うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20200103 Day 11 アズハル・モスクとムイッズ通り。

アズハル・モスクは10世紀終わり、ファティマ朝初期に建てられたモスクであり、カイロのイスラム建築のなかでも最初期に当たるばかりか、現在でもイスラム神学の中心的な地位を占める場所であるらしい。近くにはアズハル大学がある。東南アジアのイスラム教の若者が留学する場所らしく、東南アジア系の若者がモスクに向かて歩いていくのを多数見かけた。

モスクの建築様式の違いは結局最後までよくわからないままだったけれど、古いものは、柱が多く、そこまで天井が高くない気はする。しかし、広い石の広場があり、尖塔があるのは、時代を超えた共通の要素であるらしい。

イスラム教はイスラム教徒の生活の深いところにまで入り込んでいるというのは、毎日の生活が1日5回のお祈りというリズムによって動いているところに如実に現れているけれど、エジプトで目の当たりにしてみてなるほどと思ったのは、なんとも多くの人々がお祈りの時間にモスクに詰めかけ、静かに座り、説教に耳を傾け、お祈りをしているということだ。多くの人が同じ空間に集まり、同じ言葉を聞き、その空気を体内に取り入れているということだ。

考え方や感じ方のレパートリーは、そうした礼拝をとおして形づくられていくように思うし、もしそうだとすれば、そのようにして内面化されるレパートリーは本質的に共同的なものだろう。しかし、もしそうだとすれば、そこで西欧近代的な意味での個人主義というのはどのようにして芽生えるのだろうか。西欧近代個人主義が絶対的な善であるとか、絶対的な真であると言うつもりはない。アラビア語が分からないので、声の調子や速度、抑揚や声量にもとづく印象でしかないのだけれど、何かとても熱のこもった炎のような説教がスピーカーから流れてくるのを、モスクの外にまであふれた人びとが芝生のうえに座り、沈静するように、沈思するように、静かに厳かに聞いている神聖な姿を目の当たりにすると、そこで個人主義的な感性のレパートリーがそもそも可能性の地平に入っているのだろうかと、やはり、どうしても考えてしまう。

 

ムイッズ通りはハン・ハリーリのなかのほうにある。たった100エジプトポンドで8つもの施設を見ることができた。これはおそらくこれまで観光してきたなかで、もっともお買い得で、もっとも満足度が高いものだった。

これらの施設は13世紀から14世紀ぐらいに作られたものらしいが、アズハル・モスクと違って、天井が高く、装飾も壮麗である。

立て続けに密度の高い鑑賞をすることで、見えてきたものはある。たとえばイスラム建築は窪みにこだわっているのだろうという点だ。メッカの方向を示す壁の窪みがモスクのなかにあることは知っていたけれど、壁の装飾にしても、凹みが重要な要素をなしているのではないかという気がした。それはレリーフを基調としたファラオの建築物とは大きく異なるものだろう。

内観と外観には大きなギャップがある。たしかに入口の装飾は手が込んでいるし、扉は精巧な細工がある。けれども、壁はただの石積みだったりする。そしてそのただの石積みの内部には、ため息が出るほど細かな幾何学模様がある。

モスクは光を重視している。それは光がアラーの象徴であるからなのだろう――それを思うと、ハン・ハリーリでランプ的なものを売っているのは、宗教的に正しいのかもしれない。だからモスクにしても廟にしても、天井からランプを吊るす鎖というか紐のようなものがある。

ステンドグラスがあるのも、光を重視するがゆえなのだろう。しかし興味深いのは、そのステンドグラスにしても、外からだとそうは見えない。外から見ると、細工ものの格子で覆われているが、内側から見るとステンドグラスになっている。だからモスク内部に注ぐ光の効果はかなり穏やかであると言ってもいい。

モスクには天に開けた部分があるようだ。中庭というのとは違うように思う。それはキリスト教の教会が、たとえどれほど天井が高かろうと、究極的には閉じた空間であるのとは裏腹に、モスクはどこかで空に繋がっているような感じがするし、その空は、比喩的な意味での天空ではなく、この世にある実際の空であるような気がする。

色味の感覚は、時代によってずいぶん変わっていったのかもしれない。10世紀あたりのものだと、モノトーンというか、色というものを想起させない感じがあるけれど、13、14世紀ぐらいのものだと、ややくすんだ感じの白と黒の落ち着いたコントラストがあり、そこに暗めの青がある。これがオスマントルコ帝国時代になるともっと目の覚めるような青が入ってくるような感じがする。

扉の重要性。これは教会でもそうなのだろうけれど、イスラムのほうが、扉の装飾にこだわっているような感じもする。何となく木の扉は彫り物だと思っていたのだけれど、指物であることに気づいた。つまりパーツをはめ込んだものであり、細かな幾何学模様にしても、掘っているというよりは、パーツを組み合わせて出来ているのかもしれない。

シンメトリ。同じ模様が続いているようで、実はそうでもない。シンメトリという大原則はあるが、似たような模様のなかにさまざまなバリエーションがある。

コーランの一節がいたるところで図像化されている。アラビア語自体がすでにきわめて装飾的なのか、そのように描かれているのかはよくわからないけれど、文字がデザインであり、デザインが文字であるという部分はあると思う。文字は意味である以上に、かたちであり、神の存在証明であり、神の実在そのものであるかのように。

 

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