うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

メノ・スヒルトハウゼン、岸由二・小宮繁 訳『都市で進化する生物たち―― “ダーウィン”が街にやってくる』(草思社、2020):都市環境という自然での進化

都市環境を進化のための土壌として捉えること、または都市もまた自然の一部であると考えること。それはつまり、人間と自然の二分法を改定することだ。人間が作り出した「人工的」な空間に生物が生息する以上、それもまた生物にとっては「自然環境」であり、そこでは、進化が稼働することになる。

都市にも生物多様性があり、独自の生態系がある。純粋な自然が失われたことは、もしかすると、嘆くべきことなのかもしれないが、それと同時に、都市という現実は近代以降の世界においてもはや否定できない事実であり、都市空間は拡大する一方である以上、人間存在(の作り出した環境)が生物の進化に影響を与える可能性を無視することは、自然を純粋な実験室であってほしいと願うようなものだろう。

それは、ひるがえって、人間の作り出す人工物を自然の一部として捉えることでもある。つまりここで人間はもはや自然を汚染する害悪という扱いを受けない。人間の「生態系工学技術」は他の生物より過激で破壊的かもしれないが、だからといって、人間だけのものでもない。

とはいえ、そのように人間の「環境破壊」を「生態系光学技術」と言い換えることで、人間が免罪されるわけではないだろう。とはいえ、都市という自然――たとえ「汚染」された自然であるとしても――に生物が適応できるとしたら、それは生物がそもそもそのような素因を可能性として持ち合わせていたことではあるし、そのような要素もまた進化の産物ではあるのだから、都市で栄える生物たちの究極的な創造主は自然ということになる(人間はあくまで副次的な条件にすぎない)というのは正しい。

しかし、都市という特殊環境で進化していった遺伝子が自然一般のほうに還流されるようになると、特殊が一般に影響(悪影響)を与える事態につながっていく。自然が交流するものであり、混淆するものである以上、そのような相互影響は避けられないとはいえ、そのような交換を加速させる人間の役割をいまあるままに任せて放置することは、倫理的な問題をはらんでいると言わざるをえないだろう。

人間の作り出したものが、進化を誘発し、加速させるようになる。Human-Induced Rapid Evolutionary Change(人間が誘発する急速な進化的変化)を完全に肯定的に受け入れてよいものか、著者自身、「おわりに」のなかで自問している。その不思議さにわたしたちの目を開くように促すこと、それは、ダーウィンが『種の起源』の最後の頁で述べたように、豊穣なる自然に驚きと畏怖の両方を感じるような態度を促すことでもあると思う。

本書がとりあげる具体例はどれもひじょうに興味深いが、図版がないせいで、いまひとつイメージしづらい。翻訳は悪くはないが、テクストの手ざわりが硬く、やや古臭い。漢語よりの訳語を多く選んでいるせいでもあるし、言葉遣いがやや大仰だからでもある。この点は好き嫌いが別れるところかもしれない。

湯浅博雄『贈与の系譜学』(講談社選書メチエ、2020):西欧キリスト教世界における「贈与の系譜学」?

バタイユブランショレヴィナスのラインで考えればそうなる(ニーチェからモース、そしてヘーゲル)のは当然だが、ネタがわかっている側からすると、このような贈与についての思索には、何番煎じかという印象を抱かざるをえない。それに、キリスト教精神を主軸とするこの論考に色濃くただよう西欧中心主義は、意図的なのかはともかく、現代において問題含みだ。見方としてあまりに狭い。21世紀においてモースを参照するのであれば、グレーバーが『負債論』でやったように、現代の人類学的な知見の系譜学をたどらないのは片手落ちだろう。それに、あきらかにニーチェを想起させる書において、生理学的なものや生物学的なもの(遺伝や進化の問題)――それこそニーチェが参照したものであり、だからこそニーチェのテクストは、哲学というジャンルにとどまらない拡がりや挑発性を持つのだ――を考慮に入れないのも、バランスが悪い。あまり褒められた意味ではなく、本書の考察は哲学的なものにとどまっているように思う。さらに問うてみたい。はたしてここで語られている精神世界を、筆者は、自らのものとして全的にひきうけることができるのだろうか、と。21世紀という時代において、日本という場において。少なくとも自分にはできない。だからすべがどうしてもどこかフィクションのようにしか響かない。贈与の系譜学とは言うが、「西欧(近代)における」という但し書きが抜けている(たしかにマリノフスキやモースを経由して非西欧の事例は参照されるが、それはあくまで彼ら西欧知識人のレンズをとおしてのものでしかないだろう)。とはいえ、贈与は絶対的なものであり、破格なものであるがゆえに、疑似的に、模擬的に生きるしかないというテーゼは、真理を突いているように思う。小見出し以上、要約未満の長さのサブセクションタイトルは、ヨーロッパの哲学書にときおり見られるスタイルだが(ただし、本文余白に脚注のように表記されるものであり、本書のように本文に統合されているわけではない)、Twitter的短文がコミュニケーションの支配的なモードとなりつつある現代において、ふたたび脚光を浴びる可能性もあるかもしれない。

雑な全体性のむこうにある精神:音楽家としてのダニエル・バレンボイムの音楽

ダニエル・バレンボイムの演奏は微妙に雑だ。彼の音楽は確かに全体性を捉えている。だからとても見通しがよい。旋律が歌っている。抒情性がある。勘所は外さない。しかし、瑕疵がある。

音楽のことを本当によくわかっている音楽家の音楽。バレンボイムによるベートーヴェンのピアノ・ソナタのマスタークラスを見ると、彼の譜読みがどれほど深く、どれほど豊かな音の想像力を持ち、どれほど確かな音楽の構築力を持っているかが、おそろしいほどに感じられる。

しかし、バレンボイムの音楽はどこか詰めが甘い。ありあまる才能に振り回されているようなきらいがある。音のエッジが鈍い。響きが濁っている。どこか洗練されきれていないようなニュアンスを感じる。指揮者としてのバレンボイムの音楽はどこか野暮ったい。

 

バレンボイムの指揮はピアニスト指揮者の良いところも悪いところも完璧に体現している。ピアノは基本的に単音の楽器ではない。同時に複数の音が鳴り響くものだから、ひとつの音の存在感は相対的に低下する。というよりも、音が減衰することを運命づけられているピアノは、オーケストラのダイナミクスと相容れないところがある。複数の音の関係性を両手の指で表現するピアノ奏者は、個々の音を全体との関係において(のみ)捉えるように訓練されているがゆえに、オーケストラの全体性を体現するように最適化されていると言ってもいい。

バレンボイムのピアノ自体にそのような傾向がある。音が薄い。響きが浅い。わずかにミュートがかかっているかのように、すこしくぐもった音がする。鳴りきらないとこがある。響きとしてはこのうえなく正しいし、抒情的な雰囲気はきわめて美しい。しかし、音楽が深く深く沈みこんでいけばいくほど、マテリアルな音の浅さが逆説的なまでに浮き上がってくる。どこか頭脳で弾いているような音がする。身体的な部分が希薄で、肉感的な耽美性に欠ける。音楽としては深いのに、音としては薄い。ピアニストのピアノというよりは、音楽家のピアノなのだ。

バレンボイムの指揮では、譜面上の音が巧みなバランスで正確に配置されているからこそ、個々の楽器の固有の音色の魅力が引き出されきっていないことに気づかされてしまう。音の「あいだ」の関係はこのうえなく適切であるにもかかわらず、音「それ自体」は個々の奏者に委ねられているようなところがある。楽譜の構造がマクロなレベルで全体的に捉えられているからこそ、ミクロなレベルでの音の何気なさが際立つ。ピアニスト指揮者の振る音楽は、いわば、ピアノの代替物としてのオーケストラという趣がある。オーケストラの魅力が浪費されているようなニュアンスがある。

 

しかしバレンボイムほどマルチタレントであり続けている音楽家もいない。ソロピアニストであり、室内楽奏者であり、歌曲の伴奏者でもある。コンサート指揮者であり、オペラ指揮者でもある。教育者としての顔も持つ。20世紀後半を代表する比較文学エドワード・サイードと対談できるほどの学識の持ち主であり、パレスチナイスラエル問題に積極的に発言する一方で、イスラエルワーグナーを演奏するといった音楽家ならではのデモを行ってきた。

そのなかでも特筆すべきは、サイードとともに創設した西東詩集オーケストラだ。ゲーテがアラブ世界の詩に憧れて晩年に詠んだ詩集の名前を冠するこのオーケストラでは、アラブ世界とイスラエルの音楽家たちが肩を並べて演奏する。ともに音楽を作ることによって、政治的な意味での直接的な解決がもたらされることはないだろう。しかしそれは、どのような行為にもまして、相互理解を促すものではあるはずだ。

 

バレンボイムが超人的な天才であることはまちがいない。キャリアの半ばで指揮者の道に入るピアニストは、ピアニストとしては一線を退いていくものだが、バレンボイムはそうではない。殺人的なスケジュールをこなし、商業録音をコンスタントに世に送り続けている。

しかし、その一方で、バレンボイムディスコグラフィから特別な一枚を選び出そうとすると、意外なほどイメージがわかない。どの録音も面白いけれど、いわゆる決定盤のようなものではない。

バレンボイムフルトヴェングラーに私淑してきたことはよく知られているけれど、バレンボイムもまた、音楽の一回性に賭ける音楽家なのかもしれない。彼の録音がどこか通過点であって、最終的な到達点のようには思われないのは、彼の音楽がつねに動くものであり、時間と空間のなかに消えていくものだからだろうか。

そんなバレンボイムも、80近くなり、「晩年の様式」(アドルノ/サイード)のような境地に至りつつあるらしい。散漫さと地続きだった奔放さが、その強度を失うことなく、乾いた瑞々しさに変化している。剥き出しに近いほどに構造があかるみに出される。リズムが厳しく叩き込まれ、輪郭が深く抉られるけれども、音楽の主導権はオーケストラに委ねられているようなニュアンスもある。両立しがたいものがいまのバレンボイムの音楽では共立している。

 

バレンボイムの音楽は、細部を聞くのではなく、全体を捉えるようにわたしたちを促す。それはもしかすると、音を聞くのではなく、音楽という現象を、現象の向こうにある精神のようなものを感知させることを目指すものなのかもしれない。

 

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バレンボイムの晩年の様式

バレンボイムも80歳近くなり、さすがに体が利かなくなってきた部分があるのか、足を揃えてすっと指揮台に立ったまま、ほとんどそこから動かない。上下運動が基調となるタクトの振れ幅は大きくない。もしかするとあまり肩が上がらないのかもしれない。しかし、ときおり見せる、捩じり込むような、突き刺すような指揮棒が、音楽を深く深く抉る。さりげないキューが、対位法の入りを的確に示し、旋律を浮かび上がらせる。

中音域の音色が分厚い。低弦の重量感は運動性を失うことがなく、全体を支えながら、自らも動いていく。オールディーな解釈ではあるけれど、古楽器的な部分がないわけではない。フレーズを細かく深く閉じるのではなく、ふわりと次につなげていく。パウゼが軽い。

バレンボイムの音楽はどこか雑で、落ち着かなさがあるというのが個人的な印象だった。やりたいことがありすぎて、そしてありすぎるやりたいことをできてしまう才能があるがゆえに、いまひとつ焦点の定まらない音楽になっているという印象があった。

しかし、このエロイカの演奏には、不思議なまでの無頓着さがある。すべてをコントロールすることを目指していない。完全なコントロールを放棄しているというのでもないし、オケに委ねているというのでもなく、それを超越したところで、何か別の統合を志向している。

各パートの音離れがよく、対位法的なところが強調される。ベルリン州立歌劇場のオーケストラの音の渋さと相まって、枯れたニュアンスがある。音は充実しているし、潤いもあるけれど、ここに鳴り響く音には、外に拡がっていく豊饒さではなく、凝縮した高密度のしなやかさがある。それがあまりに烈しいので、ときに、ひとつのオーケストラの音というより、別々の生命を宿した運動体が拮抗しているような手ざわりさえある。

にもかかわらず、全体の音楽はバラバラにならない。対立し、対決しているのに、すべてがなぜかとても穏やかに澄んだ感じもする。同じ次元では相反するしかないものが、別の次元で独自に運動するように導かれているがゆえに、一方が他方に還元されることもないまま、せめぎ合いながらも共立している。

バレンボイムもまた、今は亡き盟友サイードアドルノを引き継ぎながら練り上げようとした、あの「晩年の様式」という極地に至っているのかもしれないと思う。

 

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特任講師観察記断章。「ルールを守る」というメタ・ルール。

特任講師観察記断章。「ルールを守る」というのは、ルールそれ自体には含まれていないメタ・ルールであり、ゲーム参加の大前提だ。ゲームの具体的なルールのために、自らの自由を制約することを自発的に受け入れることを意味する。公的で集団的な営為であるゲームのために、個人的自由を部分的かつ一時的に放棄する。
この自発的断念には、どことなく倫理的な清廉さがある。だからこそ、その高潔さを汚す輩に道徳的な怒りを募らせてしまう。けれども、自分が道徳的高みにいることを意識しているがゆえに、上から目線で、正当な権利として「あなたはルールを守っていない」という叱責を投げつけることは、「ルールを守る」というメタ・ルールをそもそも便宜的にしか受け入れていないプレイヤーに届くのだろうか。
そのようなプレイヤーにしてみれば、ルールは自分の利にかなうかぎりにおいて自ら従い、他人にも従わせるものでしかない。自分の都合が悪くなれば、変えるものであり、変えてよいものであると思っているような、『君主論』のマキャヴェリに私淑するようなプレイヤーは、「あなたはルールを守っていない」と詰問されたところで、公然の秘密を暴露されたぐらいにしか感じないのではないか。それどころか、そのような暴露が、そのようなプレイヤーと、自分の身勝手な論理や利害によってルールを無視したい/している輩とのあいだに、連帯を芽生えさせてしまう危険があるのではないか。
「好きなことをやっているのなら文句を言うな」と口にする者は、「好きなこと」をすることが、それを可能にしたものに従属することと、バーター関係にあることを前提としているのだろうか。好きなことをすることは、悪魔に魂を売り渡すようなものだと考えているのだろうか。そこには代価が発生しており、あれこれのことをすることが、原理的にすでに禁じられていると信じているのだろうか。
「俺は好きでもないことを嫌々やっているのになぜおまえは」というルサンチマンがあるのかもしれないが、それよりはるかに根深い問題は、現在の社会と労働が、「好きでもないこと」が個人の生活の大半を占めるように強いているという点ではないか。「(金を稼ぐために)嫌なことを耐えるのが常態である」というのは、分裂的な生を日常化することであり、混沌とした力に翻弄される奴隷的労働と、私的利害の支配する快楽的なプライヴェートのあいだに壁を設けることであり、ひとつの場のなかに多元的な原理がせめぎ合う余地を認めないことだ。
そのような偏狭さの先に何があるというのか。国家を置くのであれば、なぜその先にさらにを想像してみようとしないのか。人類を、ほかの種を、惑星全体を。効率性思考それ自体はニュートラルだから、トートロジー的でもありえるし、目的論的でもありえるけれど、結局は目的論的に用いられてきたし、その目的自体は決して効率論的なものではなかった。自国を繁栄させる、他民族を絶滅させるというのは、無色透明な効率の話ではなく、色香のいかがわしいイデオロギーの話である。突くのであれば、そこを突かねばならないように思うのだけれど、それが戦略的に妙手かというと、そうでもない気もする。

デフォルメする権利:ブルーノ・マデルナの恣意的な非主観性の音楽

ブルーノ・マデルナの指揮はデフォルメと切り離して考えることができないけれども、なぜデフォルメがあるのかの理由を語ることは難しいし、彼のデフォルメを方法論的に説明することはさらに困難だ。

情念的な粘っこい歌い回し、スローテンポ、引き伸ばし、ゲネラルパウゼなど、いくつかの特徴を数え上げることはできる。しかし、スコアの精読にも、音楽史の読み替えにも起因していないように聞こえるマデルナのデフォルメは、きわめて恣意的で、特異で、反覆不可能であり、ほとんどロマン主義的な産物であるようにも思われる。

 

マデルナもまた、20世紀における指揮する作曲家のひとりに数えられる存在だ。しかし、マデルナがブーレーズと異なるのは、コンテンポラリーをきちんと振れる指揮者がいないから心ならずも作曲者が演奏を引き受けるようになったという経緯でタクトを取るようになったのではないらしいところだ。

神童であったマデルナは7歳にしてオーケストラを振るほどであったという。Wikipediaを見ると、マデルナはかなり複雑な幼少期を過ごしたようだ。

ヴェネチアに生まれ、4歳にして母を亡くしている。マデルナという母方の姓をのちに名乗ることになるが、彼に音楽の手ほどきをしたのは父のほうだった。

裕福な女性の後援を受け、ローマに遊学し、後にはマリピエッロに作曲を、シェルヘンに指揮を学んでもいるし、シェルヘンをとおして12音技法や新ウィーン楽派の音楽に親しんでいく。第二次大戦中はパルチザン闘争に身を投じ、戦後は教育活動にも熱心であった。

そのかたわらで指揮活動の範囲も拡がり、タングルウッドやジュリアードでも教えているし、最晩年はミラノのRAI放送響の終身監督を務めてもいた。

 

しかし、そのわりには、マデルナの指揮はアマチュア的な甘さを残していた。プロと言うには緩い部分が多々ある。音楽構造の見通しはよいが、響きは純粋ではない。純粋な指揮テクニックが不足しているようなニュアンスを感じるときがある。

その点でも、マデルナはブーレーズと対照的だ。たしかにBBC響時代のブーレーズマーラー海賊版ライブ音源にも、アマチュアじみた、音を置きにいっているような不慣れなところはあるけれども、マデルナの演奏の不器用なにごりやよどみは、経験によって洗練されることを待っているようなたぐいのものではないような気がする。

理性的にはとても澄み切っているのに、感性的にはどこか不透明な音楽。

マデルナの演奏はひどく肉感的だ。明晰さにすら体温がある。しかし、粘りはするがベタつきはしない。だからマデルナの指揮はベルクと親和性が高い。プッチーニ的な歌謡性が前面に押し出される一方で、オーケストラのテクスチャーが、もったりとした厚みを失うことなく、クリアに浮かび上がってくる。

 

マデルナの演奏はときにスコアから逸脱する。そしてそのような理由なき逸脱は、現代において、正当化されえないものかもしれないし、だからこそマデルナの演奏は、依然として不思議な魅力を放っている。恣意的ではあるが、マデルナというひとりの人間の気まぐれに還元されるものではない。作曲者マデルナ、古楽編曲者マデルナにつうじる確かなバックボーンがある。にもかかわらず、方法論的なところにまでは定式化されていない。

だからマデルナの指揮する音楽は面白い。いびつなところ、まとまっていないところ、バラけているところが面白い。グダグダになっているところ、音としてはグダグダになりながらも精神のレベルではどこか澄んでいるところが面白い。

 

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特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と「金を出したから口を出す」。

特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と言えるほどの金を持ったこともなければ、そのようなことを言いたくなる相手にもいまだめぐり合っていない身では、あくまで想像するだけなのだけれど、この言葉の根底にあるのは賭けなのだと思う。博打精神。リターンを期待する気持ちがないわけではない。大きなリターンを望んでいるというのは本当だろう。しかし、リターンなどないこと、それどころか、マイナスになりうる危険、めぐりめぐって自分の身に降りかかってくるかもしれない予見不可能なリスクさえあることも、我が身に引き受け、賭け金を投げ出しているのではないだろうか。

「金を出したから口を出す」。ここでは、金を出すことが、口を出すための理由や条件になっている。資本主義の論理であり、株式会社への投資の考え方だ。功利主義的なギブ・アンド・テイクである。それだけではない。金を多く出したほうが口を出す権利もまた大きくなるという物量主義である。「金を出さないなら口を出すな」、「口を出されたくなければ金をもらうな」がこの原理のバリエーションだ。

厄介なのは、どちらの原理にも一理あるところだろう。どちらかが絶対的に正しく、どちらかが絶対的に間違っているわけではない。投げっぱなしの投資家は無責任だろうし、口を出しすぎる出資者は度を越している。原理が相反するから、そのふたつが同じフィールドで稼働すると、いさかいが発生することは避けられない。しかし、効率性の名のもとに相反する原理をひとつに還元してよいのか。

いま現在のネオリベラルな世界は、「金を出したから口も出す」原理の一元支配に近い。この経済的な論理が、「勝つために手段を選ぶ必要はない」という強権主義、「勝ったものがルールを決める」という覇権主義と連動して、わたしたちの脊髄反射的な反応をかたちづくっている。どうやってこの問題に刻まれている深い断絶を切り崩すか。