うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

表出の強度としての歌心:ヘルマン・シェルヘンの独善的な精神の気高さ

おまえがもっとも私淑する指揮者をひとり挙げてみろと問われたら、間髪入れず「ヘルマン・シェルヘン」と答える。

とはいえ、シェルヘンの録音すべてに傾倒しているわけではない。シェルヘンの録音はコンプリートに近いほど所持しているし、商業的に出回っているものはほぼすべて聞いていると思うけれど、そのすべてに納得しているわけではない。その意味でいうなら、ハンス・ロスバウトや、ロスバウトの後任にしてシェルヘンに指揮を学んでもいるエルネスト・ブールを挙げると思う。

ではなぜシェルヘンこそが自分にとってもっとも重要かと言えば、シェルヘンの音楽では精神的なものが歌っており、表現が、意味内容としてではなく、表出の強度の問題として捉えられているからだ。

シェルヘンの録音ほど表現主義的という言葉が似あう音楽もない。烈しすぎるほどの表出の意志が漲っている。すべての音が明確すぎるほどの輪郭とイントネーションで迸り出る。厳しすぎる音だ。響きはギスギスと痩せてしまう。信じられないほど加速したり減速したりするリズムは、オーケストラを崩壊に追い込む。晩年の録音であるルガーノ放送響とのベートーヴェン全集では、極端すぎるほどのアゴーギクやテンポ設定にオケが抵抗しているのがわかるし、納得できないまま半ばやけくそになって弾いているような雰囲気もある。

指揮台の上のシェルヘンがひどい暴君であったことは、エリアス・カネッティやブルーノ・マデルノが伝えているが、リハーサル映像を見ると、そうなのだろうと思わされる。そこに音楽にたいする全身的な奉仕はあるが、音楽家にたいする敬意は薄い。その意味でシェルヘンはトスカニーニ的である。

トスカニーニと似ているのは、シェルヘンの奇矯な音楽作りの根底にある歌心だ。シェルヘンの音楽を聞くたびに思い出すのは、2000年代初頭のある音楽雑誌に載っていた、シェルヘンの弟子であるフランシス・トラヴィスのインタビュー。トラヴィスによると、シェルヘンは指揮者になるためのトレーニングとして――ちなみにシェルヘンは指揮者の手引きというような著作を書いているが、シェルヘン自身はまったくの独学者であり、もとはヴィオラ弾きだったというが、そのあたりも、同じヴィオラ奏者としてシンパシーを感じている――バッハの『ロ短調ミサ』をパートごとに歌わせ、フーガやデュナーミクがパートがちがっても適切に歌われるかをテストしたという。旋律が声であることを、横の流れが歌であることを、シェルヘンはよくわかっていたのだろう。だからどれだけエキセントリックなテンポであろうと、シェルヘンの音楽は、すべてのパートが歌っている。

その歌は純粋だ。トスカニーニカンタービレがいわばオペラ的情念に端を発するものだとしたら、シェルヘンのそれは(ソシュールのシニフェイとシニフィアンの区別を借りるなら)シニフィアン的なものだと言ってよい。そこでは歌しか表現されていない。歌そのものがあり、その表現内容は存在しないかのようだ。バロック音楽アダージョを、シェルヘンはとんでもなく遅いテンポで弾かせることがあるが――たとえばヘンデルの『メサイア』の終結部――そこにはロマン主義的な内面性はない。遅さは、悲しみや物憂さを意味しない。遅さは、スピードの遅さでしかない。

しかしシェルヘンで恐るべきところは、遅さにもかかわらず、音楽の密度が変わらないところだ。基本的に音楽の密度というものは、テンポに関わらず一定であり、だからこそ、速くなるほどに濃くなり、遅くなるほどに薄まる(だからクレンペラーの晩年の録音は、テンポの遅さが音楽の弛緩や停滞を招くこともある)のだけれど、シェルヘンの場合、遅かろうが速かろうが、音楽の密度は変わらないし、歌の濃さはゆるがない。

現代的な基準からすると、シェルヘンの音楽が「下手」であることは否定しない。オケがついてきていない部分もあるし、解釈自体があまりに独特すぎる部分もある。にもかかわらず、彼の音楽にいまなお心を打たれるのは、そこでは精神が歌っているからだ。理性が歌い、感性へと変身しているからだ。

オケの技術的な不作為にもかかわらず、録音の時代的な限界にもかかわらず、シェルヘンの音楽は、時代を超えてくる。実際に聞こえてくる音の向こうにある精神の気高さに心を打たれる。それはもしかすると独りよがりなものにすぎなかったのかもしれない。しかし、その独善性は、自分のためではなく、音楽のために捧げられていた。

シェルヘンがバッハの『音楽の捧げもの』と『フーガの技法』を深く愛していたのは、よくわかる。数学的な音楽の生々しさ、幾何学的な音楽の艶めかしさの精神的な高貴さ。ヘルマン・シェルヘンの音楽のすべてはそこに賭けられているのだと思う。

 

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