うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。階級的な乗り物としての公共交通機関。

アメリカ観察記断章。LAには公共交通機関がないと勝手に思いこんでいたのだが、ロングビーチからLAまで電車一本でいけるし、ダウンタウンにしてもそこから地下鉄でほんの2,3駅で行けることに気づいてからは、もっぱら電車と地下鉄とバスでLAに行くようになった。そしてなぜLAで公共交通機関が決して主流になりえないのか少しだけ見えてきた。

南カリフォルニアにおいてメトロは階級的な乗り物だ。もちろんホワイトカラーや金持ちが乗っていないということはないと思う。地下鉄に乗ればスーツや姿の人を見かけることはある。しかしバスにしても電車にしても、利用するのは、そうせざるをえない人々ではないのか、という気もする。つまり車を持てない人々である。

もちろんメトロ利用者がすべてクルマの代替物として利用しているということはないと思う。しかしメトロの利用は、単なる利便性とは別の原理によって決定されているという気がしてならない。たとえば日本なら、電車にするか自家用車にするかは、駐車場代や高速代や運転の手間など、いろいろなファクターを天秤にかけて決定されるものではないか。いや、いろいろ考えた挙句、「しぶしぶ」車にしたり、「あえて」車にしたりということはあるだろう。しかしここで、電車やバスという選択肢が最初から省かれはしないのではないか。カリフォルニアでは、ある階級の人々にとって、公共交通機関という選択肢はおそらく最初から考慮のうちに入っていないのだと思う。たとえばLAフィルを聞きに来る人々を例に取ろう。ウォルト・ディズニー・ホール周辺にはたくさんバス停があるし、地下鉄の駅は歩いて数分の距離である。しかしコンサートが終わり地下鉄に歩いて向かう人々のなんと少ないことか。ほんとうに数えるほどしかない。ほとんどは自家用車で来ているのだ。そしてクラシック音楽のコンサートにくる人々とは、要するに、公共交通機関という選択肢を最初から考えない人々である。

メトロ利用者がブルーカラー、労働者、低所得者層であるというのは極論すぎるが、そういう傾向にある、とは言っていいと思う。少なくともここで見かける人々は大学のキャンパスでは見かけることのない人々、またはキャンパスにおいて見えない労働(掃除、設備メンテナンス)をやってくれている人々だ。

あまりに穿った読みかもしれないが、こういう状況を目撃して、なぜカリフォルニアの高速鉄道計画が頓挫してしまうのかが、直感的に納得できたような気がした。つまり、地上移動手段は貧乏人のものであり、それをなぜ金持ち/ビジネスパーソンが使わねばならないのだ、という思いが根底にあるのではないか、という気がしてきたのだ。LAとSFが高速鉄道で結ばれれば飛行機よりもっと手軽に人が行き来できるようになるだろう。しかし、「ビジネスパーソンの移動手段」としてアピールするところがあるかというと、どうなのだろう。飛行機には依然として鉄道からは消えてしまった(または希薄になってしまった)階級制が残存している。ビジネスクラス、エコノミークラスというふうに。高速鉄道が利便性を強調すればするほど、そこでは、階級制や特権性は希薄になるだろう。なぜなら利便性はそれ以外のファクターをすべてフラットにすることを前提としているが、特権性はまさにそうした平準化や平坦化にたいする不合理で非効率的な反対にほかならないからだ。高速鉄道に1等列車を作るというのは不可能ではないが非現実的だろう。しかしだからこそ高速列車はアメリカの富裕層にアピールすることはないように思う。