翻訳語考。「世界を個体性の百花繚乱の実践の実験に転化する主体と客体の統合を投射する」。翻訳はつきつめていくと配置の問題になるのではないか。単語や句読点の位置までオリジナルと呼応させるというような逐語訳が狂気の沙汰であるのは当然だが、オリジナルの息づかいの対応物のようなものを翻訳で成し遂げようとすると、究極的には日本語力が問題になってくる。しかしそれは語彙力や表現力の問題というより、パズルゲームのようなものだ。単語一つ一つ、フレーズごとの意味は確定している。残りはそれをどう組み合わせるかである。オリジナルを正面に据え、理想を頭のなかに思い描き、手元の原稿をいじくり回していく。何時間もこの作業を続けていると、文字を切り貼りして脅迫状のようなものを作っているのか、意味を置き去りにして音響や感触を優先するような散文詩を作っているのか、わからなくなってくる。「世界を個体性の百花繚乱の実践の実験に転化する主体と客体の統合を投射する」という訳文は、個人的にかなり気に入っている(でもさすがにこれは手を入れざるをえないだろう、意味が一発で通じるとは思えないから)。てにをははスムーズだし、音の衝突はないし、エコーのように韻めいたものがあるし、そのおかげで流れがあって最後まで一息で読み切れる。配置の問題は、おそらく、肉体的な問題でもあるのだろう。視覚的な美しさ(シンメトリー、漢字ひらがなのバランス、字面の濃淡)、聴覚的な美しさ、そして、口に出して言ったときの心地よさ。