日本のガイドブックではショッピングの項目で真っ先に取り上げらる場所ではあるけれど、正直、そこまで面白い場所でもない。日本の観光地によくある土産物屋の大集合体という感じだ。安かろう悪かろうとまでは言わないが、オーセンティックとは言いがたいまさに土産物クオリティなものが、あちらでもこちらでも、所狭しと並べられている。
もしかすると面白いのは店員の話すカタコトの日本語かもしれない。ピラミッド周りのラクダ業者や馬業者の呼び声が「Hey Japan!」的なぶしつけなものであったのにたいして、ここで投げかけられる日本語はもっと柔らかいものだし、どこでそのフレーズを仕入れたと聞きたくなるようなものがあったりする。たとえば、「価格破壊」。
ここでも声掛けは執拗ではあるけれど、彼ら(そう、声をかけてくる店員は男ばかりだ――いや、店員自体がそもそもほとんど男なのだから、当然と言えば当然か)はそれぞれの店の従業員であるからこそ、店先から離れてつきまとってくることがない。立ち去れば彼らの声は届かなくなる。それは気軽でいい。
土産物とはいえ、石彫りの動物の置き物のようなものになると、必然的に「ハンドメイド」になり、だからこそ、ひとつひとつの商品に微妙な出来不出来があり、なかにはなかなか味わい深いものがあったりする。
そんなカバの置き物を買おうとするが、ひとりの店員は150といい、彼が店の奥に引っ込んだ後もまだ店先で商品とにらめっこしながら迷いながら、そばに立っていた別の店員に聞くと、250と言う。さっきの店員は150だったぞというと、じゃあ150となる。「50」「それは無理だ、120」「80」「120」というようなやり取りを繰り返し、100で商談成立となる。これでもぼったくられているのだろうとは思うものの、100エジプトポンドは日本円にして700円ちょとであり、いつも言っている蚤の市価格を考えると妥当な気もしてしまう。
いい感じのブロンズ製の動物の置き物――ラクダとかアルパカとか――を、静岡の蚤の市で見かけるたびにいろいろ買っていた。買うたびに、「これはたぶんエジプトとか中南米に旅行に行った人が土産として買ってきたんだろうな」と思っていたのだけれど、今回、その仮説が実証された。自分が所持しているのと似たようなラクダの置き物を随所で見かけた。
ざっと見た感じ、大部分の売り手は大量生産品を売っているが、なかにはかなりちゃんとしたアンティークを売っている店もある。そうした店は、懐が深いというか、余裕がある。アグレッシヴに売りつけてくることはない。自分たちの売っているものが本当に価値あるものだと知っている者だけが持つことのできる悠然としたたたずまいがある。
そんな店で、アンティークな感じのタイルを3枚買う。一枚100エジプトポンドだというが、3枚あったのをまとめて買うから負けてくれというと、250という。真っ当なラインだと思い、買うことにすると、新聞紙で包む前にこれが買ったもので間違いないですよねという確認のためにタイルを実際にこちらに見せてから包み始める。包むにしても、タイル同士がぶつかり合わないよう、あいだに新聞紙をかませ、丁寧に折り込んできっちりと梱包し、その上からテープで留めてくれる。対応をしてくれたのは30代くらいの若い男性だったが、ほんの1畳くらいの間口の狭い店内には、中央にひとひとりがどうにか通れるぐらいの通路を残して、両側に商品がうず高く積まれていた。店先では、男性の父親だという人が、アンティークな感じの椅子にゆったりと腰かけ、コーヒーを飲みながら、悠然と新聞を読んでいた。きれいに梳かされた白髪、きれいに揃えられた髭、身体になじんだジャケット。かまびすしいテーマパークのような市場のなかで、彼だけが、別の文化圏に属し、別の時代を生き、別の世界に居るかのような雰囲気をただよわせていた。
市場の外れにある城門そばでは、10代ぐらいの若者が数多くいた。こちらのファッショナブルな若者のトレンドの髪型は、どうやら、上の毛はちょっと長めにのこして、サイドはツーブロック風に刈り込み、上の毛をモヒカンっぽく、しかしジェルできっち固めてしまうのではなく、ちょっとウェービーな動きのある感じにまとめる、というもらしい。そんな髪型をした若者をカイロの街角で見かけないのはなぜなのだろうかとふと思ったけれど、もしかすると、年齢層がちょっと違うのかもしれない。そして、そのちょっとの年齢差が、若年層の多いエジプトでは、大きな違いなのかもしれない。ハン・ハリーリで見た若者たちは基本的にティーン(10代半ば)だと思うけれど、カイロの街角で歩いている若者たちは若くても10代後半から20代前半なのかもしれない。確信を持って言い切れるほどにカイロを見たとは到底言えないけれど、年齢層と行きつけの場所のあいだには、ある種の相関関係があるような気はする。