあるがコンビニ装置の一部にほかならない)であり、後者は消費者の視点からの無責任なコンビニ批判である(彼はたしかにコンビニにおいて何も消費しないことによって消費社会批判を実践できるが、それでも、彼はコンビニではないどこかで消費せざるをえないだろう、つまり彼のコンビニ批判による消費社会批判はきわめて限定的であり、偽善的でもあれば欺瞞的でもある)――ふたりはほとんど互いに絡むことがない。コンビニ無神論者と物理的/身体的に対立するのはコンビニ有神論者なのだ(「買わないならコンビニ来んなよおまえ、コンビニバイトはおまえのはけ口じゃねえ」「出禁だって言っただろ、なんで来んだよ」)。

+どの筋が主筋か+

ロラン・バルト的な意味での「物語の構造分析」をするのであれば、第1の女性軸こそが物語を稼働させ、前進させるものである。というより、ここにしか、リニアな時間性/反復でなき一回性は存在しないというべきだろうか。この偶然的な店員と客のあいだの心のふれあい――「新製品が出るんですよ、リニューアルですよ」「それめっちゃ楽しみです」「期待させてごめんなさい、プレミアムっていったらバージョンアップだって思うじゃないですか」「わたしはあの薬臭いバニラの匂いが好きだったのに」「わたしはお客様を間違って期待させてしまった責任をとってこのバイトをやめさせていただきます」――は、反覆的iterativeではない。

この明らかに一回的でしかないようなこの筋に比べると、店長とスーパーバイザーの対立はこれまでに何度となく演じられてきたパワハラ的なものであることが、幾度となくほのめかされる。たしかにディテールは違う。お釣りを差し出す手の肘に逆側の手のてのひらを添えるという韓国風(本当にそうなのかは知らないが)のつり銭の渡し方をめぐる一件は、たしかに一回的であるが、これに類するケースがこれまでにあったとしてもおかしくないし、これで2人の関係が決定的に変質することはないだろう。なるほど、幕切れ前の店長の癇癪の爆発は出来事的なものかもしれない。ここはクイーンのWe will rock youの手拍子付きだったが、基本的にバッハを無加工で使う舞台のなか、ここだけが音響的に異質すぎた。しかし、「やってられるかよ」という悪態はストレス発散の儀式であり、店長は明日平気な顔をしてコンビニに来るかもしれない。ス―パーバイザーは明日もまた平然とした顔で店長を突き上げにやってくるかもしれないのだ。

ともあれ、この2つの筋のあいだに何か劇的なものがあるとしたら――おそらくこの2つは、やや違う意味ではあるが、ともに悲劇的なものがある、辞職する女性バイトがコンビニの制服を脱いで期待外れの新製品2本を土下座するような格好で観客席に向かってうやうやしくお供えするとき、そこには奇妙な荘厳さがあるし、個人の限界を超えたところにある外在的状況のなかで足掻きながら店長という役職の限界を思い知る店長の怒りには、手のつけられない超人的な恐ろしさがある――、第3の軸であるコンビニと神/信仰/イロニーには、アンチクライマックス的なものしかない。ここには、なるほど、神的なものや宗教的なものがあるけれども、それと同時に、崇高で超越的なものを解除して世俗的なものに引き戻してしまうようなベクトルも機能している。

+劇を始め、終わらせるもの+

だが何で劇が始まり、何で終わるかと言えば、下ネタである。「店長セックスレス疑惑」に始まり、「トイレ貸してくんない」で終わる。偉そうに「コンビニの空虚さ」を語り、「こんなところで働くなんて」とコンビニ(店員)を嘲笑していたコンビニ無神論者が、尿意に耐えかねてコンビニ(店員)に赦しを乞うのだが、それは受け入れられないだろう。見離された彼がひとりステージに残り、両腕を水平に伸ばし、虚空を仰ぐように見つめるとき、照明が暗闇のなか彼を浮かび上がらせる。その姿はまるで殉教者のようであり、殉教するものの苦痛と恍惚が浮かんでいるかのようであるが、その源泉にあるのは、尿意である。

このシモの要請の強調によって、チェルフィッチュの演劇はますます非古典的になるだろう。つまりここにあるのは、いわば、民衆的なもの=伝統芸能的なものの再興なのかもしれない。下と上の共存、笑いと泣きの同居、複雑な感情や情動の共立である。

 

ジャンルの混乱

しかし、この劇をジャンル的に確定するのは難しい。カテゴライズすることに意味があるのかとすら思うほどに、さまざまなジャンルを呼び込みつつ、それを解体しているからだ。

ここまで俳優を動き回らせるとなれば、それはもう、狭義の演劇というよりは、広義のダンスであり、セリフ付きのコンテポラリーダンスといったほうがいい。

照明によってステージに作られた長方形のなかを縦横無尽に動き回るさまは、まるで体操選手のようでもある。とはいえ、ここでの俳優の動きは、体操選手のそれとは質的にまったく異なっている。運動競技の体操がいわば直線によって規律づけられたリジッドで単線的なものだとすると、チェルフィッチュの動きはそれをことごとく裏切るようなかたちになっている。チェルフィッチュのすべての動きが曲線的というわけではないし、すべてが軟体動物的というのではない。ここには硬い動作もあれば、鋭い動作もある。ただ、いわゆる西洋的な踊る身体(バレエであれ体操であれ)と比べた場合に際立っているのは、体幹を軸にしていないというところかもしれない。それはつまり、中心/中軸が意図的に不在にされているということであり、シンメトリー的なものを成立させるための点や線がつねにずらされている。

だが、この劇は、セリフなしには、物語なしには、決して成立しえなかったようにも思う。2時間近くの舞台をパフォーマンスとして成立させている大きな要因が俳優の身体所作であることは間違いないが、それだけではない。ここで重要なのは、複数のメディア(音声、身体、音楽)の空間的な同居と共振であり、決してどれかひとつが単独で抜きんでているわけではない。この劇の効果は和音的なもの(協和音ではなく、アイヴズ的なカオス的クラスターではあるが)であって、和音を構成する音をひとつひとつ取り出してみたところで、全体の総和を分析したことにはならないのだ。考えるべきは、アセンブリーされた構成要素総体の効果だろう。

+音楽の外在性と必然性+

バッハの平均律にストーリーはない。すべての調でプレリュードとフーガ―を書くという網羅性は、百科事典的なものだ。そこには時間性がない、時間的前進性がないのだ。あるのは空間的な広がりではないだろうか。読み手=消費者の立場からすれば、どこから始めてもよいし、どこで終わってもよい、すべてをカバーしなければならない理由などどこにもない。

にもかかわらず、音楽がハ長調からロ短調まで48曲(途中飛ばしていなかったかどうかは定かではないが、全曲やっていたとしたら)続いてくというその継起性によってのみ、劇の持続は正当化されているのではないか。

ここでウェーベルンのことを考えてしまう。ウェーベルンもまた、外在的な統合理念を持たない、純粋に内的な曲を書こうとした20世紀の作曲家だと思うが、その道を選んだ彼が書いた曲はどれもミニチュア的なものであり、純粋器楽の曲であれば長くても10分がせいぜいで、小品であれば1分程度しか続かない。このあたりは、12音技法というセリー的作曲法を発明したシェーンベルクが古典的形式を外在的な構造として採用したり(オーケストラのための変奏曲Op.31)、声=朗誦を導入したり(ナポレオンに捧げるオードOp.41)、自伝的な要素に依拠したり(弦楽三重奏Op.45)、同じくシェーンベルクの弟子筋であったベルクがオペラ作曲家(ルル)であったことを考えればよい。純粋音楽で、かつ、伝統的な形式に依拠することなくすべてを私的にゼロから立ち上げようとすれば、音楽は短くならざるをえない(形式や思想を発明すれば、音楽は再び長くなるだろう、たとえばミニマルミュージックであり、フェルドマンの長時間の聴取を主題化したかのような音楽)。

それと同じように、チェルフィッチュのこの劇はそもそも長く続けらるようなものではないと思う。短距離走の集積のようなもので、それぞれが独自に結晶化されているからだ(もちろん、ときには1曲で完結せず、2曲でセットになっている場合もあったり、それ以上続く場合すらあったように思う)。それを2時間近く続けられたのは、物語的なものに依拠し、音楽の時間的前進性(空間に鳴り響く音はつねに時間的に不可逆的である)に依拠し、内容的なものに依拠していたからではないか。この意味で、この劇の形式は、自律的(非‐意味的)なものではあるが、にもかかわらず、内容(意味的)から完全に独立しているわけでもない。内容に奉仕しているわけではない、だが、内容と無関係であるわけではない。おそらくここで必要になってくるのは、形式の内容的読解――ジェイムソンならイェルムスレウの「形式の内容」という言葉を使うところだろう――について考えることだ。

  

コンビニ批判?

では、この劇の思想的(物語的とは別の層のことを便宜的にそう呼んでおく)内容とは何か。

端的に言えばコンビニについての何かだろう。この劇には賞賛と批判の両方の意見が含まれている。コンビニ無神論者の語るコンビニの空虚さ(消費社会批判)、コンビニ・ニヒリストの語るコンビニとコンビニ客の負のスパイラル(コンビニが客を甘やかすから客が付け上がってその皺寄せが末端のコンビニバイトに押し寄せる)、コンビニ・有神論者の「なんかいい」場所としてのコンビニ(殺伐としたなかでも時折ほんわりさせてくれるところ)、スーパーバイザーのコンビニ原理主義的三大存在理由論(「コンビニがない世界想像してみろおまえら、夜道は暗いし、夜腹減ったら朝まで何も食えねえし、バイトする場所もねえ」)、店長のコンビニ万能論(買い物から税金支払いまで)、アイスの常連客の語るコンビニの魅力=引力=依存力、またはコンビニが与えてくれる何かしらの充足感(「なんか毎晩買いに来ちゃう」)。

しかし、このどれかの立場が特権的に語られているか。物語の結部に置かれたニヒリストのそれが、物語の構造分析的な立場からすると、決定的なものであるように思われる。しかし、劇場での空間的配置を忘れるわけにはいかない。彼の意見は、バックステージから、声のみで語られるにすぎない。ステージではコンビニ無神論者が、殉教者のごとく崇高な姿で、尿に堪えて尻の肉を痙攣させているのだから。

+コンビニの空虚性+

この複数的なポジションから立ち上がってくるのは、コンビニの空虚性なのかもしれない。コンビニの機能をひとつひとつ数え上げ、店舗レイアウトを身振り手振りで例示する店長のダンスはひどく単調で退屈だが、この退屈さこそ、コンビニの本質だろうか。コンビニの本源的な退屈さと場当たり性――コンビニにいまあるような膨大な機能が集約していなければならない理由は果たして何なのか、なぜコンビニはいまあるようでなければならないのか――はコンビニの正統性を疑わしいものにするかもしれない。店長は「コンビニは空から降ってきたものだ」というコンビニ天下降臨説を唱えるが、それはまさに馬鹿馬鹿しいセールストークであり、企業神話ではないか。にもかかわらず、コンビニ不要論には決してたどり着かない。

コンビニは要る、コンビニは在る。たとえどれほど無根拠で、無意味で、空虚であろうとも。

「意味」から浮遊しているように見える所作はすべて、こうした空っぽさの隠喩なのだろうか。だとすると、ここで批判されているのは、コンビニそのものでもないし、資本主義や消費主義でもない、コンビニバイトでもコンビニ利用客でもない。それは、コンビニという不可能な空間を作り上げ、そこにさまざまな雑多な機能――経済的、金融的、税金的、サービス的、そして、人間的な触れ合いまでも――を要請しなければならなくなった、現代という時代なのかもしれない。コンビニはわたしたちの生や心を補完する場であり、すでに欠かせないものであるが、欠かせないからといってそれが良いものだったり正しいものであるということにはならない。

+疑似宗教的な夢幻的空間としてのコンビニ+

ゾラは『ボヌール・デ・ダム百貨店』のなかで「百貨店は神殿となり、かつて宗教がしたように、消費者の心を充たすであろう」とやり手の百貨店経営者に言わせた。決して充たされることのない消費欲を充たさんがために、百貨店で無限に消費を繰り返す買い物依存症的な人間を、近代の範例として描き出したのだ。岡田が試みたことはゾラと似ている部分もある。だが、ここにはもはや、消費者をコントロールするマスターマインド的な上位存在は不在である。スーパーバイザーですら、「本部」からの突き上げを食らう中間的存在である。だれもが、起点でも終点でもなく、どことは知れぬところを不確かにただよう。

ここにはソリッドな答えのようなものは何もないだろう。岡田は状況をただ描写しているわけではない。それを深く痛く抉ってはいる。この抉り方は決して傍観者的でも客観的でもない。だがここでは、コンビニの「外」はほとんど見えないだろう。というより、このコンビニという空間はどこか幻のようなのだ。舞台後方に吊るされた、ガラスケースの絵がプリント(? 投影?)された薄衣。何もない空っぽの空間を四角形に照らし出す照明。スパーバイザーのコンビニ原理主義または三大存在理由(暗闇のなかの明かり、夜のひもじさの解消、バイト場所)にしても、店長のコンビニ天授説(高天原または千葉の銚子?に振ってきたコンビニ)にしても、このコンビニの物語は、現代日本のそれではなく、パラレルワールドの出来事のように思えてくるほどの夢幻性である。

+夜の世界、解き放たれない怒り+

この劇が1日のいつの時間のことかはよくわからないが、おそらく夜が多いのではないか。現代日本のコンビニは、エドワード・ホッパーの描いたダイナーのような空間かもしれない。夜と孤独。そして孤独に秘められているのかもしれない希望。少なくともコンビニの半分は夜の世界のものだ。それは孤独の空間であり、孤独な者がときおり別の孤独な人間――同胞的消費者であれ、カウンターという壁の向こうのコンビニバイトであれ、というのも、彼女ら彼らはともに現代社会における哀しき人々なのだから――と出会うことがありえる希望の空間かもしれない。

だが、そうした人間的な出会いは、コンビニバイトとコンビニ(非)消費者というヒエラルキー的な上下関係または相互的卑下関係によってほとんどブロックされているし、唯一の奇跡的な女性店員とアイス中毒者の出会いは、入れ子状の劇構造の枠組みによって完全に封じ込められている。それをどうにか解き放つには、コンビニの外に出て、別の文脈へ、より大きな文脈へ、より大きな複数の文脈へと開いていかなければならないはずだが、そうした視点は、コンビニ・ニヒリストの気の利いたコンビニ本部/コンビニ客批判によって覆い隠されてしまっているように思う。最もコンビニ本部にたいして憤りを抱えているのかもしれないコンビニ・ニヒリストは、最初から最後まで、怒りを爆発させることがない。このはじけることのないコンビニバイトの生き方は、まちがいなく「賢い」ものであるが、この賢さが劇の狂言回し的なポジションを担っているところに、この劇をコンビニ批判として読むことの限界があるように思うし、この劇がそうした社会批判を絶対的基準としては掲げていないことの証左でもあると思う。(書きかけ)