エジプトは多層的な歴史を持っている。ざっくり言っても3つの異なる流れがある。ファラオの時代、ギリシャ・ローマの時代、そしてイスラムの時代。それがすべて習合しているわけではないし、混ざり合うというよりは、異質なものが林立しているというようなニュアンスのほうを感じる気がするけれど、融合している部分も当然ある。
カタコンベはそうした例だ。前2世紀ごろに作られたという墓の全体的な造作はあきらかにギリシャ風だが、そこに刻まれているレリーフはファラオ時代の神々である。しかしその神々にしても、顔はファラオ的エジプト、装いはギリシャ風となっている。アレクサンダー大王の遠征によって始まったヨーロッパによるエジプトの征服が、融和政策として、意図的に土着信仰を取り込もうとした痕跡であると言うべきか。
ポンペイの柱と呼ばれる、現在は一本だけ残っている柱についても、似たようなことが言えるかもしれない。紀元前3世紀初めに立てられた長さ20メートルほど、直径3メートル近い柱の石はナイル川上流の花崗岩を切り出してきたものらしいし、その前にはスフィンクスがある。
それにしてもこのような巨大な石をどうやって立てたのかと不思議に思う。アレクサンドリは古代からかなり海に沈んできており、6-8メートルは下がってきているという。つまり歴史の遺構はいまや湾の底というわけで、毎年色々と海中から発掘されているとロンリープラネットに書いてあったから、いまよりさらに高い場所にあったということになるのだろうけれど、だとすればますます謎だ。運んでくるだけなら川を利用できるから何とかなるはずだけれど、それを立てる、しかも建物の柱として何本も立てるというのは、とんでもない労力だったはずだ。
ローマ劇場と呼ばれるところは、劇場ではなく、研究施設圏宿泊施設だったという。消失してしまったアレクサンドリア図書館は、古代世界において、知の一大拠点であったし、そこに招聘された学者たちのための滞在場所があったというのは、むしろ当然だろう。講義室は当然として、風呂まであったとのこと。ヴィラと呼ばれる一画には鳥のモザイクががあった。それを見ていて、カリフォルニアはマリブにあるゲッティー・ヴィラのことが思い出された。あそこはまさに、ギリシャ・ローマ時代を再現しようと、わざわざイタリアから大理石を取り寄せて作ったところだったはずだが、モザイク画もいろいろあったと思う。期せずして、長く留学してたカリフォルニアにおいて仮想的に作り上げられていたヨーロッパ文化の残響の先駆けを目にした気分がする。
カイトベイ要塞は15世紀のもので、海上防衛のために築かれたという。軍事施設だからなのだろう、装飾はなく、頑丈さを念頭に置いた造作になっているように見える。武器弾薬庫だったらしい小部屋がたくさんある一方、中庭を見下ろす司令官用の部屋がある。カイロでも思ったが、イスラムの作る石造りの建物はなぜこうもひとつひとつの石が大きいのだろう。
ちょうど大きな観光バスがついたところで、中国人の団体がいた。そういえば今日はいろいろな国からの観光客と遭遇した気がする。インド、中国、韓国。ヨーロッパからの観光客は言うまでもない。日本にとってエジプトはやはり明治近代以降のヨーロッパ経由のものではなかったかという気がするのだけれど、インドや中国にとってのエジプトは、どういう位置づけなのだろうかとふと思う。