「日本被団協」の2024年ノーベル平和賞受賞演説の英語版は、日本語とは微妙にニュアンスが異なるように聞こえる。
1.提示の順番。
一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。
The first demand is that the State which started and carried out the war should compensate victims for the damage caused by the atomic bombs, in opposition to the Japanese government’s assertion that, “the sacrifice of war should be endured equally by the whole nation.”
日本語版では、「日本政府」→「国」の順番になっているため、「国」が「日本国」であることがわかるが、英語版では、the State -> the Japanese government であり、「原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない」という主張が、全般的な要求(「すべての国家は」「国家というものは」)なのか、それとも、具体的な主張(「日本国は」)なのかが、日本語版よりはわかりづらい。
また、日本語版と英語版では、能動/受動が逆転している箇所が2つある。
能動:戦争の被害は国民が受忍しなければならない
受動:the sacrifice of war should be endured equally by the whole nation
受動:原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない
能動:the State which started and carried out the war should compensate victims for the damage caused by the atomic bombs
ただし、ひとつめについては、「戦争の被害 the sacrifice of war」「国民 the whole nation」「受忍 endured」という語順をキープするために、あえて能動受動を逆転させたのかもしれない。
とはいえ、この能動受動の転換、すなわち、主語と目的語の位置関係の入れ替えによって、英語版では、日本語版以上に、「国」の賠償責任が前景化されているように感じる。「国 the State」という大文字化はそのような強調と連動しているように思う。
こう言ってみてもよい。英語版では、日本語版以上に、国が加害者であり、国民が被害者であるという構図がクローズアップされている。「原爆被害」は ニュートラルな damage を使いながら、「戦争の被害」のほうに sacrifice (直訳すれば「犠牲」)を当てるという選択は、the whole nation(直訳すれば「全国民」)と相まって、戦争が国民に犠牲を強いたというニュアンスが出ているようにも思う。
あえて sacrifice とワードを変えたのは、「受忍」の「忍」の意味合いが、endure(「耐える、持ちこたえる」)だけではカバーしきれないということなのかもしれないという気はする。その意味では、英語版のほうが、日本語版が言わんとしたことを汲み取り、その主張をより明示的なかたちで表現しているとも言える。
2.「核のタブー」は、英語版では the nuclear taboo。このフレーズは英語だと何かスッと入ってこない感じがある。そう思ってググってみると、Nina Tannenwald というアメリカの政治学者が、1999年の学術論文で提唱した概念というウィキペディア項目があった。しかし、検索結果のトップにくるのはこの政治学者についてであるし、Nuclear taboo についてのウィキペディア項目は英語版ウィキペディアにしか存在しない。
ともあれ、「タブー」という言葉は、オセアニア諸語、とくにポリネシア諸語から英語に入ったワードであり、そこには、「西欧人」の「非西欧」にたいするまなざしが入っているようにも思う。または、ここには、ある種の呪術的な、宗教的な響きがあるように感じる。まさに「禁忌」の感覚である。
日本語の「タブー」にそのニュアンスがないとは言わなけれど、タブーよりも taboo のほうが、日常言語からは遠い語であるように思う。
3.田中さんは、被爆時に、家にひとりでいたのか、そうでなかったのか。いや、田中さんが居たのが「自宅」だったのか、それとも、下宿住まいだったのかは、日本語版からはわからない。「その光に驚愕し 2 階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。」
ところが、英語版だと、田中さんは「自宅」におり、「同居人」がいたかのような感じがする。Surprised, I ran downstairs and got down on the floor, covering my eyes and ears with my hands. The next moment, an intense shock wave passed through our entire house. ここには、日本語版にはない、「わたしたちの家屋全体を through our entire house」というフレーズが付け加えられている。
というよりも、日本語版では、「強烈な衝撃波が通り抜けて行きました」というのは、田中さんが実際に感じたことであるように聞こえるけれど(衝撃波を我が身をもって感じた、というニュアンス)、英語版では、田中さんが感じたことではなく、客観的に起こったこと——衝撃波が〈わたしたちの家屋全体を〉通り抜けていった――の記述になっている。
(次の段落では、「わたしと母は」とあるので、英語版の記述で正しいのだとは思う。)
4.記述の焦点が微妙にズレる部分がある。
日本語版では、「長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは 3 日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。」のように、「長崎原爆の惨状」→「3日後」→「二人の伯母の家族の安否」の順番だが、英語版では「3日後 three days later」->「二人の伯母の家族の安否」-> 「長崎原爆の惨状 the full devastation of the bombing of Nagasaki」となっている。かつ、日本語では1文のところが、2文になっており、「長崎原爆の惨状 the full devastation of the bombing of Nagasaki」の衝撃がわずかながら弱められているようにも感じる。
英語版で形容詞の full を足して、「the full devastation」としたのは、そこを補うためだったのかもしれない。「惨状」の訳としては、devastation で十分ではあるけれど、それをさらに強調するために、full を入れたように思う。
5.誰が見ているのか。主語を省略しても文が成立してしまう日本語では、「誰」が曖昧になることが多い。
「わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3 キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。」
ここで、「迂回し」「たどり着」いたのが「わたしと母」であることは間違いないが、「見下ろして愕然とし」たことまで、「わたしと母」の共同体験であったのかというと、どうだろうか。もちろんそのように読んでいけないわけではないけれど、日本語ネイティヴの感覚としては、「見下ろして愕然とし」たのは田中さん個人の実感であったようにも聞こえる。けれども、英語版はここを、Reaching a pass, we looked down in horror とし、「誰が」を明確化している。
さらに言えば、日本語版は、「迂回し」「たどり着き」「見下ろし」という「行為」と、「愕然としました」という「心理状態」を一文で言い切っているけれど、英語版では、これを分割して表現している。
Walking with my mother, we went around a small mountain. Reaching a pass, we looked down in horror. (「母と歩きながら、わたしたちは小さな山を迂回しました。峠(pass)にたどり着き、わたしたちは愕然として見下ろしました。」)
ただ、英語表現としては、このように分割したほうが、情景が浮かびやすいはず。また、「見下ろす」→「愕然とする」という〈順序〉で書くよりも、looked down in horror と「見下ろした」ときの「心理状態」を同時に提示したほうがわかりやすいし、自然ではあると思う。
6.翻訳の難所。「私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし」は、いろいろな訳が可能だ。しかし、本人の感覚に属する事柄であるからこそ、どれが最適の訳になるかは、翻訳者にはわからない部分がある。どれだけ字面を正しく移し替えたとしても、それで本人の心の内を十分に言語化できているのだろうかという疑問が残ってしまう。
そう考えると、I became almost devoid of emotion, somehow closing off my sense of humanity という英語版は、踏み込みすぎず、かといって、たんなる字義的な訳でもないものになっていると思う。「無感動」を、「感情を失う devoid of emotion」と、「人間らしい心」は「わたしの人間性の感覚 my sense of humanity」とし、「人間らしい心も閉ざし」の「も」をおそらく somehow に託したのだろう。「closing off my sense of humanity」として間違いではないけれど、こうしてしまうと、almost のニュアンスが弱まってしまうように思う。ここはよく考えられた訳だと思う。
7.段落のまとめ方。英語のほうが、順序や帰結が強調されている部分がある。
一発の原子爆弾は私の身内 5 人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。
Thus, one single atomic bomb transformed five of my relatives, so mercilessly, taking all of their lives in one fell swoop.
英語版には、日本語版にはない「このようにして Thus」が挿入されており、これがまとめの一文であることを、いっそう強調している。
また、「無残な姿に変え」を、transformed(姿を変えさせる)と、so mercilessly(あまりにも無残に)に分割することで、「無残な姿」に変えさせたことが、一挙に命を奪った〈原因〉であることが、いっそう鮮明に浮かび上がってくるように思う。
8.記述の水準をどこに設定するか。
誰からの手当も受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。
There were hundreds of people suffering in agony, unable to receive any kind of medical attention. I strongly felt that even in war, such killing and maiming must never be allowed to happen.
「受けることなく」は、純粋な事実の記述だと思ったのだけれど、英語版では「受けることができず unable to receive」となっており、もうすこし含みがある。
また、「たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけない」というのは、「この」戦争について、目の当たりにした「人間の死とはとても言えないありさま」について感じたことであると思ったのだけれど、英語版では、たとえ戦争といえども、このような殺し方、傷つけ方が「起こることは決して許されてはならない must never be allowed to happen」となっており、戦争「一般」についての意見を述べているようにも聞こえる。
9.7で述べたことの繰返しになるけれど、英語版のほうが、日本語版よりも、因果関係が整理されて聞こえる。日本語版は時系列的な語り(順次)だが、英語版はそれが原因/結果の説明になっている。
生き残った被爆者たちは被爆後 7 年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。
The survivors, the Hibakusha, were forced into silence by the occupying forces for seven years. Furthermore, they were also abandoned by the Japanese government. Thus, they spent more than a decade after the bombings in isolation, suffering from illness and hardship in their lives, while also enduring prejudice and discrimination.
言っていることに変わりはない。「被爆後7年間、占領軍に強いられた沈黙」→「日本政府から見放された」→「被爆後十余年の孤独・病苦・生活苦・偏見・差別」。しかし、英語版では、まず「占領軍 the occupying forces」によって強いられた7年間の沈黙があり、センテンスをあらためて、「さらに Furthermore」、日本政府によって「見放され abondoned」たとあり、もういちどセンテンスをあらためて、「こうした/したがって Thus」とすることで、占領軍と日本政府の二重の処置があったせいで、「被爆者 the survoivors, the HIbakusha」が「十年以上 more than a decade」、苦しまなければならなかったことを、より明確に提示している。ここでも、1で述べたように、責任の所在——日本政府の責任——が、前景化されている部分がある。
10.歴史記述的な部分は、日本語版と英語版で大差はないように思う。ただ、日本語版にはある所感——それは日本政府を批判するコメントである——が抜け落ちている部分もある。
その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。
「ささやかなものでした」という皮肉を込めた表現から伝わってくる静かな怒りと失望は、「限られたもの/限定的なものでした was limitedlimited」というニュートラルな英訳には感じられない。
11.すでに何度も述べたが、英語版のほうが、日本語版よりも因果関係がクリアに伝わってくる気がする。つまり、田中さんが「日本政府による補償の不在」をあらためて強調したことは、日本語版の読者よりも、英語版の読者のほうが、納得するのではないかと思う。
それぞれの国で結成された原爆被害者の 会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。
日本語では「誰に」訴えたのかが明示されていなけれど、英語版では、「urged the government of Japan to act(日本政府に行動するよう強く訴えかけた/迫った)」ことがはっきりと言明されている。
12.起承転結の「転」を好む日本語が多用しがちな表現は、あえて翻訳されていないようだ。
さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。
日本国内の試みから、他国の被爆者との連帯をとおして、世界に向けた活動を展開していったという経緯を語ったあとでの総括として置かれているこの段落は、英語的なロジックで言えば、「さて」という「話題転換」ではなく、「したがって」「ですから」のように、論理的な帰結のようにまとめて欲しいところではある。
そのことを考慮してのことなのか、英語版には「さて」に相当するワードがない。
It is the heartfelt desire of the Hibakusha that, rather than depending on the theory of nuclear deterrence, which assumes the possession and use of nuclear weapons, we must not allow the possession of a single nuclear weapon.
13.上記の箇所の別のポイント。「核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論」を、非制限用法で訳しているのは見逃せない。というのも、ここを制限用法(コンマなし)にしてしまうと、「核兵器の保有と使用を前提と〈しない〉核抑止論」は容認するというニュアンスが出てしまうからだ。やはり、このように書いた方が、「核抑止論」そのものにたいする反対の立場が明確になるだろう。
また、「心からの願い」を heartfelt desire とし、「持ってはいけない」を must not allow the possession(所持を許してはならない)とすることで、日本語の言い回し以上に強いトーンを作り出していると言えるだろう。
14.日本語よりもトーンが強くなっているところ、訴求力が強くなっているところはほかにもある。日本語だと、「わたし」が「あなたがた」に訴えるという構図だが、英語版だと、「わたしたち」がすべきことは何かを「わたし」が提案するという構図になっている。
ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。
I therefore plead for everyone around the world to discuss together what we must do to eliminate nuclear weapons, and demand action from governments to achieve this goal.
こう言ってみてもよい。日本語版だと、〈何を〉すべきか――「核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか」―—が焦点化されているけれど、英語版だと、〈誰が〉がそうすべきか――we must do――が明示的である。
さらに付け足すなら、日本語版では、「話し合い、求めていただきたい」と、押し付けを避けるような言い回しになっているのにたいして、英語版では、「求めていただきたい」の部分を、demand(求める、要求する)という強いワードにするばかりか、「何を」求めるか――action from governments(諸政府による行動)――、「何のために」求めるか―― to achieve this goal(この目標=核兵器廃絶を達成するため)――がもういちど繰り返されている。
英語版のほうがメッセージが鮮明である。
15.トーンの強さは演説の締めくくりで如実に感じられる。
日本語版では、「ください」という丁寧なお願いが、英語版ではurge(熱心に訴える)に置き換わっている。
(ところで、この箇所だけれど、英語版は、日本語版とはちょっと違うふうに読めると思う。
世界中のみなさん、日核兵器禁止条約 のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。
I urge everyone around the world to create opportunities in your own countries to listen to the testimonies of A-bomb survivors, and to feel, with deep sensitivity, the true inhumanity of nuclear weapons.
日本語版では、「原爆体験者の証言の場」を各国で開くことが目標であるように聞こえるけれど、英語版では、「あなた自身の国で機会を創り create opportunities in your own countries」、「原爆体験者の証言に耳を傾け listen to the testimonies of A-bomb survivors」、そうすることで、「核兵器の紛うことなき非人道性を、深い感受性をもって、感じる feel, with deep sensitivity, the true inhumanity of nuclear weapons」ようにと、強く訴えかけている。
別の言い方をすると、日本語版では、「核兵器の非人道性を感性で受け止める」ために「原爆体験者の証言の場を開いてください」という話に聞こえるけれど、英語版には、そのようなニュアンスと同時に、「原爆体験者の証言を聴く機会を創る」ことで、「核兵器の紛うことなき非人道性を、深い感受性をもって、感じる」という状態に至るべきであるという含みもあり——to 不定詞は、「するために」という目的の意味と、「○○したので、そうなる」という結果の意味がある——、日本語版と英語版では、手段と目的が入れ替わっているように聞こえる部分がある。
日本語版の「核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!」という掛け声は、いかにも日本語的であるというか、「応援の掛け声」でありながら、当事者性と他人事感が微妙に入り混じる言い回しでもあるというか、「頑張る」が心意気の問題なのか行為の問題なのかがぼやけてしまう部分があるけれど、英語版は Let us work together(共に活動していきましょう)であり、「実践」を語っていることが明白になっている。
というわけで、英語版と日本語版の印象はかなり違うと結論したい。もちろん、日本語版でも、日本被団協の全般的な位置づけ、個人的体験、被団協の誕生と国内での活動、海外との連帯、世界への訴えかけという流れは明確ではあるけれど、英語版のほうがこのストーリーはもっとはっきりと浮かび上がってくる。
また、日本語だと、どうしても「ください」や「頑張りましょう」のような、アグレッシブになりすぎないような気づかいがあり、それがトーンを弱めてしまっている一方で、英語では被団協の根本的なメッセージ、連帯や協働の意識が、ストレートに伝わってくるように思う。
さらっと書こうと思ったのに、妙な大作になってしまった。
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