うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。デリカシーのなさ。

アメリカ観察記断章。デリカシーのなさ。開け放たれた歓待は、デリカシーのなさと表裏一体であるように思う。いろいろな意味でアメリカ社会には慎み深さが欠けているように思う。遠慮する、包み隠すということを知らないのだ、この国は。たとえば、コンフェレンスの発表途中に堂々と席を立って部屋の隅にあるコーヒーポットでコーヒーを継ぎ足すこと。堂々とくしゃみをすること。部屋を出てレストルームに行くこと。「無神経な」としか言いようのない雑音。こうした現状を目の当たりすると、アメリカを称えるべきなのか貶すべきなのか、歓ぶべきなのかムカつくべきなのか、よくわからなくなる。まあ、我ながら虚しくなるほどに分かっているのは、こういう真似を日本でやるとやばいほどにKYに見られて、ものすごく浮いてしまうのだろう、ということだ。そんなくだらないことを考えてしまう自分はどこまでいっても日本人的小市民でしかないのかもしれないと思わずにはいられない瞬間が留学五年目でもよくある。日本的にもアメリカ的にもなれず、どちらにもなりたくない、そんな中途半端な気分。