うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20191231 Day 9 移動日に綴る間奏曲的な雑感3。

トゥクトゥクという乗り物。スクーターの後ろに座席をくっつけたような、不思議な乗り物。近距離の移動にちょうどよい。乗り心地はあまりよくないとも言える。運転手のなかには、自分の車体を思い思いに飾り付けている人もいる。やたらにポップな感じになっている場合もあるし、ボロイけれど愛着の深さを感じる場合もある。

ギザに移動するのに利用したタクシーは120キロでひたすらまっすぐなハイウェイを走っていく。あきれるほどにまっすぐなのだ。これが可能になるには最低2つのことが必要だろう。まず絶対的な条件として、直線を引ける平坦な土地があるということ(この地理的条件が日本には欠けている)。そして、その仮想の直線を実現できる政治力があることだが、それは同時に、その土地がまだそこまで開発されていないがゆえに、そこに住んでいる人口が少なく、道路建設によって犠牲になるものが少ないという社会的条件を必要とするのではないか。

サービスエリアもまたきわめてグローバルな空間であるような気はする。それは車社会の誕生とともに出現したものであるし、さらにいえば、郊外化と自家用車というライフスタイルの誕生を前提としているだろう。こう言ってみてもいい。サービスエリアが果たすべき機能は、世界中どこでも基本的に同じである、と。休憩所であり、軽食所であり、トイレである。もちろんそれをどの程度の洗練を持って実現化するかは、国によって異なるだろうけれど、大元にある設計精神は同じであるように思う。

設計。建物や空間の設計が独特というか、特異というか。訪れた大学のキャンパスは、バリアフリーを念頭に置いて作られたのだとは思う。階段横にスロープがあるし、エレベーターもある。しかし、その一方で、キャンパスには不要と思えるくらい段差が多い。コーヒーショップのまえには公園的な空間が広がっているが、そのあいだには段差がある。学内寮の入り口には階段が5段ほどあって、地面よりかなり高くなっているし、建物自体がエントランスよりも一段高いところに建てられている。

階数の数え方にも混乱させられる。エジプトはヨーロッパ方式に従っているようで、地階を1階と数えない。だからエジプトの言う4階は日本だと5階に相当する。それだけならまだいいのだけれど、どうも階段と階数がいまいち一致していないようにも見える。たとえばカヴィフィス博物館は「2nd floor」にあると壁の表示にはあったので、これは日本的な数えからをすれば「3階」ということになるわけだけれど、階段の感じからすると4階だった。

掃除。床に洗剤の原液でもつかっているのか、きれいといえばきれいだけれど、おそろしく滑る。

トイレの使い方のわからなさも悩みの種ではあるけれど、もっとも謎だと思うのは、男性小便器の高さだ。おそらく適正身長は175cmぐらいからだと思うものがスタンダードになっている。それより背の低いものはほとんど見かけないけれど、エジプト人男性の平均身長がそのくらいあるかというと、どうもそうは見えない。このあたりのあきらかに不釣り合いな配置がどのような計算に基づいてのことなのか、とても不思議に思う。

おつりのなさ。この手のあきらかな見込み違いは、観光客からすると、おつりの問題でもっと強く感じられるところだ。おつりが必要になること、そのために小銭を揃えておく必要があることなど、客商売をやっていれば絶対に承知していることだろう。にもかかわらず、ほとんどの商店やチケット販売所は、おつりを潤沢に持っていないらしい。客が払った紙幣で回していくというのが、エジプトにおける金の回り方の基本にあるように思う。だからなのか、おつりの端数が7から9になる(つまり5ポンド紙幣+1ポンドコイン/紙幣いくつかとなる)場合は、ひどく嫌われる。こうして、「もっと細かいのはないか?」「1ポンドはないか」と聞かれることになるし、「ない」と言われると非常に困った顔を見せられることになる。

煙草。水煙草が有名だが、普通の煙草も広く吸われている。禁煙になっている場所はいろいろあるが、レストランやカフェなどは喫煙OKのようで、灰皿がデフォルトでテーブルのうえに載っている。喫煙可能区域がますます狭められつつあるような国で希少な喫煙場所をどうにか確保して隠れるように吸っている人からすれば、エジプトの状況は天国のようなものなのかもしれない。

子どもの抱え方。なかなか変わった抱え方をするのを見かける。片方の肩のうえに担ぎ上げるようにしている。子どもは足を親の体の前と後ろにぶらぶらと投げ出している。もちろん子どもの顔が親の顔のほうを向くように、子どもが倒れ込むときは親の頭を抱えられるような向きになっているのではあるけれど、日本では見かけない抱え方だと思う。

英語の通じ方。友人の秀逸な言い回しを借りるなら、エジプトで通じる英語の多くは「自動販売機のコミュニケーション」なのかもしれない。想定にあるいくつかの質問には答えられるが、複雑なやり取りや予想外の質問には対応できない。だから、コミュニケーションは成立しているようで成立しない。言葉のキャッチボールというよりは、一方的な言葉の投げつけになってしまうことがある。RPGに例えるなら、あらかじめプログラムされたいくつかのやりとりをエンドレスに繰り返す村人たちと会話するような感触がある。とはいえ、彼ら彼女らが生存や労働のために必要としている英語とは、まさにそういうたぐいの英語なのかもしれないし、まさにそのために、彼女ら彼らは英語のフレーズやセンテンスを学んだのだろうから、内容のあるコミュニケーションができないと責めるのは英語しか話せない観光客の傲慢だ。結局かたくなに英語だけですべてをすまそうとしている自分のような人間が偉そうに言うことではない。

 

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