うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

雑な全体性のむこうにある精神:音楽家としてのダニエル・バレンボイムの音楽

ダニエル・バレンボイムの演奏は微妙に雑だ。彼の音楽は確かに全体性を捉えている。だからとても見通しがよい。旋律が歌っている。抒情性がある。勘所は外さない。しかし、瑕疵がある。

音楽のことを本当によくわかっている音楽家の音楽。バレンボイムによるベートーヴェンのピアノ・ソナタのマスタークラスを見ると、彼の譜読みがどれほど深く、どれほど豊かな音の想像力を持ち、どれほど確かな音楽の構築力を持っているかが、おそろしいほどに感じられる。

しかし、バレンボイムの音楽はどこか詰めが甘い。ありあまる才能に振り回されているようなきらいがある。音のエッジが鈍い。響きが濁っている。どこか洗練されきれていないようなニュアンスを感じる。指揮者としてのバレンボイムの音楽はどこか野暮ったい。

 

バレンボイムの指揮はピアニスト指揮者の良いところも悪いところも完璧に体現している。ピアノは基本的に単音の楽器ではない。同時に複数の音が鳴り響くものだから、ひとつの音の存在感は相対的に低下する。というよりも、音が減衰することを運命づけられているピアノは、オーケストラのダイナミクスと相容れないところがある。複数の音の関係性を両手の指で表現するピアノ奏者は、個々の音を全体との関係において(のみ)捉えるように訓練されているがゆえに、オーケストラの全体性を体現するように最適化されていると言ってもいい。

バレンボイムのピアノ自体にそのような傾向がある。音が薄い。響きが浅い。わずかにミュートがかかっているかのように、すこしくぐもった音がする。鳴りきらないとこがある。響きとしてはこのうえなく正しいし、抒情的な雰囲気はきわめて美しい。しかし、音楽が深く深く沈みこんでいけばいくほど、マテリアルな音の浅さが逆説的なまでに浮き上がってくる。どこか頭脳で弾いているような音がする。身体的な部分が希薄で、肉感的な耽美性に欠ける。音楽としては深いのに、音としては薄い。ピアニストのピアノというよりは、音楽家のピアノなのだ。

バレンボイムの指揮では、譜面上の音が巧みなバランスで正確に配置されているからこそ、個々の楽器の固有の音色の魅力が引き出されきっていないことに気づかされてしまう。音の「あいだ」の関係はこのうえなく適切であるにもかかわらず、音「それ自体」は個々の奏者に委ねられているようなところがある。楽譜の構造がマクロなレベルで全体的に捉えられているからこそ、ミクロなレベルでの音の何気なさが際立つ。ピアニスト指揮者の振る音楽は、いわば、ピアノの代替物としてのオーケストラという趣がある。オーケストラの魅力が浪費されているようなニュアンスがある。

 

しかしバレンボイムほどマルチタレントであり続けている音楽家もいない。ソロピアニストであり、室内楽奏者であり、歌曲の伴奏者でもある。コンサート指揮者であり、オペラ指揮者でもある。教育者としての顔も持つ。20世紀後半を代表する比較文学エドワード・サイードと対談できるほどの学識の持ち主であり、パレスチナイスラエル問題に積極的に発言する一方で、イスラエルワーグナーを演奏するといった音楽家ならではのデモを行ってきた。

そのなかでも特筆すべきは、サイードとともに創設した西東詩集オーケストラだ。ゲーテがアラブ世界の詩に憧れて晩年に詠んだ詩集の名前を冠するこのオーケストラでは、アラブ世界とイスラエルの音楽家たちが肩を並べて演奏する。ともに音楽を作ることによって、政治的な意味での直接的な解決がもたらされることはないだろう。しかしそれは、どのような行為にもまして、相互理解を促すものではあるはずだ。

 

バレンボイムが超人的な天才であることはまちがいない。キャリアの半ばで指揮者の道に入るピアニストは、ピアニストとしては一線を退いていくものだが、バレンボイムはそうではない。殺人的なスケジュールをこなし、商業録音をコンスタントに世に送り続けている。

しかし、その一方で、バレンボイムディスコグラフィから特別な一枚を選び出そうとすると、意外なほどイメージがわかない。どの録音も面白いけれど、いわゆる決定盤のようなものではない。

バレンボイムフルトヴェングラーに私淑してきたことはよく知られているけれど、バレンボイムもまた、音楽の一回性に賭ける音楽家なのかもしれない。彼の録音がどこか通過点であって、最終的な到達点のようには思われないのは、彼の音楽がつねに動くものであり、時間と空間のなかに消えていくものだからだろうか。

そんなバレンボイムも、80近くなり、「晩年の様式」(アドルノ/サイード)のような境地に至りつつあるらしい。散漫さと地続きだった奔放さが、その強度を失うことなく、乾いた瑞々しさに変化している。剥き出しに近いほどに構造があかるみに出される。リズムが厳しく叩き込まれ、輪郭が深く抉られるけれども、音楽の主導権はオーケストラに委ねられているようなニュアンスもある。両立しがたいものがいまのバレンボイムの音楽では共立している。

 

バレンボイムの音楽は、細部を聞くのではなく、全体を捉えるようにわたしたちを促す。それはもしかすると、音を聞くのではなく、音楽という現象を、現象の向こうにある精神のようなものを感知させることを目指すものなのかもしれない。

 

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バレンボイムの晩年の様式

バレンボイムも80歳近くなり、さすがに体が利かなくなってきた部分があるのか、足を揃えてすっと指揮台に立ったまま、ほとんどそこから動かない。上下運動が基調となるタクトの振れ幅は大きくない。もしかするとあまり肩が上がらないのかもしれない。しかし、ときおり見せる、捩じり込むような、突き刺すような指揮棒が、音楽を深く深く抉る。さりげないキューが、対位法の入りを的確に示し、旋律を浮かび上がらせる。

中音域の音色が分厚い。低弦の重量感は運動性を失うことがなく、全体を支えながら、自らも動いていく。オールディーな解釈ではあるけれど、古楽器的な部分がないわけではない。フレーズを細かく深く閉じるのではなく、ふわりと次につなげていく。パウゼが軽い。

バレンボイムの音楽はどこか雑で、落ち着かなさがあるというのが個人的な印象だった。やりたいことがありすぎて、そしてありすぎるやりたいことをできてしまう才能があるがゆえに、いまひとつ焦点の定まらない音楽になっているという印象があった。

しかし、このエロイカの演奏には、不思議なまでの無頓着さがある。すべてをコントロールすることを目指していない。完全なコントロールを放棄しているというのでもないし、オケに委ねているというのでもなく、それを超越したところで、何か別の統合を志向している。

各パートの音離れがよく、対位法的なところが強調される。ベルリン州立歌劇場のオーケストラの音の渋さと相まって、枯れたニュアンスがある。音は充実しているし、潤いもあるけれど、ここに鳴り響く音には、外に拡がっていく豊饒さではなく、凝縮した高密度のしなやかさがある。それがあまりに烈しいので、ときに、ひとつのオーケストラの音というより、別々の生命を宿した運動体が拮抗しているような手ざわりさえある。

にもかかわらず、全体の音楽はバラバラにならない。対立し、対決しているのに、すべてがなぜかとても穏やかに澄んだ感じもする。同じ次元では相反するしかないものが、別の次元で独自に運動するように導かれているがゆえに、一方が他方に還元されることもないまま、せめぎ合いながらも共立している。

バレンボイムもまた、今は亡き盟友サイードアドルノを引き継ぎながら練り上げようとした、あの「晩年の様式」という極地に至っているのかもしれないと思う。

 

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特任講師観察記断章。「ルールを守る」というメタ・ルール。

特任講師観察記断章。「ルールを守る」というのは、ルールそれ自体には含まれていないメタ・ルールであり、ゲーム参加の大前提だ。ゲームの具体的なルールのために、自らの自由を制約することを自発的に受け入れることを意味する。公的で集団的な営為であるゲームのために、個人的自由を部分的かつ一時的に放棄する。
この自発的断念には、どことなく倫理的な清廉さがある。だからこそ、その高潔さを汚す輩に道徳的な怒りを募らせてしまう。けれども、自分が道徳的高みにいることを意識しているがゆえに、上から目線で、正当な権利として「あなたはルールを守っていない」という叱責を投げつけることは、「ルールを守る」というメタ・ルールをそもそも便宜的にしか受け入れていないプレイヤーに届くのだろうか。
そのようなプレイヤーにしてみれば、ルールは自分の利にかなうかぎりにおいて自ら従い、他人にも従わせるものでしかない。自分の都合が悪くなれば、変えるものであり、変えてよいものであると思っているような、『君主論』のマキャヴェリに私淑するようなプレイヤーは、「あなたはルールを守っていない」と詰問されたところで、公然の秘密を暴露されたぐらいにしか感じないのではないか。それどころか、そのような暴露が、そのようなプレイヤーと、自分の身勝手な論理や利害によってルールを無視したい/している輩とのあいだに、連帯を芽生えさせてしまう危険があるのではないか。
「好きなことをやっているのなら文句を言うな」と口にする者は、「好きなこと」をすることが、それを可能にしたものに従属することと、バーター関係にあることを前提としているのだろうか。好きなことをすることは、悪魔に魂を売り渡すようなものだと考えているのだろうか。そこには代価が発生しており、あれこれのことをすることが、原理的にすでに禁じられていると信じているのだろうか。
「俺は好きでもないことを嫌々やっているのになぜおまえは」というルサンチマンがあるのかもしれないが、それよりはるかに根深い問題は、現在の社会と労働が、「好きでもないこと」が個人の生活の大半を占めるように強いているという点ではないか。「(金を稼ぐために)嫌なことを耐えるのが常態である」というのは、分裂的な生を日常化することであり、混沌とした力に翻弄される奴隷的労働と、私的利害の支配する快楽的なプライヴェートのあいだに壁を設けることであり、ひとつの場のなかに多元的な原理がせめぎ合う余地を認めないことだ。
そのような偏狭さの先に何があるというのか。国家を置くのであれば、なぜその先にさらにを想像してみようとしないのか。人類を、ほかの種を、惑星全体を。効率性思考それ自体はニュートラルだから、トートロジー的でもありえるし、目的論的でもありえるけれど、結局は目的論的に用いられてきたし、その目的自体は決して効率論的なものではなかった。自国を繁栄させる、他民族を絶滅させるというのは、無色透明な効率の話ではなく、色香のいかがわしいイデオロギーの話である。突くのであれば、そこを突かねばならないように思うのだけれど、それが戦略的に妙手かというと、そうでもない気もする。

デフォルメする権利:ブルーノ・マデルナの恣意的な非主観性の音楽

ブルーノ・マデルナの指揮はデフォルメと切り離して考えることができないけれども、なぜデフォルメがあるのかの理由を語ることは難しいし、彼のデフォルメを方法論的に説明することはさらに困難だ。

情念的な粘っこい歌い回し、スローテンポ、引き伸ばし、ゲネラルパウゼなど、いくつかの特徴を数え上げることはできる。しかし、スコアの精読にも、音楽史の読み替えにも起因していないように聞こえるマデルナのデフォルメは、きわめて恣意的で、特異で、反覆不可能であり、ほとんどロマン主義的な産物であるようにも思われる。

 

マデルナもまた、20世紀における指揮する作曲家のひとりに数えられる存在だ。しかし、マデルナがブーレーズと異なるのは、コンテンポラリーをきちんと振れる指揮者がいないから心ならずも作曲者が演奏を引き受けるようになったという経緯でタクトを取るようになったのではないらしいところだ。

神童であったマデルナは7歳にしてオーケストラを振るほどであったという。Wikipediaを見ると、マデルナはかなり複雑な幼少期を過ごしたようだ。

ヴェネチアに生まれ、4歳にして母を亡くしている。マデルナという母方の姓をのちに名乗ることになるが、彼に音楽の手ほどきをしたのは父のほうだった。

裕福な女性の後援を受け、ローマに遊学し、後にはマリピエッロに作曲を、シェルヘンに指揮を学んでもいるし、シェルヘンをとおして12音技法や新ウィーン楽派の音楽に親しんでいく。第二次大戦中はパルチザン闘争に身を投じ、戦後は教育活動にも熱心であった。

そのかたわらで指揮活動の範囲も拡がり、タングルウッドやジュリアードでも教えているし、最晩年はミラノのRAI放送響の終身監督を務めてもいた。

 

しかし、そのわりには、マデルナの指揮はアマチュア的な甘さを残していた。プロと言うには緩い部分が多々ある。音楽構造の見通しはよいが、響きは純粋ではない。純粋な指揮テクニックが不足しているようなニュアンスを感じるときがある。

その点でも、マデルナはブーレーズと対照的だ。たしかにBBC響時代のブーレーズマーラー海賊版ライブ音源にも、アマチュアじみた、音を置きにいっているような不慣れなところはあるけれども、マデルナの演奏の不器用なにごりやよどみは、経験によって洗練されることを待っているようなたぐいのものではないような気がする。

理性的にはとても澄み切っているのに、感性的にはどこか不透明な音楽。

マデルナの演奏はひどく肉感的だ。明晰さにすら体温がある。しかし、粘りはするがベタつきはしない。だからマデルナの指揮はベルクと親和性が高い。プッチーニ的な歌謡性が前面に押し出される一方で、オーケストラのテクスチャーが、もったりとした厚みを失うことなく、クリアに浮かび上がってくる。

 

マデルナの演奏はときにスコアから逸脱する。そしてそのような理由なき逸脱は、現代において、正当化されえないものかもしれないし、だからこそマデルナの演奏は、依然として不思議な魅力を放っている。恣意的ではあるが、マデルナというひとりの人間の気まぐれに還元されるものではない。作曲者マデルナ、古楽編曲者マデルナにつうじる確かなバックボーンがある。にもかかわらず、方法論的なところにまでは定式化されていない。

だからマデルナの指揮する音楽は面白い。いびつなところ、まとまっていないところ、バラけているところが面白い。グダグダになっているところ、音としてはグダグダになりながらも精神のレベルではどこか澄んでいるところが面白い。

 

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特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と「金を出したから口を出す」。

特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と言えるほどの金を持ったこともなければ、そのようなことを言いたくなる相手にもいまだめぐり合っていない身では、あくまで想像するだけなのだけれど、この言葉の根底にあるのは賭けなのだと思う。博打精神。リターンを期待する気持ちがないわけではない。大きなリターンを望んでいるというのは本当だろう。しかし、リターンなどないこと、それどころか、マイナスになりうる危険、めぐりめぐって自分の身に降りかかってくるかもしれない予見不可能なリスクさえあることも、我が身に引き受け、賭け金を投げ出しているのではないだろうか。

「金を出したから口を出す」。ここでは、金を出すことが、口を出すための理由や条件になっている。資本主義の論理であり、株式会社への投資の考え方だ。功利主義的なギブ・アンド・テイクである。それだけではない。金を多く出したほうが口を出す権利もまた大きくなるという物量主義である。「金を出さないなら口を出すな」、「口を出されたくなければ金をもらうな」がこの原理のバリエーションだ。

厄介なのは、どちらの原理にも一理あるところだろう。どちらかが絶対的に正しく、どちらかが絶対的に間違っているわけではない。投げっぱなしの投資家は無責任だろうし、口を出しすぎる出資者は度を越している。原理が相反するから、そのふたつが同じフィールドで稼働すると、いさかいが発生することは避けられない。しかし、効率性の名のもとに相反する原理をひとつに還元してよいのか。

いま現在のネオリベラルな世界は、「金を出したから口も出す」原理の一元支配に近い。この経済的な論理が、「勝つために手段を選ぶ必要はない」という強権主義、「勝ったものがルールを決める」という覇権主義と連動して、わたしたちの脊髄反射的な反応をかたちづくっている。どうやってこの問題に刻まれている深い断絶を切り崩すか。

コロナ以後の演劇を再興する:『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮)

20201004@やどりぎ座、『蜘蛛の糸』(作:芥川龍之介、演出:吉見亮)

コロナ禍が強いるものがどこまでこの舞台を縛っているのか、そして、強制されたものでしかなかったものがどこまで舞台のために役立てられているのか。吉見亮演出の『蜘蛛の糸』を見ながらそんなことを考えていた。

芥川龍之介の同名の短編小説の舞台化である『蜘蛛の糸』は、いわゆる演劇ではない。ここに対話らしい対話はないし、そもそも音声がほぼ先録りなのだ。導入の焦らし芸的な雑談と、劇中のひとつのセリフを除けば、音声面におけるライブ的な要素はゼロに近い。ライブの音楽はある。しかし、舞台中央にたたずむ布施安寿香のまとう、トーガのようでもあれば袈裟のようでもある衣装、彼女を舞台の両脇から宙づりにするかのような布のうえに投影される映像にしても、ライブの音楽にしても、布施の所作にしても、すでに確定しているナレーションの流れとシンクロすることを目指しているように見える。カラオケ的、音ゲー的な窮屈さやわざとらしさ。シンクロさせることが、どこまで打合せどおりにいけるかという減点法に引きずられているようにも見える。舞台の時間の流れが、舞台が始まる前からすでに決められてしまっているかのように。

これが密を避ける、舞台から客席に飛沫を飛ばさないという感染拡大予防対策から来ていることはまちがいないだろう。少なくとも、録音したナレーションを流す演出上の必然性はなかっただろうし、音楽をライブにする必然性も薄かったように思う。

その結果、舞台は、演劇というよりも、インスタレーションに接近する。3次元化された絵本、動画化された活人画、映像付きのオーディオブックと言ってみてもいいかもしれない。ノーカットで朗読される芥川のテクストが暗がりのなかで響きわたるなか、布施の衣装と肉体がスクリーンとなり、そこにアンビアンスな映像が投影される。極楽浄土における水の流れのような青、地獄の血の池の流れのような赤を浴びながら、身体のうえを流れていく映像のくすぐったさを堪えるかのように、布施の指先と顔だけが、映像のすきまから、妖艶さと清浄さの両方を神秘的にただよわせながらわずかに浮かび上がる。芥川の物語が、色やベクトルに変換され、ウネリのようなものに転化する。

布施の身体運動は、物語内容を補完するものではあるし、テクストの意味の表象ではある。しかし、それと同時に、物語にインスパイアされた別の何かであり、テクストを起源としながら、そこに従属しない。テクストがほのめかしながら、語りつくすことのない釈迦や犍陀多の心の機微の身体化であるかのような、ほとんど動かない動きが、テクストの隣に並び立ち、言葉を解体し、舞台の磁場の中心となる。よく聞こえてくる録音でも、よく見える映像でもなく、映像と録音というレースのカーテンのむこうから透けてくる身体のミクロなゆらぎのプレゼンスに、観客の注意が惹きつけられる。

舞台の前半が芥川のテクストを使ったインスタレーションであり、動かない動きを見つめるものであるとすれば、後半はStand by me(忌野清志郎バージョン?)をバックにしたコンテンポラリーダンスであり、動くことができない動きを感じることを求められる。音楽に合わせて布施が踊りだすと、ナレーションが最初から繰り返される。音楽と朗読が重なり合うなか、きたなくきれいな苦悶の表情をしぼりだすようにして、舞台に水平にわたされた布から抗うように身をよじらせ、身体を前後左右に投げ出す。不可能な努力が繰り広げられる。

芥川のテクストは、釈迦についても犍陀多についても、読者の道徳的反応を宙づりにするように書かれている。どちらにも理があり、どちらにも非がある。道徳的相対主義めいたところがある。だから「蜘蛛の糸」は、ひとりだけ助かろうとした犍陀多の身勝手さでもなく、そのような犍陀多の行為にたいして釈迦の感じた浅ましさでもなく、極楽の蓮池の「金色の蕊」からあふれる「何とも云えない好い匂」や「午に近くなった」時間という自然的なものにフレームが後退してしまうのだが、吉見の演出は、それとは逆に、人間的なところに深く入り込んでいく。

犍陀多は釈迦ではないが、釈迦は犍陀多でもあるのかもしれない。しなやかに伸び縮みする布は、鎖のような固い束縛ではない。しかし、蜘蛛の糸のように断ち切れることもない。犍陀多とは別の意味で釈迦もまた囚われの身であり、まさにそれゆえに、釈迦と犍陀多、極楽と地獄のあいだの圧倒的な垂直的上下関係が、水平的に折りたたまれ、重なり合う。たしかにそれは、釈迦が犍陀多に感じる一方的な連帯なのかもしれない。しかし、その苦悩が全身から発散される姿は、犍陀多を気まぐれに試した釈尊の心にあったのは、吉見が舞台の一部でもあればその前座でもあるMCのなかで述べたように、傲慢さではなく、迷いであったのかもしれない。誰が救われるのか、なぜ救われるのか、誰が救うのか。

それはコロナ禍においてきわめてアクチュアルな問いである。舞台がその問いに何らかの答えを与えていたとは思わない。しかしここには、それに応答しようとする努力が刻みこまれていたし、その努力はメタ的なところにまで及んでもいた。布施がプログラムノートで書いているように、「越境」は境界を意識することによって初めて可能になるものだ(すくなくとも自意識のレベルにおいてはそうだろう)。ここでは、舞台の上で言葉を喋ることがはばかられるという外在的な足枷が、自意識的に捉え返されることによって、自然主義を旨とする近代演劇というジャンルの根本的な問い直しへと繋がっていたといっていい。『蜘蛛の糸』がインスタレーションのようであり、コンテンポラリーダンスのようであったと言うことは、けっしてネガティヴな意味での批判ではない。

しかし、その一方で、布施と吉見が属するSPACの影も見え隠れしていた。戯作的なMCとシリアスな本編、前半の静=聖と後半の動=俗のコンビネーションは、宮城聰の演出の折衷――『マハーバーラタ』のような神話劇と、アングラ演劇の接ぎ木――を思わせるし、リズミックでパーカッシブな音楽から棚川寛子の音楽を想起しないほうが難しい(A-Frameという新発明の楽器は、複数人を必要とする棚川の音楽をひとりで奏するという離れ技を可能にしていたが、だからこそ、いっそう棚川の音楽を想起させる部分があった)。映像にしても、アンビアンスな幾何学模様はきわめてクリシェ的であるし、いい意味でチープなサイケデリックなSF的アニメーション――ピンボールのように壁で跳ね返る線としての蜘蛛の糸――は、前半の妖艶な神秘性とも、後半の肉感的な生々しさとも、微妙にかみ合っていない。蜘蛛の糸に群がる者たちを具象的な手で表現するのは、完全にズレているように思う。

しかし、この舞台でもっとも心をざわめかせた瞬間は、前半と後半のあいだに置かれた幕間だった。芥川のテクストが最後まで読み上げられ、客席がすこし明るくなり、舞台が終わったのかと思ったそのとき、布施が観客席をじっと見つめだす。それはひどく居心地の悪い反転だ。見つめられることなく見つめることができる特権的なところにいたはずの観客が、突如として、そのような安全地帯から運び去られる。観客もまた舞台の登場人物であり、脆弱な当事者であることが告げられる。だから、わたしたちは、犍陀多でもあれば釈迦でもある布施の苦悶する身体を、他人事として受け取ることができなくなる。

この強制的な巻き込みは、ジャンルの越境によって可能になったものだが、この否応なき連帯は、コロナウィルスがもたらしたものでもあるだろう。『蜘蛛の糸』は、コロナ禍がなければ生まれえなかった舞台かもしれない。しかし、それはあくまで、俳優、演出、振付(遠野綾香)、映像(竹澤朗)たちがコロナ禍を、否定的な制限、遵守するしかない規則としてだけではなく、肯定的な限界として、創造的なレベルでは克服可能な変異のための契機として捉えたからである。コロナ以前の世界において、リアルでライブなパフォーマンスをすることが弁明を必要としない自明なことであったとしたら、コロナ以後の世界におけるパフォーマンスは、おそらく、そのような自明性を問い直し、再定義し、越境するところから始めなければならないのかもしれない。『蜘蛛の糸』はそのような可能性の種子をたしかに芽吹かせていた。

特任講師観察記断章。ひさしぶりの対面授業。

特任講師観察記断章。今日今学期最初の対面授業の教室に向かいながらふと最後に教壇に立ったのはいつだったかと思いそれが2月のこと、8ヵ月も前であることに気がついて愕然としたけれども、30人近い学生を前にしてややぞんざいな感じで英語でしゃべりだすと、思ったほどのブランクは感じないし、言葉はスルスル出てくる。「わたしはあなたたちのことをうまくrecognizeできないけれど、あなたたちはわたしのことを、すくなくともわたしの声はrecognizeできるのではないですか」という話を英語でして――というのも、先学期ずっと顔見せなしの音声だけの講義動画を作っていたから、今日の授業の学生はまちがいなくこちらの声を何度も聞いているはずだった――その話を日本語でも繰り返しながら、「わたしとあなたたちのあいだには非対称な関係がある」と口にしたとき、なぜか言葉が急に上滑りした感じがあった。「非対称な関係」という言葉が浮いてしまった。理由はよくわからない。自分の語彙にある言葉であるし、いかにも自分が言いそうな言い回しであるし、実際に口にするフレーズでもある。だというのに、今日はなぜか、非現実的な響きになってしまったし、学生もそれを感じたと思う。一瞬、教室の空気が薄くなり、不意に体の力が抜けてしまい、言葉が学生に届かず、虚空に拡散してしまった。とはいえ、多分に即興的な感じで進めた今日の授業は、見事なまでにぴったり90分でおわった。この勘はまだ鈍っていないらしい。それにしても、マスクでおおわれて目でわずかに表情をあらわすばかりの顔の群れに見つめられ、それを見つめ返すというのは、漠然と想像していたよりはるかにシュールな体験だった。