うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ダメージの存在しない世界を想像しなければならない(ソルニット『私のいない部屋』)

「この世界の半分には、女たちの恐怖と痛みが敷き詰められている。あるいはむしろ、それを否定する言葉で糊塗されている。そして、その下に眠っている幾多の物語が陽の目を見る日がくるまで変わることはない。私たちは、そんな風にありきたりで、どこにでもあるダメージの存在しない世界を想像できなくなっている。ひょっとすると、そんなダメージがなければ世界はびっくりするほど明るくなるのではないか。今はほとんど経験できない、自信をもつことの喜びがずっとあたりまえになるのではないか。人類の半数から多くのことを遠ざけ、あるいは触れさせもしなかった重荷を取り去ってくれるのではないか。そう言いたいがために私はこんなことを書いている。」(ソルニット『私のいない部屋』81‐82頁)

類的な存在の個人的な寂しさの普遍性(『吉本隆明代表詩選』)

「若し場処を占めることが出来なければ わたしは時間を占めるだろう 幸ひなことに時間は類によって占めることはできない 」(吉本隆明「固有時との対話」『吉本隆明代表詩選』94頁)

 

「わたしはほんたうは怖ろしかつたのだ 世界のどこかにわたしを拒絶する風景が在るのではないか わたしの拒絶する風景があるやうに……といふことが 」(吉本隆明「固有時との対話」『吉本隆明代表詩選』96頁)


「三浦 孤独を語る時さえ「わたしたち」なんだ。それは、それこそ吉本さんがいちばんはっきり言っていたことだけれど、マルクスから学んだことは抽象することが力になるということ、抽象の重要性と、もうひとつ「個は類である」という認識でしょう。つまり、高橋源一郎が書斎のなかで苦しんで書いていると言った場合に、それは個的な苦悩なんじゃない、類的な苦悩、世界の苦悩なんだと。それこそ人間であるということなんだ、と。マルクスを飛び越してヘーゲルにいっちゃうようなものかもしれないけれど、それが全面的に出てくる。それこそが吉本隆明吉本隆明になったということなんだと、それはそうかもわからない。それにぼくらは圧倒されたわけだから。だけどほんとうは、その前の段階に「ぼくが罪を忘れないうちに」の「ぼく」というのがあるんだということです。」(高橋源一郎、瀬尾育生、三浦雅士「「豊かさ」の重層性――『吉本隆明全詩集』をめぐって」『吉本隆明代表詩選』207‐8頁)

「言語と言語の繋ぎ目に浮かびあがる /曖昧な亡霊」:四方田犬彦『人生の乞食』(書肆山田、2007)

詩を作ることはかつては魔術と同義だった。放たれた言葉は毒を塗った鏃となって目指す相手の肉体に突き刺さり、その妻を犯し、家畜を損った . . . 詩の本質が頌であると説く者は滅びてあれ。詩ははるか以前に痛罵であり呪文であって、挽歌とは死を願う律の零落した姿である。(「ゴルゴン」162頁)

とは書きつけるが、四方田犬彦のなかに詩の力を信じる気持ちがないはずがない。そうでなければそもそも詩を書こうなどとは思わないだろう。そうでなければ「十五歳のときに手掛け、まもなく中断してしまった詩作」を「四十歳にさしかかろうとした頃」にもういちど立ち返ろうなどとは思わないだろう(188頁)

四方田の詩は、一人称的な視点から書かれてはいるし、彼自身の旅の体験を踏まえたものではあるけれど、抒情詩と言うのははばかられる。私小説的と言うのははばかられる。ここに書きつけられるのは四方田の五感が受け取ったものであり、彼が思い考えたものだろう。けれど、それは、内面の赤裸々な吐露ではなく、分節された思想の表明であり、加工された情感の表現である。

作っているというのではない。けれども、彼の詩のなかでわたしたちが目にするのは、意図的に作り込まれた表現だ。この意味で、自らの表現=表象にたいしてきわめて自意識的であるという意味で、四方田の詩をモダニズム的と呼ぶことは許されるだろう。

わたしが語りたいと望む意味内容の強さに拮抗するには、どのような意味表現(とその過剰)を準備すればよいのか。挫折と齟齬の痕跡を、わたしはせめて文学と名付けて、きみの前へ提出することだ。(「悲嘆の文法」106‐7頁)

実際、四方田の詩のモデルのひとつと言えるのはエズラ・パウンドの『キャントーズ』だろうと思う。何度か、『ピサ詩篇』のなかのCanto LXXXIのなかの一節である"What thou lovest well remains,/ the rest is dross"が繰り返されていたし、Canto Iが自由訳のかたちで取り入れられていた。しかし、それ以上に重要なのは、パウンドの詩作の基本態度、歴史の細部と詩人の意識のシームレスな交錯だ。

わたしとは縁

言語と言語の繋ぎ目に浮かびあがる

曖昧な亡霊。(「パレスチナ・スウィート」87頁)

 

四方田の詩は、もしかすると、映像的な内面描写なのかもしれない。反客観的、反主観的。意識そのものを描き出すために、意識が認識している対象を外側から客観的に描写しながら、それと同時に、対象を認識している意識そのものを内側から主観的に表出していく。だから四方田の詩は、抒情的なところでもウェットになりすぎない。どこか乾いたところ、どこか突き放したところがある。

 

四方田の詩は、きれいな構造を拒む。形式が内容を規定することを拒む。

対称的なるものは例外なくわたしを退屈させる。摩滅した物質のもつ独特の魅力は、均衡と反復をもって秩序づけられたものに対する嫌悪と、深く結びついている。(「摩滅の賦」145頁)

どこか自己矛盾的な立場の表明でもある。モダニズムは形式を自意識化するものであり、メタ的なモメントを存在意義とするものだからだ。

 

四方田の詩が求めていないもの、それは、彼の詩が永続的なものになること、固定したもの、不変のものになることだろう。むしろ、彼は積極的に、自らの詩が擦り切れ、変形し、バラバラになっていくことを受け入れるし、それを歓迎する。

詩が恐れているのはみずからの肉体の毀損であり、摩滅だ。とはいうものの、摩滅のはてに稀少な断片と化した詩は、何という魅惑に包まれていることか。(「摩滅の賦」150‐51頁)

この歓びに充ちた自己放棄があればこそ、四方田の詩はたんなる知的作物であることを免れている。彼の詩がきわめて知的なもの、甚大な文学史的知識に裏打ちされた学者的批評家ないしは批評家的学者の作であることは誰もあえて否定しないだろう。しかしそれだけではない。それ以上のもの、それ以外のものが、彼の詩の倫理をかたちづくっている。

誰もが知っているというのに

誰にも指さされることのないもの

そんなものが世の中には確かに存在している。(「パンのみにて生きる」58頁)

普遍的王様的幸福(ロバート・ルイス・スティーヴンソン「楽しい考え」)

"The world is so full of a number of things,/ I'm sure we should all be as happy as kings." (Robert Louis Stevenson, "Happy Thoughts" in A Child's Garden of Verses.)

「この世界には/いろんなものがいっぱいあるから/ぼくたちはみんな/王さまみたいに幸せなはず」(ロバート・ルイス・スティーヴンソン、池澤春奈・池澤夏樹訳「楽しい考え」『子供の詩の庭』41頁)

みんなに必要なジェンダー史、または歴史を学ぶことの愉しみ:弓削尚子『はじめての西洋ジェンダー史』(山川出版社、2021)

ジェンダー史を学ぶこと、それはわたしたちのジェンダー概念を問い直すこと、その起源や変遷をたどりなおすことでもあり、その意味で、歴史は現代における世界認識や世界理解に衝撃を与えるものである。

ジェンダー史は、女についてのもの(だけ)ではない。というのも、女はつねに男という対照項との関係において(またはそれ以外のジェンダーとの関係において)規定されてきたものだからだ。ジェンダー史について考えることは、ジェンダー分割について考えることであり、それは、ジェンダーという視点から人間という概念=存在について考えることであると言ってもいい。

家庭、女らしさ、身体、異性装といった視点ばかりか、男のほうからの視点――男らしさ、兵士、ホモセクシュアル――を含めて、近現代史を中心に、議論が展開していく。どの章も面白い。ジェンダー史の研究がどのように生まれ、発展してきたのかも、手際よくまとめられ、有機的なかたちで歴史についての議論に組み込まれている。最終章はポストコロニアルな視点を導入し、グローバルヒストリーを視野に入れている。ジェンダー史を深く狭く内向きに掘り下げるのではなく、ジェンダー史が何に向かって開かれているのか、何に向かって開くべきなのか、それが本書を貫く問題意識だ。

素晴らしいバランス感覚で書かれた本。網羅的でありながら、マニアックにはなっていない。批判意識にあふれているが、詰問調ではない。歴史学の知的興奮や倫理的使命が、きわめて説得的に、しかし、強制的ではないかたちで、全編にわたって提示されている。挿絵が多く、パラパラとページをめくるだけでも面白い。

『はじめてのジェンダー史』という題名どおり、初心者のために書かれた本ではあるが、参考文献が詳細で、研究の手引きにもなる。手元にあってもいい一冊。

ただひたすらに純粋で上質な音楽:ケント・ナガノの傍流的一流

ケント・ナガノの指揮する音楽の魅力がどこにあるのか長いこと理解できないでいた。それどころか、魅力に乏しい指揮者だと思っていた。音楽が直截すぎる。ふくよかさに欠ける。かといって、まっすぐすぎるところが、触れれば切れるような鋭さにまで研ぎ澄まされているわけでもない。フットワークは軽い。響きは明るくクリア。けれども、とりたてて色鮮やかではない。ひどく澄み切っているというわけでもない。すべてがとてもよい感じ。ただそれだけのこと。凡庸に上質な音楽。

ケント・ナガノのあまりにも渋いディスコグラフィが、そのような印象を後押ししていた。リヒャルト・シュトラウスサロメ』フランス語版、プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』フランス語版。『ナクソス島のアリアドネ』初稿版。ブゾーニファウスト博士』、プーランクカルメル会修道女の対話』。リヨン国立歌劇場との一連の録音。メジャーな曲のマイナー版。マイナー作曲家のメジャーな大曲を、これまたメジャーというにはマイナーだがマイナーというにはメジャーすぎるヴァージン・レコーのために録音している。レパートリーにしても、レコード会社にしても、玄人好みすぎる。

ケント・ナガノが仕事をしてきた楽団もまた、傍流的な一流といいたくなるところがある。イギリスのマンチェスターのハレ管弦楽団、フランスのリヨン国立オペラ、アメリカのLAオペラ、ドイツのバイエルン国立歌劇場。ベルリンでは、ベルリン・ドイツ交響楽団スウェーデンでは、エーテボリ交響楽団。そして現在は、カナダのモントリオール交響楽団音楽監督。充分すぎるほどに輝かしいキャリアではある。けれども、たとえば同世代のサイモン・ラトル――ラトルは1955年生まれ、ナガノは1951年生まれ――と比べると、側道のようにも見えてしまう。し、1959年生まれで歌劇場叩き上げのクリスティアンティーレマンが一貫してドイツ圏でキャリアの階段を登っていったのと比べると、軸が定まっていないようにも見えてしまう。

ケント・ナガノにとって大きな転機となったのは。オリヴィエ・メシアンフランク・ザッパとの交流であったという。指揮者として大きな影響を受けたのはバーンスタイン。70歳記念インタビューのなかでそう述べている。「バーンスタインは肉体的な意味でもっとも有機的なコミュニケーター the most physically organic communicator だった。」

ケント・ナガノの口調は優しく、思慮深い。日系アメリカ人の英語の特徴と言っていいのかわからないけれど、アクセントが柔らかい。抑揚がゆるやか。リズムが丸い。丁寧に言葉を選びながら話す。無駄なところがない。言うべきことだけを、誠実に語る*1

ケント・ナガノアメリカ日系3世。カリフォルニア大学バークリー校に在学中に学生結婚した両親のもとに生まれる。父は建築技師、母は微生物学者。ケント・ナガノはカリフォルニア大学サンタ・クルーズ校で社会学と音楽を学び、サンフランシスコ州立大学に転学して法学と作曲を学んでいる。そして、1978年から2009年まで、30年近く(!)にわたって、バークリー交響楽団音楽監督を務めている。

ケント・ナガノはオーケストラに愛される指揮者であり、オーケストラを愛する指揮者なのだと思う。強いることなく、求めるものを引き出すことができる音楽家。スターではない。ショーマンでもない。しかし、誠実で真摯。人を惹きつける真面目さ。

ケント・ナガノのトレードマークであるロングヘアは、小澤征爾を思わせる。しかし、小澤に感じられる、西欧に対峙する日本人の悲愴な気負いが、ケント・ナガノにはない。ケント・ナガノは自然体で、無理をしている感じがない。

ケント・ナガノの音楽は、にもかかわらず、西欧的なものから解放されている。彼の音楽は、歴史的伝統を背負っていない。過去の遺産を無視しているわけではない。けれども、それに引きずられていない。

ケント・ナガノは歴史や伝統を相対化する。けれども、それを解体したりはしないし、独自の音楽観にもとづいて再構成したりはしない。相対化したうえで、歴史や伝統を素直にストレートにたどりなおす。すると、なにも不自然なことはやっていないのに、まったく自然なことしかやっていないのに、全然別物の音楽になる。彼の指揮する音楽からは、作曲家特有の臭みが抜けている。ブラームスシェーンベルクのようなクセの強い作曲家の曲が、独自色を残したまま、不思議なほどに聞きやすいかたちで、わたしたちに届けられる。

youtu.be

ケント・ナガノのハーモニーのバランスは、穏健で新しい。特定の音や響きを強調してやろうというこれ見よがしなところはない。指揮姿にしても、魅せてやろうという無意味なところがない。知的な音楽ではあるが、頭でっかちの音楽にはなっていない。肉体がある。健やかで、思慮深い身体がある。

すべては音楽のために。音楽のためだけに、彼の体や心が用いられている。ただひたすらに、ただひたすら純粋に、上質な音楽が追求されている。上品な薄味。非歴史的で、脱歴史的で、超歴史的な音楽。しかめっ面ではなく、歓びに充ちた笑顔で、愉しげに、真面目に、ただひたすらに追及される純粋に上質な音楽。

youtu.be

*1:顔のことを語るのはあまり好きではないけれど、ケント・ナガノの顔は吉本隆明の顔を思い出させる。

サン=サーンスとフォーレの同時代性と時代錯誤性:ジャン=ミシェル・ネクトゥー『サン=サーンスとフォーレ――往復書簡集1862-1920』、ミヒャエル・シュテーゲマン『サン=サーンス』、ネクトゥ『ガブリエル・フォーレ 1845‐1924』

フォーレサン=サーンスは、一八七〇年頃までは、その当時末だ色濃くのこされていたロマン派様式、一八八〇年代には世紀末様式へと進展してゆきつつ、それぞれの作品を築き上げてゆくが、一九〇〇年頃から二人の方向性は全く異なってしまうことに注目すべきである。歴史上のこの二人の音楽家の個々の立場は、著しく変化するのである。フォーレは明らかに、ロマン派の音楽が終わりラヴェルドビュッシーの近代の音楽に移り変わる二十世紀の転換期に位置していたのだ。一方、サン=サーンスは古典的な伝統を保持するにとどまっており、表面化してきた確信には驚愕の視線を注いでいた。フォーレドビュッシーのもたらした音楽語法の革命に恐怖心を抱いていたのだ。(ジャン=ミシェル・ネクトゥー「序論」『サン=サーンスフォーレ――往復書簡集1862-1920』49‐50頁)

 

ジャン=ミシェル・ネクトゥーは『サン=サーンスフォーレ――往復書簡集1862‐1920』に寄せた序論のなかで、ふたりのフランスの音楽家の関係を以上のようにコンパクトにまとめているが、これはまったく的を射たものであるように思う。

 

シャルル・カミーユ・サン=サーンス Charles Camille Saint-Saëns(1835-1921)

ガブリエル・ユルバン・フォーレ Gabriel Urbain Fauré (1845-1924)

 

サン=サーンスにとってフォーレは、1861‐65年にかけて、ニデルメイエール音楽学校で教えていたときの生徒のひとり。サン=サーンスにとってフォーレは大切な教え子のひとりであり、教え諭す対象、導くべき相手であった。

厳しい批評をするためには、好きではないものの価値を尊重することを覚えなくてはいけません。(サン=サーンスからフォーレへの手紙、19041124『往復書簡集1862-1920』138頁)

しかし、先生としてのサン=サーンスの態度は、厳しい優しさにあふれている。

私へ返事を書くことを、かたく禁じます。一日中仕事をしている時は、手紙を書くことがどれほど妨げになることか、私にはわかります。労力を惜しんでください。(サン=サーンスからフォーレへの手紙、19080901『往復書簡集1862-1920』158頁)

しかし、10歳しか年が離れていないせいもあるのだろう、ふたりは、互いに敬意を抱く同僚でもあった。そして、先生から生徒にたいする信頼は揺るぐことがなかったのである。『往復書簡集』の編者ネクトゥは次のように書いている。

おそらく、最も注目に価すると考えられることは、サン=サーンスがたとえフォーレをもはや理解しなくなっても、彼を大家と見なし続けたことであろう。フォーレは実際、サン=サーンスの作品の明快で公正な性向を、常に保っていたが、サン=サーンスは、かつての弟子の美学的進展を追いかけることはできなかった。彼はこのことを、実に率直に告白している。この時代のもっとも理知的な音楽家は、あきらめて、何もしなかったのである。フォーレへの友情があったればこそ、サン=サーンスは思い煩うことなく、この事実を冷静に受けとめられたのだ。(「序論」『往復書簡集1862-1920』27‐28頁)

 

サン=サーンスルネサンス的な全人的天才だった・ミヒャエル・シュテーゲマン『サン=サーンス』によれば、サン=サーンスは作曲家にして演奏家であったばかりか、詩人であり、劇作家であり、天文学者であり、哲学者であり、博物学者(ラマルクの分類学ダーウィンの進化論を擁護した)であり、考古学者であり、民族学者であり、素描家や漫画家でもあった。

傑出した演奏家であった。初見能力、即興能力、編曲能力に秀でており、オーケストラスコアをピアノで弾きこなし、オルガンの即興演奏を得意とした。

音楽史家、音楽学者の顔もあった。ラモーやグルックの全集版にかかわっている。

愛国派で政治家的なところもあった。普仏戦争に従軍し、1871年に国民音楽協会を設立。フランス音楽の普及に尽力している。

 

サン=サーンスの伝記を読んで思ったのは、J・S・ミルのことだった。ミルは英才教育を受けた神童だったが、それは家庭教育の賜物でもあった。ミルは社会生活を奪われた少年だった。サン=サーンスにもそのようなところを感じる。母たちの愛に窒息しそうになっているところがあったように感じる。

もうひとり思い出した人物がいる。ピエール・ブーレーズだ。ブーレーズもまた、多彩な才能の持ち主だった。作曲家であり、指揮者であり、文筆家であり、IRCAMの創設者であった。音楽史に名を残す作品をいくつも書いた。しかし、指揮者として、組織の長としての仕事に圧迫されたのか、作曲家としては大成しきれなかったきらいがあるようにも思う。能力がありすぎたがゆえに、仕事が分散してしまったきらいがある。

 

サン=サーンスを器用貧乏というのはあまりに不当な評価だが、現代から振り返ってみた場合、作曲家としてのサン=サーンスの全貌はひじょうに見えづらい。交響曲でも、協奏曲でも、室内楽でも、オペラでも、音楽史に残る名曲を作ったが、決定的な大傑作をものにしたのか、音楽史の転換点となるような問題作を書いたのかというと、どうだろう。

サン=サーンスは19世紀初頭から中期にかけての音楽的のロマン主義の終着点ではあり、モダニズム的な音楽を作り出した次世代に開かれた扉ではあるが、彼自身は音楽史のなかで行き止まりを体現していたのではないかという気もする。サン=サーンスの弟子たちは、サン=サーンスのおかげで当時の現代音楽に開かれていったけれど、サン=サーンス自身の音楽を継続したわけではなかったのではないか。

とはいえ、サン=サーンスは19世紀後半から世紀末前の時期においては、まぎれもない「現代音楽家」であったはずだ。ベートーヴェンのような古典的ドイツ音楽の系譜をフランスに移入し、同時代的な前衛と言うべきワーグナーを受容しつつも、ドイツ様式の模倣には終わらない形で交響曲のようなジャンルで作曲した。ドイツびいきのフランス・ナショナリスト

 

サン=サーンスは長く生きすぎた。20世紀におけるサン=サーンスは時代に取り残されていた。彼の和声感覚はあまりに安定的なかたちで古典的に確立されており、世紀末における調性のゆらぎや踏み外し、20世紀初頭における調性の解体をフォローすることができなかったし、そもそも彼にはそうしたいという欲望もなかったのだろう。

シュテーゲマンが指摘するように、サン=サーンスは文学的な側面を多分に持ち合わせていながら、同時代の高名な詩人たちの詩に歌を付けることはなかったし、文学的なオペラを作曲することもなかった。それは、彼の後続世代が、ボードレールマラルメヴェルレーヌなどに歌を付けたのとは対照的である。このあたりにも、サン=サーンスの19世紀性、必然的な時代遅れ性があると言えるかもしれない。

前衛であり続けることの不可能性。

 

サン=サーンスの最晩年の連作ソナタは、モーツァルトのような古典的なたたずまいと、ロマン派的な拡がりが、不思議なまでの静謐さのなかでひとつに溶け合っている。

どこか第二次大戦後に書かれたリヒャルト・シュトラウスオーボエ協奏曲、クラリネットファゴットの二重協奏曲につうじる、不要なものをそぎ落とした簡素な筆致が描き出す、どこまでも澄みわたる彼岸の世界。

しかしそれは、ネクトゥーがいみじくも述べているように、「それまでのどの作品とも似ていない」ばかりか、「作曲者自身の音楽にすら似ていない」ものだった(「序論」『往復書簡集1862-1920』49頁)。

サン=サーンスは同時代をリードする音楽家としてキャリアをスタートさせながら、時代に追い越された。しかし、最後は時代のほうを置き去りにして、どの時代にも属さない独自の境地にたどり着いたようでもある。

 

フォーレは同時代的な音楽の変化に伴走し続けたと言える。しかし、それは、彼が前衛的な音楽語法を追いかけようとしたからではなく、彼の求めるものがそのような路線へとフォーレを導いていったというべきだろうか。

フォーレが求めたのは陶酔的な中庸だった。

フォーレはまさに陶酔に近い喜びをもった中庸の音楽家なのであ[る . . . ]かつて一人の友人に、「私は繊細さの領域をいっそう広げました」、と打ち明けているように、フォーレはその才能の多少とも限られた範囲において、ほとんど空前とも言えるほど濃やかで洗練された一つの世界を造り出したのである。おぼろげな、物を通して柔らかに差しこむような光に対する嗜好、平凡さや有りのままの現実のもつ卑俗さを拒否しながら示される暗示的でぼんやりとしたものへの秘められた好み、明確で視覚的な指示を持たない「夜想曲」、「舟歌」、「即興曲」等の表題の常用等は、かなり明瞭にフォーレの世界を位置づけている[ . . . ]。(J・M・ネクトゥー『ガブリエル・フォーレ 1845-1924』249‐50頁)

 

サン=サーンスフォーレの趣味には隔たりがある。しかし、その一方で、サン=サーンスフォーレに、そしてグノーにも見抜いたものがあった。彼らに共通する嗜好はあった。

眩惑、機知、真の素朴さ、新鮮味、古代文明の芳香(ネクトゥー「序論」『往復書簡集1862-1920』37頁)

そしてそれは、ドビュッシーラヴェルにも引き継がれていく傾向といえるかもしれないし、これこそ、20世紀のフランス音楽を、同時代のドイツ・オーストリア音楽と隔てる特徴であったのかもしれない。