うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。近所のファーマーズ・マーケット。

アメリカ観察記断章。久々に近所のファーマーズ・マーケットに行ってきた。市のホームページを見ると、FMは(ほぼ)毎日市内のいろいろな場所で開かれているようだ。朝から正午ないしは1時くらいまでで、ショッピングモールの駐車場の一角だとか、公園の一部などが会場になる。固定式の棚があるところもあるが、自分の知るかぎりでは、移動式テントのほうが一般的だと思う。規模はまちまちだが30とか40くらいブースが出ているのが普通だろうか。

「ファーマー」と銘打っているが、農業生産物には限らない。肉や魚を売っているブースもいくつかあるし、石鹸や籠、花や観葉植物、オリーブオイルやパンを売っているところもある。そして食べ物の屋台もある。だから全体としてはちょっとしたお祭り気分だ。

自分の住んでいるところにアジア系住民が多く、それから農業(経営)に携わるのは歴史的にアジア系だったせいだろうか、中華系の野菜(とくに葉物)が多く並んでいるし、ファームの名前を見ると中華系が多いような感じがする。同じ気候の地域で育てられた露地物だからなのか、各ブースの品揃えにはさほど差がない。値段もそこまで大差があるようには見えない。だから何で差異化が図られているのか、なぜ人々がある特定のブースでズッキーニを買っているのか、いまひとつわかりかねる。たぶん何度か買って、ある生産者=ファームのファン=固定客になるというのが真っ当な流れだろうが、自分で試したことがないので確信がもてない。

本題に入ろう。FMにはたいてい弾き語りをやっている人がいる。日本でこういうイベント=スペースがあると、スピーカーであたりさわりのない音楽を流してしまうところだと思うが、アメリカだと基本は無音で、生演奏を尊ぶ気風があるように思う。面白いのは、ここで奏でられる音楽であり、こういうところで演奏する人々のことだ。

弾き語りだとアコギをアンプで増幅したもので、厳密に言えばカントリー音楽ではないが、そういう系統の音楽をやっている。近所のFMにあったもうひとつの演奏はエレキによるもので、長髪の白人のオッサンがインストをやっていた。

アメリカにおいて音楽は(少なくともある種の音楽は)依然として文化の領域にあり、商業には完全に取り込まれていないのかもしれない。商業的なものになる前の音楽の形が依然として残存しているのかもしれない、というような気がしたのだ。

日本で普通に耳にする音楽はほぼ完全に商業ベースのものではないか。どこに行っても音楽が聞こえてくる。しかしその音楽は伝統的なものではない。かつて音楽は生活と密接に結びついていたはずだ。たとえば田植え歌であり、子守唄であり、祭り囃子であり、神楽であった。しかしこうした民俗=民衆音楽はほとんどなくなってしまった、またはごく限られた機会しか耳にしないものになってしまったのではないか。自分の地元では秋祭りのときに屋台を引くのが常だった。屋台には小太鼓や鐘や大太鼓が付きもので、秋口から夜は集会所にあつまって練習したことをよく覚えている。そして祭りの当日、ねじり鉢巻をして日本酒を煽りながら揚々と笛を吹いていたオッサンがいたこともはっきりと思いだせる。それから夏祭りのときの盆踊りの音楽。ドラえもん音頭とか、もっと古典的な踊りの音楽。しかしこういう音楽はいまどこで聞けるだろう。

FMで聞ける音楽がとりたてて古臭いとは思わない。しかし日本の音楽がいわばカラオケによっていちど完全に商業的なものになってしまったとしたら、アメリカには依然として手作りの、自前の、素朴な音楽が文化として残っているように思うし、そういう音楽を日常的かつ恒常的に奏でるための機会が残っているのではないか、という気がしている。日本で伝統的な音楽のためのチャンネルがなくなってしまったとは思わない。しかし三味線でも笛でもいいが、そういう和楽器を耳にする機会は圧倒的に減ってしまったのではないかいう気がするし、和楽器はすでに異質なものになってしまっているのではないという気もする。

そんなことを考えつつひとりFMをぶらついた土曜の朝だった。