うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

指揮者の学び、指揮者の教え:ジョン・マウチェリ『指揮者は何を考えているか』(白水社、2019)

教育者でもある指揮者が書いた指揮の神秘と現実についての書

奇妙というか、不思議な本だ。ここでは率直さと神秘さが共存している。学究的姿勢とノスタルジーが共鳴している。

ジョン・マウチェリはレナード・バーンスタイン門下といっても差し支えないであろう系譜にいる人物で、世代的にはマイケル・ティルソン・トーマスあたりと同じになるが、その音楽観にはもしかするとバーンスタイン以上に19世紀的なところがあるのかもしれない。バーンスタインが影響を受けた2人の指揮者クーセヴィツキ―とライナーについて言及しながら、それぞれの系譜をさかのぼってその源泉にワーグナーを位置づけるとき――ワーグナーからニキシュからクーセヴィツキ―という系譜と、ワーグナーからR・シュトラウスからライナという系譜ー――、マウチェリはおそらく、彼自身もまた、19世紀に連なる音楽家たちの空気のなかに生きていることを、ほのめかしているのだろう。英語の原題 Maestros and Their Music[巨匠たちとその音楽]は、そのことを端的に示している。

しかしながら、マウチェリが19世紀的な巨匠に思いをはせるのは、彼らの暴君的な振る舞いをなつかしむためではない。なるほど、マウチェリは指揮者が暴君的に振る舞った理由を理解しようと努めるが、それを現代において再演する意義を力説しようとはしないし、それを彼自ら実行しようという気はさらさらない。

彼が過去の巨匠から何かを引き継ごうとしているとしたら、それは彼らの音楽観である。ほとんど宗教的と言いたくなるような融合体験としてのコンサートである。演奏家としてであれ、聴衆としてであれ、ひとつのイベントにともに参加するという、奇跡のような出来事である。マウチェリにとって、音楽は世俗的なものを超えるものである。

マウチェリが指揮者として優れているのかどうかは、彼の演奏を聞いたことがない以上なんとも言いようがないけれど、本書の執筆者であるマウチェリが音楽家として深い知見を持っていること、音楽をなにか全人的な、すべてを包括する宇宙的な出来事として捉えているのだろうということは、まちがいないと思う。だからこそ、本書は、たんなるゴシップ本でも、たんなる技術論でもなく、どうやって指揮者になるのかというキャリア指南書でもなく、指揮者という生についての深い省察になっているのだ。

しかし、そのように音楽の神秘を語る一方で、マウチェリの語りはびっくりするぐらい率直に、現代の音楽業界における実務的な側面について語るし、旅芸人としての指揮者の生のみすぼらしさを赤裸々に描き出す。

音楽を心象風景と結びつけながら語る一方で、楽理的な側面や実証的な側面から、事細かに語る。たとえばマーラー交響曲4番の冒頭のフルートと鈴の音のリタルダンドがオーケストラ全体に当てはまるのかどうか、であるとか、ガーシュインの『ポギーとベス』のオリジナルバージョンにおける幕同士やアリア同士の長さのつり合い、であるとか。

実際の上演において出演者の誰もが遭遇せざるをえない難所についての具体的な説明があるのは、とても貴重である。たとえば『トゥーランドット』の2幕のトゥーランドットの初登場のシーンの難しさを、マウチェリは音楽的、演劇的、演出的側面から、丁寧すぎるほどに描き出していく。音がどのように聞こえ、歌手がどのように見え、どのような采配を指揮者は求められているのかを、わかりやすく、しかし音楽的に意味深いかたちで書いている本は、今までなかったのではないか。

精神論と技術論をひとつの分かちがたい事柄として語るマウチェリの本は、なるほど、数多くある指揮についての本のどれとも似ていない。指揮者本人が情報元となる興味深い楽屋裏的エピソードがあるが、ゴシップ本ではない。マウチェリの自伝のように読める箇所も多いが、マウチェリが語るのは、「彼の」指揮法でもマウチェリという指揮者個人でもなく、指揮者という職業一般のことであり、指揮者という職業の歴史であり、指揮者という職業を必要とするようになった音楽の歴史である。

こうした書き方は、おそらくマウチェリが教師として長年勤めてきたということと関係しているではないだろうか。つまり、マウチェリは本書を、たんなる自伝的回想としてではなく、教育のための素材として提示しているように思うのだ。ここでは、指揮者になるために学ぶべきことと指揮者として教えるべきこととが、学び手であると同時に教え手でもある指揮者という二重の生が、模倣すべきモデルとしてではなく、ひとつのあるべき可能性として、わたしたちに提示されている。

 

イメージとテンポの問題

音は音としてあるが、そこにどのようなイマージュや精神性を読み込むかで、そのようなヴィジョンをもってオーケストラと対峙するかで、最終的に出てくる音は変わる、とマウチェリは固く信じている。

音を心象風景と捉えるという印象主義的な立場は、ピエール・ブーレーズ的な構造化された音響としての音楽という立場とは一線を画する。もちろんマウチェリは印象主義一辺倒ではなく、楽理的に音を捉えた後で、そこに何らかのイメージを読みこもうとしているのだけれど、こうした音楽の語り方は、科学的というよりは文学的で、もしかするとプルースト的と言ったほうがいいスタンスかも知れない。

マウチェリは基本的に解釈の多様性を支持するのだけれど、それは、指揮者の恣意性を許容するためではなく、楽譜というメディアの不完全性のためである。だからこそ、マウチェリは演奏という現場で音を変更することを厭わなかったマーラーストコフスキーを支持するのだ。マウチェリは原典にこだわるけれど、原典信者ではない。音楽とは、作曲家の頭のなかで完成しているのではなく、音としてオーケストラによって実際に鳴り響いたものだからである。学究肌でありながら現場主義を柔軟に取り入れる、それは、彼がなによりもまず、音楽家だからだ。

 マウチェリの音楽づくりの根本にあるのは、旋律でも、リズムでも、響きでもなく、テンポではないだろうか。それはほとんど直感的なものなのだと思う。ブーレーズのすごさは、澄んだ響きというよりも、個性的なテンポの動かし方にあるという見方は、かなりユニークだ。

しかし同時に、テンポにたいする議論は、きわめて学究的で、分析的で、知的なものである。彼はヴェルディによく言及するけれど、それは、長命の19世紀作曲家が、プリマの時代から指揮者の時代まで、さまざまなスタイルの変遷のなかで仕事をしたからであり、メトロノームと慣習的な速度表記とを合わせ技で使ったからである。それは、客観的に測定可能で、そうであるがゆえに、感性的で主観的な言葉を楽譜に書き込んだヴァーグナーとは大きく異なる態度であったけれど、ロッシーニ・クレッシェンドのように、指揮者を必要としない一定スピードのなかでの反復的盛り上がりとも違うものであった。ヴェルディの音楽は、基調となる速度をメトロノームで設定する一方で、その内部での加速や減速によって、 音楽を作っていったわけだけれど、そうした速度変化こそ、指揮者という存在が必要とされた理由でもあった。

マウチェリ自身は、ストコフスキーマーラーのように、音の改変を認めるべきだという立場であるのだけれど、それは原典重視の現代においては、なかなか理解されないものだ。しかし、音の改変は是認しがたいとするのであれば、なぜテンポについてはそうでないのか、とマウチェリは問う。音を変えてはいけないというのに、なぜテンポの改変は指揮者の自由であるかのように語られるのか。これは深く鋭く問いかけだ。

ひとつの曲の中で、音符やリズムを変えたりしたら通常大変な非難を受けるのに、不思議なことに、指定されたテンポを無視してもまったくかまわないらしい。実際、メトロノーム記号の数字に言及するのは、たとえそれが曲の構成にかかわる根本的な問題であっても、非音楽的だとみなされてしまう。(192頁) 

本書における隠れたテーマのひとつは、テンポを、指揮者に許されている自由の領域というよりも、作曲者が確定しようとした必然の領域として、捉え直そうという試みであるように思う。

 

シリアスだとはみなされていないシリアスな指揮者

自伝、音楽史、興行史、録音、マネージメント、アナリーゼ、舞台演出、楽譜校訂、批評や聴衆とのつきあいかた、などなど、指揮者の生のほとんどすべての側面をカバーしようという百科全書的な方向性のせいで、本書がやや散漫な印象を与えることも否定できない。

本書には微妙な歪みもある。音楽を無視した現代的演出にたいする苦言は、マウチェリをマレク・ヤノフスキ―のような指揮者と結びつけるかもしれない。彼らの攻撃のターゲットは、音楽的要素と演劇的要素を有機的に融合させようとしない現代的傾向である。事実、彼は戦後の新バイロイト様式を否定しないし、あの抽象的な舞台は、ブーレーズの脱映画的で脱映像的な指揮をこそ、求めていたとすらほのめかすのだけれど、それは彼が目指す路線ではない。

そこまで明言していないが、マウチェリが20世紀のヨーロッパの前衛にあまりいい印象を持っていないのはまちがいないと思う。実際、彼は20世紀の同時代音楽について積極的に語るけれど、そこでブーレーズのようなヨーロッパの前衛が取り上げられることはない。それは当然ながら、ブーレーズのような音響をそれ自体として磨き上げようという立場は、音響に心象風景を重ね合わせようとする印象主義的な態度と両立しがたいからだろう。

オールディーでノスタルジックなところを見せておきながら、同時に、映画音楽や映像とのコラボレーションの芸術的価値をどうにか認めさせようとするマウチェリの姿勢には勇敢さがただよっている。

けれど、そこにはどこか苦い余韻もある。いわゆる大指揮者になれなかったマウチェリの恨み節というわけではないのだけれど、ポップス的な音楽であるとか、映画音楽やそれに隣接する音楽を一度でも振った指揮者は、業界において、シリアスな音楽家とはみなされなくとほのめかすとき、マウチェリは彼自身のキャリアの光と影の両方を、さりげなく、わたしたちのまえに並べて見せる。

映像をスクリーンに映し出しながらそこに音楽を後追い的に伴奏させようという試みの音楽的意義を語るとき、マウチェリは決してルサンチマンを語っているわけではないし、ハリウッド・ボウルでラフマニノフのピアノロール録音に生オーケストラをかぶせて時空を超えた協奏曲での協演を果たしたと語るとき、マウチェリは現代におけるオーケストラ演奏が技術と協力することで成し遂げられる新しい可能性が生き生きと楽し気に描き出されているのではあるのだけれど、同時に、自らの芸術的行為が理解されないことにたいする哀しさもただよっている。それを読むと、どこか寂しい気持ちにさせられる。

映画や亡くなったアーティストの演奏に音楽を付け、十九世紀の第一世代の指揮者たちを直接知る指揮者たちの演奏を「ゴースト」しながら、私は多くを学んできた。そのためのトレーニングは過酷で、評価もされなかったが、指揮者なら誰でも、過去のアーティストたちから学んだことを普段の演奏に生かせる可能性がある。こうした仕事は芸術的な名誉に欠けるものではまったくなく、謙虚な姿勢と相手を受け入れる気持ちで行なう、大変に難しい仕事である。なぜならば、仕切っているのは彼ら死者なのだから。(247頁) 

特任講師観察記断章。「正しさ」ではなく「美しさ」を。

特任講師観察記断章。最近とくに思うのは、英語の音読をやらせるのなら、「正しさ」ではなく「美しさ」を語ったほうがいい、ということだ。正しさで語ってしまうと、ひとつの絶対的な尺度が前提され、唯一無二の「お手本」を真似ることが自己目的化してしまい、その結果、検閲的で減点法的な態度が強化されてしまうが、美しさで語れば、そこでは、規範的なものとの創造的な距離感――ルールに厳密に従いつつ、オリジナリティのために、どこでどうやってそこから逸脱していくか――がクローズアップされ、守ることと外れることの二重の意識によって自由の余地が自然と開かれていき、その結果、シンギュラリティを称揚する加点法的な態度を押し出すことが可能になる。美的実践としての英語パフォーマンスという捉え方は、教える方にとっても、学ぶ方にとっても、生産的で解放的なやり方であるように思う。

分析の学、実践の学:大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書、2019)

ヘーゲルの『精神現象学』に、「誤ることへの恐怖こそが誤りそのものに他ならない」という言葉があります。これは学問について述べたことですが、同じことは、社会変革についての実践にも言えます。失敗への恐怖こそが純粋な失敗である、と。(630頁)

 

すでにある分析の学ときたるべき実践の学

社会秩序はいかにして可能かを問う、それが社会学である、というテーゼを、ライトモチーフのように、新書としては破格に分厚い600頁超の『社会学史』のなかで大澤真幸は繰り返し奏でている。

だとすれば、社会学とは、いますでに存在している社会(のなかの事象や出来事)の存在理由についての説明を提供する学ということになるし、そうなれば、そこからまたべつの問題系が立ち上がってくるだろう。

もし社会学が「すでにある」ものの必ずしも明らかになっていない根拠を明らかにするものであるとしたら、社会学はすでにその身のうちに、「いまだない」ものを到来させるための省察を含んでいることになるはずだ。たとえそこまではいかないとしても、社会学は、好むと好まざるとにかかわらず、「すでにある」ものを批判するための起点/基点である以上、社会「学」が価値中立的であり続けようとすることと、社会「学者」がそうあり続けようとすることは、質的に異なる行為であるように思うのだ。というのも、後者は、自ら知=力を放棄することに等しいからである。それは言ってみれば、悪を正せる力を持ちながら、非介入を選び、何もしないことを学問の名のもとに正当化し、悪を間接的に黙認し、悪と共犯関係を切り結ぶことを消極的ながら受け入れることだからである。

「いまだない」もの――「すでにある」ものとはべつの、それ以上に好ましい何か――を言葉のうえで語るだけの分析の学としてだけではなく、それらをこの世のなかで現実のものとするための実践の学として、社会学者は社会学の知=力を行使すべきなのか。そのような目的性から、そしてそのような目的性にむかって、社会学という学を編み直すべきなのか。

社会学は実践とどのような関係を切り結ぶべきなのか、それが、本書に通底するもうひとつのライトモチーフであるように思う。

 

二重の自意識

社会学は不確定性を含むものである、と大澤は初めのほうで述べている。社会にとって曖昧で不透明なものが社会学の対象となるということでもあるし、さらに大胆に言い換えるなら、すでに起こってしまっている事象にたいする当惑、すでになぜか起こってしまっている望ましからぬものにたいする危機感を、知に翻訳することが、社会学の社会的役割であるからかもしれない。

しかし、社会学は社会に要請されて出現したものではなかった。19世紀において社会学を打ち立てたオーギュスト・コントにしても、20世紀前後のマックス・ウェーバーにしても、大学という知的制度に収まりきらないものであった。社会学の起源は、社会にそう頼まれたからという受動的なものではなく、社会学が自らに与える自意識的=反省的なものである、というのが大澤の基本的スタンスである。社会学の存在理由は自己起因なのだ。

社会学という学問が自意識的なものであるとしたら、それは、社会学が、近代社会という自らを自意識的に捉える自己参照的なものを対象としているからである。社会学は近代の産物であると大澤は言うが、それはつまるところ、社会の自意識についての学である社会学は、社会が自意識を獲得するまでは、固有の研究対象を持ちえないからだ。

ここで大澤の立論は二重であるし、社会学と社会のあいだに単純な因果関係ではない相互作用が前提とされている。社会学は自意識的に社会の自意識を研究するのだけれど、それは、社会の自意識によって社会学が誕生したということを意味しないし、社会学の誕生によって社会が潜在的に持っていた自意識が明示的なものになるということでもない。大澤の仮説は、社会に自意識を持たせる力と、自意識的な社会学を出現させる力とが、同じ力ではないか、というものである。

大澤が本書をマックス・ウェーバーの個人的な鬱病の話から書き起こしているのは、きわめて示唆的である。大澤にとって、ウェーバー鬱病は、個人的エピソード以上の寓意性を帯びているのであり、近代社会のダウナーな方向性とウェーバー個人の鬱病は、そしてそうしたウェーバー鬱病の時期に提出した社会学史に輝く論文や論考は、偶然の一致ではないのである。そうした大澤の捉え方は、もしかすると、個別事例を全体の構造の徴候と見なすアルチュセール的読解と言っていいかもしれないが、そうしたアルチュセールの発想自体、大澤があえて社会学者として取り上げているフロイト(1856‐1939)ーーウェーバー(1864‐1920)の同時代人――の夢解釈にインスピレーションをえた社会- 歴史の精神分析的な読解であったことを思えば、大澤のスタンスは首尾一貫している。

 

さまざまな対比

大澤の描き出す社会学の歴史が、教科書になりそうなぐらいオーソドックスでありながら、決して無味乾燥な記述に陥っていないのは、大澤が、彼のピックアップした社会学者たちの理論を客観的に手際よく概説するだけではなく、鋭く批判的なコメントをそこかしこに織り込んでいるからだ。そしてなにより、大澤はさまざまな社会学者たちを比較することによって、それぞれの特徴をくっきりと浮き彫りにする。

だから、たとえば、ホッブズの画期性を語るさい、彼はホッブズがそれ以前の社会学者たちとはちがい、人の平等性原理から出発していることを強調する(58頁)。それは、別の言い方をすれば、個人主義集団主義に優先することであり、ポリス的動物として人間を定義したアリストテレスの転倒である(59頁)。アリストテレスにおいてはポリスが起源にあったが、ホッブズにおいては、個人こそが、はじまりとなる。

ホッブズにある倒錯があるとしたら、それは、水平性や平等性という普遍原理を起源において承認しておきながら、そこから、垂直性や不平等性というモデルに至るナラティヴを構築している点であろう。ホッブズの着地点は垂直的で序列的なモデルであるにもかかわらず、ホッブズが起点に想定したのは、対等の権利をもつ平等な個人であった、という点を、大澤の歴史叙述はクリアに描き出す。 

大澤のルソー解釈はスタロヴァンスキーに大いに触発されていたものであるようだが、彼が重視するのは、ルソーが透明性を称揚しているという点である。そこから、なぜルソーが演劇を嫌い、音楽や告白を好んだのかの説明が、引き出される。ルソーにあるのは、不透明性にたいする疑いなのだ(98頁)。ルソーはある種の「正しさ」というものを前提に考えており、それをブロックするものをシステマティックに忌避しているのだ、と言っていいかもしれない。

大澤によれば、ルソーの「全体意志」は、個々人の欲望や個人的な意見にすぎないものだが、「一般意志」のほうは、個人が個人的な思惑とは離れたところで「正しい」と考える意見であり、その背後には、数学的な発想があるという(93頁)。つまり、母体数が小さいほど、正誤の分布は「正しい」割合にならないが、母体数が大きくなればなるほど、実際の値は理想の値に近似していくという、確率論的な考え方である(サイコロを振る回数が増えるほどに、出目の出現数は、均等になっていくだろう)。カントの啓蒙についての考え方を援用するなら、大澤の解釈するルソーの一般意志とは、カントのいう「理性の私的利用」(個人の職業的利益や職務上の義務に縛られることなく、普遍性のために、理性を自由に行使すること)に相当するものと言っていいのかもしれない。

ルソーを透明性の社会学者と捉えれば、彼と対照的なところに来るのはジンメルになる(274頁)。というのも、ジンメルこそ、透明なコミュニケーション空間のなかですべての距離が消滅してすべてが単独者に融合するようなルソーとは裏腹に、コミュニケーション空間に距離を持ち込んだ社会学者だからである。ジンメルが構築したのは、分離と結合という二面性を含む複数性のモデルだ。

ジンメルとはまた別の意味で対照的なのは、ゴフマンである(465頁)。透明性という観点から、それを濁らせるような芝居の虚構性を忌避したルソーとは裏腹に、ゴフマンはまさに演劇をこそ、すべてのコミュニケーション・モデルの前提に据える。

 

現代は、ひとりの人間がある学問領域の全史をカバーすることが理論的にも物理的にも不可能になった時代だ。どれほど大部のものであれ、百科事典的にすべてをカバーすることはできないし、もしそれをやろうとすれば、百科事典的な始まりも終わりもないデータベースのようなものにしかならないだろう。そしてそれは、通史ではない。

大澤の『社会学史』を西洋偏重だと言ってしまうことはあまりにたやすいし、西ヨーロッパ中心主義だという批判は実はあながち間違いではない。アリストテレスに始まり、ホッブズやロックを経て、ルソーやコント、マルクスウェーバーフロイトと、英仏独を渡り歩いていくさまは、あたかも西洋のみが近代であり、西洋近代のみが社会学を生み出したかのように語るのは、ポストコロニアルな時代にはそぐわない。

しかし、大澤の歴史記述が大西洋の両岸を架橋するものになっている点は強調しておかなければならない。しかも、さまざまなものを単に並べるのではなく、互いに関連付けながら、コントラストのなかで提示してく大澤の確かな手腕は、600頁を超す通史を、読み応えのあるひとつの流れに翻訳することに成功しているのである。このような離れ業は、大澤だからこそ可能であるにちがいない。

 

ルーマンフーコーを越えて

大澤は基本的に中立的な記述を心掛けているように見えるが、それでも、大澤本人の価値判断が随所に顔を出し、それが本書を独自の通史に仕立て上げている。20世紀後半の社会学を語る段になると、大澤はブルデューフーコーハーバーマスには点が辛い。

20世紀の社会学者たちを概観する大澤は、彼らの社会的実践と社会学的理論のあいだの整合性にこだわっているように見える。大澤はルーマンの峻厳なアイロニズムーー行動してもどうにもならないさ、という悲観主義――それ自体を必ずしも支持しているようには見えないが、にもかかわらず、それがルーマンの社会理論から厳密に演繹されたものであるという理由で、似たような理論的配置からほとんど楽観的なまでの行動主義を引き出したフーコーよりも高く評価する。ルーマンにおいては理論と実践が首尾一貫しているが、フーコーではそこにほころびが生じている、と言うのである。

大澤に言わせれば、 ルーマンアイロニーは、ルーマンが自身の理論に忠実だからであり、フーコーが楽観的なのは、フーコーが自身の理論に忠実でないせいである(629頁)。大澤のフーコー批判は、たしかに的を射たものであるが、かなり痛烈なものである。 

 ルーマンの場合には、理論の帰結に忠実な実践的な態度へと到達しました。それが、徹底したアイロニズムです。フーコーの場合には、逆である。理論的な含意を徹底的に追求しないことによって、何か、権力の支配に抗する拠点を見出しえたかのように感じられるわけです。しかし、それは不徹底からくる疑似的な抵抗に過ぎないようにも思えます。(605頁)

しかし、大澤が本書の終結部でやろうとしているのは、社会理論から理論的に引き出された実践を粛々と行うことではなく、あるしかるべき実践を社会理論から理論的に引き出すための理論の編み直しではないだろうか。それはつまり、ルーマン的な厳密なやり方で、フーコー的な結論を引き出すにはどうすればいいのか、という問いでもある。

 

偶有性からはじめよう

フーコールーマンを語るという体裁のなかで自らの社会学を語りながら、神の問題にのめりこんでいく大澤の方向性が、やや不思議に感じられもする(613頁)。しかしこの方向性が出てくるのは、大澤にとって、神は、宗教の問題ではなく、社会秩序の問題だからだろう。神は、社会構造の超越性を担保するための起点であり、神の存在は社会学的問題なのだ。

絶対的でない人間が絶対的なものをもたらすには、自分の外部にそれを措定して、それを自分の内に取り込まなければならないが、かといって、自分のフィクションのフィクション性を真正面から受け入れることもできない。だからそこには、意図的な盲目性が発生することになる。それとどのように向き合うのか。神を措定したことを忘れることは、宗教の絶対性を受け入れる立場であり、措定したことを思い続けながら忘れたふりをするのは、フィクション性を受け入れ、絶対なるものが所詮は「絶対」というハリボテにすぎないことを熟知している危うい立場であり、措定したことを本当に忘れてしまうのは、自らを神話化するような立場であろう。大澤は第二の危ういポジションを選ぶ。

大澤の用語法に従えば、それは、偶有性を受け入れることである。虚構の虚構性を受け入れたうえで、それでもなお、その虚構を支えるという倒錯を、倒錯としてではなく、順接として保持することである。

だから大澤は、カウツキーやベルンシュタインに対峙するルクセンブルクを支持し、行動の必要性を説くのだが、それは理論と断絶した実践でもなければ、理論から飛躍した実践でもなく、理論から連続的に続いていくものとしての実践としての行動主義を説くのである。

偶有性を抱擁すること、それは、ルーマンのように失敗の恐怖によって自らを麻痺させないための、べつの理論的拠点を確保することである。

 私が、世界を偶有的なものとして見ることができるのは、いやそのようにしか世界を考えることができないのは、他者が存在していることを私が知っているからです。他者にとっては、世界はまったく別様かもしれない。そのように世界を別様に見る他者が存在しているということを、私は、どうしても無視できない。そのために、私にとって、世界の偶有性は絶対的で、どうしても消去することができません。

このように、<偶有性>ということを、人間の社会性に由来するものと見なし、「絶対の実在」に相当する原理として置いたらどうでしょう(627‐28頁)

 

なぜ失敗を恐れるのか。それは、現実の偶有性を信じることができないからです。現実が、こうである他ない、という思いから自由になれないからです。しかし、現実の根底からの偶有性を、基本的な前提、絶対の実在に等しい前提として組み込む社会理論を作ることができたとしたらどうでしょうか。

このとき、私たちは、おそらく、独特のひねりをともなったかたちで、実践のための指針をも獲得するはずです。その理論は、失敗ということがそのまま変革の成功へと転ずることを保証するような理論になるはずです。失敗することへの勇気のようなものをもたらす理論が現れるでしょう。」(630頁) 

この態度は勇気づけられるものではある。しかし、たしか國分巧一朗がどこかでドゥルーズの実践の理論を批判的に解説しながら述べていたように、失敗という契機を経由しなければならないことを成功の条件とする実践の理論は、社会変革の理論として有効なのか、という疑問はつきまとうだろう。なるほど、ここからは、「なにをしてもしかたない」という悲観主義は出てこないけれど、「負けるが勝ち」というか「負けても勝っている」という言い訳めいた負け惜しみが理論的に正当化されてしまいかねないのではないか。 

 

予示性は社会学的か

偶有性への開かれ、脆弱性の受け入れ、未知のものの歓待、それは、デリダ的でもあればアルチュセール的でもある偶発的唯物主義 matérialisme aléatoireだ。しかしそれは、同時に、予見性を排除して、賭けにすがることではないのか。

偶有性は必要である。それは疑いのないことだ。しかし、この態度を、予見性や予示性prefigurationと両立させなければならないのではないか。わたしの見方が絶対でないこと、わたしの見方と他者の見方が絶対的に異なっていること、それゆえ、世界は多元的であり、だからこそ偶発的な出会いがあり、それを恐れないところから失敗や成功が生まれてくること、それは真実だと思うけれども、それと同時に、未来をともに想像してくための希望の学が必要なのではないか。たとえば、エルンスト・ブロッホが思い描いたような、「いまだない」ものを想像する未来‐希望の哲学 が。

加害者と被害者のあいだの非対称性:姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋、2018)

小説は事実的に正しくなければならないのか

この小説の「竹内つばさ」が東大生「すべて」を象徴していると考えるのは誤りであるし、東大生の「平均」を表していると受け取るのもやはり正しくないだろう。本書をめぐって駒場キャンパスで開かれたブックイベントのなかで、ジェンダー論の代表的学者のひとりにして自身も東大卒である瀬治山角が、自らのゼミ生の言葉を引き合いに出しながら、事実レベルでも心理レベルでも東大のリアリティを正確に描写していない、違和感がある、と語気を強めているのは、わからなくもない。

しかし、奇妙なのは、瀬治山とそのゼミ生たちが、強制わいせつ事件の加害者である5人の東大生とはべつのグループに入るような東大生もまたこの小説のなかで描き出されているという事実に、ほとんど注意を払っていないように見える点だ。奇妙なのは、瀬治山とそのゼミ生たちの自己投影的な視線は、腋臭で小太りで女にもてなさそうだと馬鹿にされる兄のほうではなく、賢く立ち回って美味しいところをかすめとっていく次男坊の「竹内つかさ」のほうに自然に向けられ、そして、その無意識的な投影のあとで、その視線が全力で否定されているかのように思われる点だ。

瀬治山は「竹内つかさ」の「ピカピカツルツル」の心理をありえないと退けたあと、挫折にまみれ屈折した心理の持ち主をこそ、東大生の範例として造形していくのだが、この操作は、姫野カオルコの複眼的で複数的なキャラ配置よりもはるかに還元的で、東大生の一面しかとらえていないだろう(ここでは「神立美咲」や彼女の友人たちの類型性についてはほとんど語らないが、それは彼女たちを無視したいからではなく、彼女たちについて正しく語れる自信がわたしにはないからである)。

なるほど、瀬治山が代弁しようとしていたのは、『彼女は頭が悪いから』には登場しない別の東大生の存在だったのかもしれないが、表象の事実的正しさによって小説の良し悪しの大部分を論じようとしているところは、社会学者である瀬治山が小説を基本的に社会的資料‐史料と見なしていることを露呈しているだけではないか。

しかし、もし姫野の小説が東大生の表象としては事実的にも心理的にも不正確であるとしても、彼女が「竹内つかさ」やその他のわいせつ事件加担者たちという「東大生キャラ」によって描き出そうとしたものは、社会学的にきわめて興味深いものであると思う。そしてそれは、瀬治山の言う挫折の有無であるとか、心理的な屈折とはまったく別のものである。

 

しかし、その議論に進む前に、瀬治山にならって、この小説の事実的な正しさについてひとつ不満をもらしておきたい。この小説の登場人物たちが、男も女も、加害者側も被害者側も含めて、大部分が広い意味での首都圏の人間に偏りすぎていないか、という点である。加害者に地方出身者がいないというのではない。しかし、ここで描き出される世界は、首都圏のスクールカーストや生活圏を内面化した人間たちのそれであるように思う。もちろん、『彼女は頭が悪いから』は、首都圏在住の富裕層の中高一貫出身の男たちの内面世界や世界観を描き出した、そのひとつの頂点として東大を取り上げたのだ、と言ってしまうと、結局は、姫野の小説は現実の事件をネタにしたテクストにすぎないと貶めることになってしまうのは言うまでもない。繰り返すが、以下で論じたいのは、東大にも首都圏富裕層にもとどまらないもっと大きな問題を姫野の小説は提起しているのではないか、という点である。

 

加害者と被害者のあいだの非対称性

『彼女は頭が悪いから』がクローズアップするのは、加害者と被害者のあいだの圧倒的な非対称性だ。被害者はまだ加害者のほうを(少なくとも加害者が加害者と判明するまでは)、自分よりはるかに上に仰ぎ見るとしても、依然として同じ人間と感じている部分があるというのに、加害者のほうは最初から一貫して被害者を同等の存在と考えていない。

彼らがしたかったことは、偏差値の低い大学に通う生き物を、大嗤いにすることだった。彼らにあったのは、ただ「東大ではない人間を馬鹿にしたい欲」だけだった。(464頁)

両者のあいだに上下関係があるということよりもはるかにラディカルな断絶が、ここには開けている。もし両者が同じグループに属しているなら、たとえいまは下にいたとしても、いつかは上にいけるかもしれないし、いま上にいる人に認めてもらえるかもしれないと幻想することができる。だが、もし両者が同じグループに属していないとなれば、そこでは融和の可能性が最初から完全に排除されていることになる。

「竹内つかさ」たちが表象するもの、それはおそらく、東大を含むより広い層の傲慢さである。それは自らよりも劣ると認定した対象を、未来永劫、劣った対象として貶め続けることであり、そのポジションを相手に強要することである。俺よりも劣るお前は、エリート様の嘲笑のネタとしてずっとイジられていろ、というエートスである。

そのエートスは学力には限ったものではないだろう。お笑いでも、スポーツでも、ネオリベラル的なプラグマティズムと奇妙なかたちで融合を果たしたマッチョなホモソーシャルな男の仲間関係が存在するところでは、どこにでもあるものだろう。相手を人間として認めない態度である。

 

いじめられっ子は永久にいじめられっ子でなければならない世界を自明とする

カール・シュミットは政治の根本条件に敵と友の絶対的な区別を置いたが、そこでシュミットが想定した敵の姿は、ニーチェの思い描いた敵に近いものだったはずだ。「敵とみなす価値があるとわたしが認めた存在」である。たとえそこで相手に向けられるのが憎しみであるとしても、それは敵を自分に劣らず優れた存在として尊重しているからである。憎しみにも値しない存在は、敵ですらない。それは人間ではない。

これは虐めの構造と似ているだろう。いじめられっ子は、いじめられっ子であるかぎりにおいて存在を許容される。そのポジションを否定したり、そのポジションから逃走することは許されない、というわけだ。

彼らがあの夜、彼らの目的から、美咲の行動として「想定」したものは、顔を赤くしたり、歯を見せて笑ってごまかして、いやんいやんと身をよじらせることだった。(463頁)

これが恐ろしく傲慢なのは、許されないといじめる方が思うだけではなく、許されないという心理をいじめられっ子にも内面化することを強いるからである。それは自分の心理だけではなく、他人の心理をも自由にしようという態度であり、さらに言えば、自分が見下す相手はすべてモノであり、自分のおもちゃであって、人格も人権も持たない存在であるという世界観の自明性を微塵も疑わない態度である。

無自覚な暴君の態度である。意識的なサディストよりもはるかに始末が悪い、無意識なサディストのナチュラルに暴力的な振る舞いである。

 

「わからない」

姫野の小説は、この傲慢さの恐ろしさを執拗に描き出していく。小説の結部が繰り返すように、加害者たちは、自分たちがなぜ責められなければならないのかが、本気で、純粋に、「わからない」のだ。なぜなら、彼らにしてみれば、そして彼らを育てた親にしてみれば、彼らが「頭が悪い」女を嘲りの対象とすることは自明であり、そこに倫理的な問題は存在しないからである。

彼らはぴかぴかのハートの持ち主なので、裸の女がまるまって、ううううと涙を垂らしている状態は、想定外であり、優秀な頭脳がおかしてはいけないミス解答だった。(463頁)

もし倫理が対等の存在を相手にした場合にしか、そこに拒否と実行の精神的自由の葛藤があるところにしか立ち上がってこないものだとしたら、「竹内つかさ」たちにとって、神立美咲は、倫理の対象ではない。

というよりも、彼女は、彼らの「想定」どおりに反応するモノでなければならないのである。だから、彼女が彼らの「想定」する以外の心理や思考を持つことは、「許しがたいこと」として彼らの怒りを誘発するのではない。なぜなら、彼らは最初から、彼女がそのようなものを持っているとは思っていないからである。だから彼は「信じられない」と困惑するのである。

さっきまでぐいぐい酒を飲んでいたのに、途中からまるまってひとことも発しなくなった美咲の反応は、彼らの経験や感応や発想の、まったく外にあるものだった。(462頁)

ここでいう「わからない」は、理解しようという努力の欠如のせいでもなければ、理解力の欠如のせいでもない。「わからない」のは、相手に、自分と対等の権利を認めていないから、相手に自分と同じような感性や思考が備わっていると認めていないからである。それはたとえば、机の気持ちが「わからない」と言うようなものであり、分かり合おうという意識的な努力の手前にある潜在意識の問題である。

加害者たちが自らを被害者の身に置いてみることができないのは、彼らの想像力のなかに、被害者の人間性の居場所がないからである。というよりも、彼らにしてみれば、たとえ仮想的にであれ、被害者の立場に自らを置いてみることは、言葉に言い表せないほどの侮辱行為なのである。それは、自分の手で自分の人間性を剥奪してみろ、という意味なのだから。自分よりも下のクラスの人間になれ、と言うのではない。そうではなくて、クラス外の、人間以外の存在になれ、と言うことだからである。

 

人間の尊厳の侮辱にたいする本能的な身体反応

どうすれば、ひとたび見下した相手を対等な存在と認めない人びとに、相手の人間性をもういちど認めさせることができるだろうか。

加害者のひとりである「譲治」の母、頭がよく社会的地位もある三浦紀子だけは、「かろうじて」美咲の反応を察することができた、とテクストは述べる。三浦紀子が、神立美咲の通う大学の教授である同姓同名の女性に電話をかけ、美咲が求める東大退学以外の示談の筋道をつけるためのとりなしを求めたさい、教授が次のように言い放ったからである。

「息子さんを含む、事件にかかわった5人の男子学生の前で、あなたが全裸になって、肛門に割箸を刺して、ドライヤーで性器に熱風を当てて見せるから示談にして、とお申し出になってみてはいかがですか」(463頁)

「とても静かな声」でなされた電話越しの返答にたいして、譲治の母は脊髄反射的な身体反応を見せる。

電話を切ったあと、鼻のあなからしゅうっしゅうっと荒い息を吐き、顔も首も真っ赤にした。そしてぶるぶる震えて、ずいぶん長いあいだ椅子にすわったまま、椅子のアームをぎゅうっとにぎりしめて動かなかった。(464頁)

それはまるで、たとえ「経験や感応や発想」が理解することを拒否するとしても、わたしたちの身体はわたしたちの人間性の尊厳に加えられた侮辱を自動的に理解して、わたしたちが意識的に理解するまえに反応するかのようである。

 

わからせること

加害者に同じ辱めを加えることが、わからせるための唯一の道なのだろうか。

それはわからないし、小説はその点について答えを提供しようとはしていないように思われるし、それはもしかすると小説の役目ではないのかもしれない。しかし、この小説の読者であるわたしたちは、人間性が互いに尊重される世界のために、何ができるのか、何をすべきなのか、と自ら問うことはできるし、おそらくそう問うべきである。

だが、そう問うとき、「わかりあうこと」がゴールであるべきなのかという疑いが、ふとわいてくる。加害者と被害者の関係では、前者に後者のことを「わからせる」ことが絶対に必要であると思うけれど、現代のように社会のさまざま層においてさまざまな分断線が走っている世界において、断絶の向こう側にいる存在を想像すること、自らを「他者化 othering」(ガヤトリ・スピヴァック)することが、果たして現実的な選択肢なのだろうか。いまある世界のあまりに強固な自明性にたいして思わずひるんでしまう弱腰な態度から、そんな意気地のない懐疑がわいてくるのだ。

倫理的に考えれば、「いまだ起こっていない」ときに「すでに起こった」かのような先取り的想像力を働かせるべきだ、と即答できる。しかし、それは、内面化されてしまっている「経験や感応や発想」を、何かしらの問題が発生するまえに「学び忘れ unlearn」、自らの感じ方や考え方を見つめ直し、それを作り直していくことにほかならない。

このプロセスはおそらく、なにかしらのきっかけなしに自動的に始動することはないだろう。意図的に始動させられなければならないが、にもかかわらず、強制的であってはならない。強制してしまえば、相手の尊厳を何らかのかたちで踏みにじることになる。たとえ相手の考え方や感じ方が、どれだけ嫌らしく、どれだけ醜いものであるとしても。

尊厳から始めること、それは相手のすべてをまずは無条件で受け入れることではないか。最初から選択的に振る舞うことは、排除の論理をデフォルトにすることにしかならない。排除されるべきもの、克服されるべきものがあることは言うまでもない。しかし、自分の世界観を頭ごなしに押しつけることは、相手をモノとして扱うこと、相手に「想定」どおりの反応を強いることにしかならないだろう。

わたしたちはすでに物事の渦中にある。すべてを抹消して、ゼロからやり直すことは誰にもできない。わたしたちはすでにあるものといっしょに、すでに出来上がっているもののなかで、普遍的な尊厳のためのすこしずつともに歩んでいくしかない。そうでなければ、「彼女は頭が悪いから」と言い放って自分たちの尊厳しか認めない輩によるリアルな暴力が依然として続いていってしまう。

問題は、わたしたちが対人関係においてフィジカルにもメンタルにも暴力的でなくなることではない。わたしたちに力が備わっている以上、それが他者にたいして何らかの暴力的効果を発揮することは避けられそうにないからだ。しかし、仮にそうだとしても、相手を対等と認めないという根本的な構造的暴力を解きほぐし、誰をも対等で尊厳ある存在と認めることをデフォルトとする構造に組み替えていくことは、依然として可能であると願いたい。

深層構造における精神革命をめざすこと、それこそ、この小説からわたしたちが学び取るべきレッスンであるように思う。

人生がゲームだなんて条件しだい(サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)

「「つまり人生はゲームなんだみたいなことを、ずうっと話されていました。はい……はい先生、そのとおりです。よくわかっています」/ゲームときたね。まったくたいしたゲームだよ。もし君が強いやつばっかり揃ったチームに属していたとしたら、そりゃたしかにゲームでいいだろうさ。それはわかるよ。でももし君がそうじゃない方のチームに属していたとしたら、つまり強いやつなんて一人もおりませんっていうようなチームにいたとしたら、ゲームどころじゃないだろう。お話にもならないよね。ゲームもくそもあるもんか。」(サリンジャー村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』17−18頁)

自律と啓蒙のススメ:中野好夫『私の憲法勉強』(講談社現代新書、1965;ちくま学芸文庫、2019)

一般市民の果たすべき義務と責任についての倫理的問いかけ

倫理的に考えれば騙す方が悪い。しかし、だからといって、騙された方に責任がないわけでもない。騙された方が責任を問われないわけではない。とくにそれが個人同士の事柄ではなく、国全体を巻き込む戦争の場合は。なるほど、「政府お抱えの専門家たちに、政府に、わたしたち純真な市民は騙されたのだ」と嘆くことはできるだろう。しかし、そのように自らの無垢さを声高にアピールしてみたところで、すでに起こってしまったことは、すでに為されてしまった悪は、決して無かったことにすることはできない。たとえどれほど間接的でどれほど微小であろうと、わたしたちがその悪に加担していた。わたしたちは共犯であり清廉潔白ではなかった。だから、被害者面を被りとおしつづけるわけにはいかないのだ。そうであればこそ、同じようなことが二度と繰り返されないように、次に「騙される」可能性を潰すために、わたしたちは自らを教育し直さなければならない。

英文学者の中野好夫が、敗戦から15年ほど経った頃、自らが素人であることを承知のうえでまったく畑違いの憲法議論にあえて踏み込んでいったのは、自らを含めた戦中の一般市民の振る舞いの愚かしさにたいする反省の念からであるようだ。しかし、ここにあるのは、悔恨の念だけではない。ここには、一般市民の果たすべき義務と責任についての倫理的問いかけがある。

自律と啓蒙のススメ

素人が玄人に太刀打ちできないというのは真実かもしれない。投資してきた時間や労力が絶対的に違うのだ。だから一般市民が、たとえば憲法議論において、専門家に敵わないのはむしろ必然的なことである。専門家のほうが圧倒的によく知っているし、インサイダーとして様々な事情に通じてもいるだろう。表でも裏でも、正攻法でも裏技でも、専門家のほうが一枚も二枚も上手である。

しかし、だからといって、一般市民は自らの判断をすべて専門家にゆだねていいのか。専門家が「よい」というものを盲目的に信じてよいのか。政府が言うことを無批判に受け入れて粛々と従うだけでよいのか。

中野がここで描き出そうとするのは、頑なで独りよがりな否定の姿勢ではなく、柔軟で健全な懐疑の姿勢である。「政府や専門家が言うことはとにかくなんでもかんでも否定しろ」という結論ありきの態度ではなく、向こうが言うことを丸呑みにせず、とりあえず疑いのまなざしを向け、問題を丁寧に自分で考えてみて、そのうえで結論を出すことである。それは要するに、自律と啓蒙のススメである。

 

「いっしょに勉強するつもりで読んでいただければ」

ここで中野が演じようとするのは、「先生」ではない。というのも、もしかれが「先生」として他の一般市民に講釈するようになってしまえば、彼もまた、たとえ善意の行為であるにせよ、一般市民を「騙す」側に回ってしまうし、一般市民は「騙される」側に留まることになってしまう。だからこそ、中野は「いっしょに勉強するつもりで読んでいただければ」と最初に述べているのだ(13頁)。中野はほとんど同じ言葉を、1965年に付されたまえがきでも繰り返している。「わたしといっしょになって勉強していただければ幸いだと思います」(3頁)。

中野はたしかに先達を務めるのではあるけれど、従うべき絶対的権威としてではなく、隣を一緒に歩みながらともに学んでいこうとする伴走者であろうとする。そしてこの中野の姿勢を、わたしたちは忘れるべきではない。わたしたちは中野の議論に全面的に賛成する必要はないし、おそらくそれは中野も求めていないだろう。

もちろん、憲法が押しつけであるという議論がいかにお粗末なものであるか、GHQが押しつけることになった裏には日本政府側の草案の情けなさのせいであったか、改憲論者の構想する社会がいかに個人の権利を抑圧するものになるものであるかを、中野が読者に学んでほしいと思っていることは明白である。中野が戦後憲法の支持者で、戦後の民主主義体制の擁護者である点については、まったく疑いがない。中野は改憲論者の魂胆に警戒心を抱いている。その真の姿を暴露することによって、その真実を一般市民の人びとにも見抜いて欲しいと切望している。

中野の議論は半世紀以上を経た21世紀の現在でも不気味なほどアクチュアルに響く。それはつまり、改憲論者のロジックやイマジネーションが半世紀のあいだ、大して変化していないということなのかもしれない。改憲論者が基本的に伝統主義者であり、さらに言えば、妄想と空想のノスタルジストーーなぜなら改憲論者の思い描く伝統的日本社会の伝統性ときたら、本当に古より連綿と続いてきた歴史的なものなのか、それとも、歴史学者ホブズボームが「伝統の創出」と名付けたような、近代に始まったものが伝統として偽装されただけにすぎないのかが、定かでないことがしばしばだから――であることを思えば、そして中野がターゲットとする戦後自民党の保守派の大御所の岸信介とその孫にあたる安倍晋三のあいだで引き継がれているものを思えば、中野の議論がそのアクチュアリティを失っていないのは当然である。しかし、にもかかわらず、21世紀の読者であるわたしたちが中野から学ぶべきは、中野の改憲反対論の骨子(だけ)ではないように思われる。

では、何を学ぶべきなのか。

 

考えるプロセスをシェアする

市民は素人である。当然ながら市民のなかには専門家もいる。政治家も官僚も、大学教授もシンクタンクの分析家も、みな市民である。だから、市民すべてが素人であるというのは正しくないのだが、集団として捉えられた市民が専門家集団ということはありえないだろうし、そうした集団=マスとしての市民の知識は、量的にも質的にも、専門家集団のそれに劣るだろう。

しかしながら、専門家に敵わないからといって、一般市民は考えることを止めてしまっていいのか。専門家なら誰もがすでに知っているからという理由で、それを素人が不器用な手つきでたどたどしくたどり直してみることは無意味であると言い切ってしまっていいのか。

興味深いのは、中野は自分の素人考えが新しくないことを率直に認めている点である。重要なのは、議論の目新しさではないし、その独創性でもない。そうではなく、市井に生きるひとりの個人の生活感覚を起点にして、「ひとりの素人市民の常識」からわきあがってくる疑問を公にむけて語り、専門的議論においてまかりとおっている通説の妥当性や根拠性を問い直していくところに、中野の興味は注がれている。

結論それ自体の妥当性もさることながら、そこに至るまでの過程=プロセスの真っ当さをこそ、中野は議論の俎上に載せようとするのである。

これからも改憲論者は、ことごとに「押しつけ」論をもちだし、そんなものは返上してしまえをくりかえしてくるにちがいありません。というのは、それは、素朴な民族感情にきわめて訴えやすいからです。だが、わたしとして強くお願いしたいことは、そうしたばあい、単純に感情だけで判断するのでなく、どうしてそんなことになったか、それをまず考えてから、乗せられないように考えを決めていただきたいのです。(56頁)

端的に言ってしまえば、感情や感覚に任せた腑に落ちる感じだけで話を進めるのではなく、冷静で理性的な理解を大切にしていこう、というのである。

ここにあるのは、専門家だけではなく、一般市民も知っていなければならないことがある、という中野の信念だろう。質量ともに専門家に匹敵するものではありえないとしても、市民は、市民として知っておかなければならないことがあるのだ。それがなければ、わたしたちは懐疑するための推進力を失うことになる。「ひとりの素人市民の常識」は最初のきっかけにはなるだろうけれど、それをひとつの思索へと形づくっていくには、考える力と、考えるための材料がいる。そしてそれをシェアするためにこそ、中野のこの小著は広く再読される必要があるように思う。

 

政治と倫理

市民として政治を考えること、それはおそらく、政治を倫理から切り離さないこと、政治的目的のためにあらゆる手段を合理化するような抜け目なさを許さないことを意味するのではないか。すくなくとも中野はそのように考えているように見える。

「外交とは、祖国の利益になるようにウソをつくことだ An ambassador is an honest gentleman sent to lie abroad for the good of his country」という有名な発言を残した17世紀のイギリスの外交官ヘンリー・ウォトン Henry Wattonの言葉が、ある種の政治的真実を語っていることを、中野は否定しない。この典型的にマキャヴェリ的な言葉は、権謀術策の渦巻く外交世界においては、むしろ現実そのものだったのかもしれない。しかし、中野が続けて問うのは、宮廷外交の時代における心性を、「少なくとも形のうえでは民主的な国民外交の時代」になっている現代にまで持ち越すべきなのか、という点である。

政治や外交において二枚舌がまかりとおっていることは事実である。そのようにして作り上げられた騙し騙しのハリボテ世界では、対岸の火事のような緊急事態が起これば、否応なく戦争に巻き込まれることになるだろうし、自衛と他衛の区別をなし崩しにするような詭弁が必ずや再び持ち出されることになるだろう。

それを許してよいのか。

 

記憶を新たにすることは市民の義務である

過去の過ちをわたしたち自ら繰り返さないこと、過去の過ちをわたしたちの頭上に君臨する為政者や専門家たちに繰り返させないこと、そのためにこそ、市民には「記憶を新たにする必要」がある。過去を忘れないだけでは不十分である。危機に邁進しそうなときにこそ、記憶を新たにし、懐疑精神を新たにし、専門家や為政者たちの美辞麗句の裏に潜む魂胆を問い直すさなければならない。

悪い権力の乱用者は、つねに国民の忘れっぽさということを踏み台にします。ある意味でいえば、それが常用の手口です。だとすれば、わたしたちが二度だまされまいと思えば、ときどきは本源にかえってほんとうのことを思い出してみる必要があります。記憶を新たにする必要があるのです。忘却は罪悪であるばかりでなく、重大な危険でさえあるのです。(85頁)

モンテーニュの友人であったエチエンヌ・ド・ラ・ボエシは『自発的隷従論』でこれと非常によく似た議論をしている。

統治される側を歴史健忘症にかからせることを、権力者はもくろむ。というのも、「なぜ」「どのようにして」わたしたちが支配される身に甘んじることになったのかを思い出せないようになってしまえば、いまある現実がまるで変更不能なもののように見えてくるからである。それどころか、いまある隷属の現実が初めからここにあったかのように錯覚させられ、そのような錯覚を否定する材料がまるでないがゆえに、真っ赤な嘘を信じるほかなくなってしまうからである。

ここで中野の議論があくまで、フランスやドイツを対象とする研究者が持ち出しそうな絶対的な真理であるとか真実のような抽象的概念ではなく、「二度だまされるのはごめんだ」(83頁)という生身の具体的な生活体験に根差しているというのは、経験主義を旨とする英文学の研究者である中野らしいところかもしれない。しかし、だからといって、中野の議論が哲学を欠いているというわけではないだろう。英米文学を深く愛したフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、クレール・パルネとの共著Dialoguesのなかで、「経験主義はイギリス小説のようなもの」であり、「小説家として哲学をやる、哲学のなかで小説家である」ことなのだと述べていたことが思い出される。

だからこの文章を、中野の議論の要約ではなく、中野が描き出す二つのシーンを引用することで、閉じることにしたい。

いつかある護憲の集まりで、長年婦人の地位向上のために、弾圧を忍びながら苦闘されてきた久布白落美さんが、たとえばわたしたち日本の婦人は、妻が姦通すれば罰せられるが、夫がいくらやっても、男の甲斐性くらいで許されていた。こんな婦人をその不合理から解放してくれたいまの憲法――これはもうだれが押しつけたのか、くれたのかしらないが、わたしたちはどうして保守派の改憲などにまかされましょう。死んでもわたしたちは守りますと、もう年老いて、からだもあまり自由そうでない久布白さんが、訥々と感想を述べられたことがありました。なまじ憲法学の論理などでない、長い実感に即したその感想が、非常に深い感銘をあたえたのを覚えています。

また、これはしばらく前ですが、畏友の臼井吉見くんが「読売新聞」紙上で、終戦時の思い出を長い連載に書いていました。臼井くんは、戦争の末期、小隊長として召集され、東京近在のある海岸で穴掘りばかりさせられていたのですが、例の敗戦の「玉音放送」があったその直後、部下の兵たちに敗戦の事実を告げるとよもに、ポツ(113)ダム宣言についても簡単に説明をしてやったそうです。するとひとり、「『隊長殿!』と呼びかけた兵があった。……若い兵であった。目にいっぱい涙をためていた。『その基本的人権というのは、イヌやネコよりは、いくらかましな取り扱いをするということでありますか?』と。」ここで臼井くんはなんの注釈も加えていませんが、おそらくこの兵士の質問に驚くとともに、深く胸をつかれるものがあったればこそ、十九年後のその日まであざやかに覚えていて書いたのでしょう。「イヌやネコよりは、いくらかましな取り扱い」――これは旧憲法下における、ほんとうに名もない国民の声といえるものでしょう。旧憲法下にヌクヌクとしていた支配層、あるいは軍人・官僚のもとで、犠牲のシワヨセを受けることはあっても、けっして人間らしい幸福には恵まれなかった大多数国民の、これこそ直感的に出た実感の声だったのではないでしょうか。けっしてみんなとは申しませんが、きっとみなさんのなかにも、この若い兵氏の一言に実感をもって共感される方は大勢いるはずです。それを考えていただきたいのです。(114頁)

そう、わたしたちはそれを考えなければならないのだ。どんな世界を選ぶのか。誰のための世界を、誰のために、何のために選ぶのか、を。

れいわ新撰組山本太郎政見放送

イデオロギー的にも心情的にも、理性的にも感性的にも、山本太郎の言っていることに大いに賛同していいはずであるにもかかわらず、彼の語る言葉にたいしてうまく言葉にできない微妙なひっかかりを感じてしまう。なぜなのかと自分でも不思議に思う。だからこそ、その違和感の在り処をきちんと探り当てるために、山本太郎の政見放送を精読してみる。

 

どこから始めるかーー「生きたい」という思いの肯定

彼の政見放送は、九州豪雨にたいする被災者へのお見舞いの言葉から始まる。

れいわ新選組代表の山本太郎です。

まず初めに、九州南部豪雨で被災された皆さん、いまだ避難中の皆さんに、心よりお見舞い申し上げます。

彼が続けて述べることによれば、彼の社会意識や政治意識の芽生えは、災害なのだ。具体的に言えば、2011年のフクシマである。

私自身が社会問題を真剣に考える初めてのきっかけが災害でした。2 0 1 1年、 東日本大震災原発の爆発。生きたいという思いから始まった私の政治のキャリア。でも今、 この国では生きたいとすら思えない人々が多くいます。

あの災害はさまざまに位置づけることができる。もっともマクロな視点に立てば、自然にたいする人間の無力さであるとか、自然災害にたいする人間文明の脆弱さというような、悲観的な意見さえ引き出せるだろう。そうした運命論的な見方は、受動的な諦めのようなものーー「所詮わたしたちは荒れ狂う自然を前に何も出来ない、起こったことは受け入れるしかない」ーーにつながる。

しかし、「自然」災害ではなく、「人為」災害と捉えるのならば、そこでクローズアップされるのは、安全管理のずさんさというマネージメントの問題であるとか、なぜそもそも原発というコントロール不可能な技術を使ったのかという根本論である。そのような立場を取れば、そのような問題を作り出した実際の人々ーー東電であれ、原発を推進した政治家であれ、さらには原発を受け入れたわたしたちであれーーにたいして、怒りを覚えるようになるだろう。そこから引き出されるのは、フクシマの政治責任を問う、というアクティヴィスト的な立場である。

自然=運命論か、政治=人為論か。あきらめか、希望か。

当然ながら、山本は後者の立場を取る。

あなたの生活が苦しいこと、 あなたのせいにされてませんか。これまでの政治による間違った経済政策と、 構造上の問題です。

しかしながら、山本太郎の根本的な立場は、文明無力論とも、政治責任論とも、べつのところにある。というのも、山本がフクシマから受け取ったのは「生きたいという思い」だからだ。

ここには決定的な視点の転換がある。マクロな国のかたちでも、ミクロな政治−経済闘争でもなく、具体的な人々の生をこそ、政治家という仕事の中核に据えることを、山本は高らかに宣言している。

 

「生活」ではなく「生」を

「生活」ではなく「生」だ。というのも、ここで彼が言っているのは、物質的な生活水準を上げるというような文明的な欲求ではなく、その根底にあるはずの本源的な「生きたい」という生の渇望だからである。別の言い方をすれば、彼の問題の立て方は、「よりよい生活 VS あまりよくない生活」ではなく、「生き死に」なのだ。ここにあるのは、「生きたい」という魂の叫びを圧殺し、わたしたちを生きさせまいとする死の世界にたいする闘争なのだ。

死にたくなる社会から、 生きていたい社会に転換させる。

だからこそ、山本の話は、フクシマの死者/サバイバーのことから現代の自殺問題へと、シームレスに移行していくことになる。生きたかったのに生かせてもらえなかったという意味では、フクシマの死者も、現代の自殺者も、通底する社会問題である。生を軽視する社会にたいする、人間の尊厳を踏みにじる世界にたいする切実な闘争なのだ。

 

生きさせてくれないこの「壊れた」国

生を否定する力の出処は、自然ではなく、わたしたちである。わたしたちが生きられないのは、わたしたちが自然にそう命令されているからではなく、いまの世界がそのような命令を日々くだしているからである。

おまえは生きている価値があるのか、おまえは生きている価値があるのか、あるというのならそれを具体的に証明してみせろ、もし証明できないのならおまえは無価値だ、おまえには生きている価値などない、死ね。

能力の有無、結果の有無を脅迫的に問いかけてくる死のハラスメント、それこそ、山本が述べるこの国の「壊れている」現状だ。

1年間の自殺者、 2万人を超え、 未遂だけでも50万人を超える。完全にこの国は壊れています。

あなたは自分が生きていても許される存在だと胸を張って言えますか。あなたは自分がただ生きているだけで価値がある存在だと心から思えますか。あなたは、 困っているときに「助けてほしい」と声を上げられますか。山本太郎からの、この問いにすべて、言える、思える、 できると答えられた人、 どれぐらいいますか。そう多くはないと考えます。

なぜなら、 あなたに何ができるんですか。あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、 社会にまん延してるからです。

「そう多くはないと考えます」と言うとき、山本が「そう多くはない」方と連帯しようとしていることは間違いない。

 

「そう多くはない」?

しかし、「そう多くはない」を字義通りに受けとることはできない。もし「生きることが許されていない」と感じる人が本当に少数だとすれば、その状況は、パッチワーク的な修繕でどうにかなってしまうかもしれないからだ。

山本が言おうとしているのは、いまはっきりとそう感じている人、はっきりとそう認めている人は「そう多くはない」としても、潜在的なレベルでは、かなり多くの人がそのように感じているのではないか、という問いかけであるはずだ。

 

「ただ生きているだけで価値がある存在」

「生きていても許される存在」「ただ生きているだけで価値がある存在」、それは基本的人権の根本的をなすテーゼだ。人権が基本的な「権利」であるのは、その権利を享受する「前」に、わたしたちが何かを成す必要がないからである。

人権は、わたしたちが「人間である」ことによって最初から与えられている。それは生来の贈与であり、わたしたちが何者であるか、わたしたちが何を成したかとは、無関係である。善人にも悪人にも、功労者にも無用者にも、金持ちにも貧乏人にも、性別も年齢も人種も宗教も関係なく、わたしたちの具体的なアイデンティティとは無関係に、わたしたちのひとりひとりに等しく与えられている。

いや、「与えられている」という受動態は不適切だ。というのも、人権は国家によって与えられているものではないからだ。「人間」であることは、「日本国民」であることに先行する。なるほど、人権を「保障」するのは国家かもしれないが、人権それ自体の根拠は国家ではない。言ってみれば、人権とは、わたしたちがわたしたちに自ら与えるのである。

にもかかわらず、「自ら与える」ものであるはずのものが、「与えられる」ものに成り下がり、「与えられる」側と「与えられない」側、「すでに与えられている」側と「与えてもらえるようにお願いしなければいけない」側と「お願いしても与えてもらえない」側に分断されている。人権という平等原理が、カースト制のようになってしまっている。

 

障がい者」という政治者

れいわ新撰組が「重度障がい者といわれる2人」を「特定枠」で擁立しているのは、選挙戦略以上のものである。もちろん、冷静な政治的計算がないわけではない。障がい者票を取り込む、というプラグマティックな目論見だ。

さて、 2人の立候補者、発表した際に、こんな声が届きました。「障がい者を利用するつもりか」。この言葉に対して、私は言います。

上等です。障がい者を利用して、 障がい者施策を変えようじゃないかと。

けれども、そこにすべてを結びつけるのは、山本の政治観を見誤ることになる。ここで彼が提起するのは、誰に政治をする権利があるのか、という問いである。

もう1つ、寄せられた意見。「障がい者に国会議員、務まるんですか」。

当事者とは、その道のスペシャリストです。ALSのふなごさんが、今回の、 ご自身の選挙で作ったキャッチコピー

「強みは、障がい者だから気付けることがある」。

障がい者運動の有名なスローガン、 「私たち抜きで私たちのこと決めないで」。

それは、人権思想や平等原理にたいする彼のコミットメントの裏返しでもあるだろう。つまり、すべての人間が等しく人権を持ち合わせており、それらの権利を享受する権利を等しく持ち合わせているのであれば、誰もが政治をする能力と権利を持ち合わせているという結論が必然的に導かれる。

そこで「車椅子の人が投票できるように国会の建物は設計されていない」というのは、言い訳にすぎない。なるほど、現実はつねに理想や理念のはるか後ろを歩まざるをえないけれども、だからといって、いまある現実の至らなさが正当化されるわけではない。それを実際的なコストや手間によって否定することは、普遍的原理を稀釈することにほかならないし、稀釈された理念はもはや理念ですらない。

必要になってくるのは、実現不可能かもしれない理念をどうにか叶えようとして、決して留まることなく常に理念のほうに歩んでいこうとする強烈な意志だ。「ここまでやったからもういいだろう」という自己満悦に陥るのではなく、「ここまでできたのはすばらしことだ、しかしまだ足りない、これで満足するのか? いや、そんなことはない! さあ、これからも少しずつ進んでいこう」というメンタリティをデフォルトすることである。とどまらないこと、つねに進んでいくこと。

理念を完璧に実現できないことと、それを理由に理念の実現をそこそこで諦めて現状に安住することとのあいだには、決定的な差異がある。そして後者を正当化するのは、原理ではなく、現実のさまざまな些事である。そしてその現実の些事が社会全体に蔓延していけば、それは構造的な暴力となって少数者に降りかかり、そして社会全体を押しつぶしていくだろう。

 

社会の屋台骨を変える

いまの社会には、そうした構造的な暴力が深いところにまで入りこんでいる。「生きたい」という切実な叫びをシステマティックに沈黙させていく暗黙の構造がある。

わたしたちはその構造に暗黙のうちに加担する共犯者となってしまっている。自分が「生きづらい」と感じながら、他者の「生きづらい」という感情に寄り添うことができないような社会を生きているからだ。自分がいつかどこかでどうにもならない状況に嵌まりこんでしまう可能性があることを心の底で不気味なまでにはっきりと感じていながら、目の前にいる生身の他者のどうにもならない状況を傍観者的に見つめ、好奇の眼差しで遠巻きにするような態度をとらざるをえない世界を生きている。

生産性で人間の価値がはかられる社会、それが現在です。

これが加速すれば、命を選別する社会がやってくる。医療費を口実に、生産性を言い訳に、人間の生きる価値を、期間を、 一方的に判断される時代がもうすぐそこまで迫っている。これらが、雑で拙速な国会の議論で決まっていくのではないかと危惧してます。

誰かの命を選別する社会は、 あなたの命も選別することになる。

問題は、わたしたちが利他的ではないということではない。利他的であることが推奨されない社会において、利他的であることは、いわば異端的な立場であり、それゆえ少数派の立場である。すべてのことがSNSで拡散され、善意が曲解され、悪意と取り違えられかねない社会、フェイクが真実と誤認されて広まってしまえば、もはや訂正不可能になってしまう現代社会において、賢明な行動とは、不干渉と非関与である。

関わらないこと、共感しないことが賢いのだ。こう言ってみてもいい。もし安全な距離を取ることができるならーーコンピュータースクリーンの向こう側であるとか、スマホ越しであるとかーー好きなだけ共感し、好きなだけ人助けをすればいい。しかし、リアルの自分に飛び火しそうなら、逃げたほうがいい。

そのような精神構造は、決して「そう多くはない」人たちだけのものではない。それはむしろ、わたしたちの時代精神である。この時代の空気を変えなければ、本当の意味で「ただ生きているだけで価値ある存在として認められる」世界にはならないだろう。

結局のところ、世の中が深いところから変わるには、本当にミクロなものーーものにふれたときの感じ方、ひととの関係の結び方、過去の思い出し方、空間の作り方、はては体の動かし方や声の出し方にいたるまでーーを変えるほかない。それは、わたしたちの想像力のレパートリーを変えることであるし、究極的には、脊髄反射的なもの、直感的なもの、意識的に考えるまえにやってしまうことを変えていくことである

それは遅く、遅々として進まないものではあるけれど、普遍的に進んでいく必要があるものだ。だから山本の政治は、少数者ではなく、社会の多数者に、社会構造それ自体に狙いを定めているのだ。

 

「あること」の絶対的な肯定

ここで問題は二重である。ひとつは、「あること」ではなく、「すること」によって、わたしたちの価値が決められているだ。もうひとつは、その価値決定権が、「そう多くはない」方にはないことである。

この状況をひっくり返すこと、「あること」を肯定すること、そして「あること」を肯定する側のほうに価値決定権を取り戻すこと、この二重のプロジェクトーー価値転換の実行と、価値転換構造の奪還ーーこそ、山本のイメージする「社会や政治を変えること」なのだろう。

だから、そんな社会を、 政治を、 変えたいんです。生きててよかった、そう思える国にしたい。それは無理だと思いますか。

私は思いません。

政治を諦めた、政治なんて興味ない、そんな選挙で投票に行かない40%の人々が力を合わせれば、 国は、 社会は、 変えられます。それが選挙、 政治なんです。

「それが選挙、政治なんです」と山本は言うが、ここで彼がイメージしている政治は、わたしたちが一般に想像する政治とはかなりかけはなれているものだろう。もちろん、彼は政見放送の後半で、具体的な政策に言及するけれども、彼が目指しているのは、いまある政治というゲームに勝つことではないからだ。

もし政治をゲームに例えることができるとしたら、山本の言う「国や社会を変える」ことは、いまプレイされているゲームのルールを変えること、ゲームの種類自体を変えてしまうーー同じ球技でも、野球ではなくサッカーをやるーーことなのだ。いや、突き詰めて言えば、政治をゲームの比喩で語ること、「勝ち負け」のような言葉で考えることそれ自体をやめることである。

あなたの生活を楽にする、 あなたが困る前に手を差し伸べてくれる。将来に不安を持たずに生きていける、そんな国づくりの先頭に、山本太郎を立たせてくれませんか。あなたが死にたくなる、 自分に自信が持てなくなる理由の1つ、 生活の苦しさはありませんか。今いちばん必要なことは完全に地盤沈下した人々の暮らしを大胆に底上げすること。詳しくは、 後ほどお知らせします。まずは、 この政見放送を最後まで見ていただけませんか。

意識革命、または価値観の根本からの価値転換

それは革命的な転換だ。重要なのは、山本太郎が右か左かという点ではない。

もちろん、一般的な理解に従えば、彼の政策は「左派」である。消費税廃止、法人税増税、それらは、金持ちから集め、貧乏人に配るという古典的な再分配政策である。奨学金返済にたいする徳政令や数々の給付金といった「バラマキ」政策、それらは、大きな政府路線である。

しかしながら、もし根本のところで、「人間の価値は、その人が成せること、成したことによって決まる」という価値観を保持するのであれば、どれほど大規模な財政出動も、所詮は「温情主義」にとどまってしまうだろう。上から目線の救済措置にしかならないだろう。

それでは駄目なのだ。

わたしたちの人間観を転換すること、わたしたちの価値観を転換すること、そうした根本的な意識革命が、れいわ新撰組の政治プロジェクトである。

 

 

なぜ違和感があるのか、または個人主義の限界

おそらくひとつには、山本太郎とれいわ新撰組の政治プロジェクトが、大きな政府による経済政策を前提とした個人主義の極大化で終わってしまっているように見える点だ。

わたしが個人主義の極大化に反対しているからではない。他人や社会からの干渉なしに、やりたいことをやりたいようにやれる自由、それはJ.S.ミルが古典的名著『自由論 On Liberty』のなかで詳述した近代的原理であるし、それには全面的に賛成である。

しかし、強権的な政府からの介入から個人を自由にすることが主眼に置かれていた19世紀後半と、アトム化した個人をいかに社会に再統合するのかという問題が再浮上してきている21世紀とでは、自由のあるべき姿が違ってくる。自由は果たして手段なのか目的なのか。

米山隆一は「論座」に掲載されている秀逸な分析のなかで、山本太郎は「左派ポピュリズムのど真ん中の政策」であると指摘しているし、同じく「論座」掲載の中島岳志の分析も、山本を同じようなところにマッピングしている。安倍自民党が、伝統的というよりは、彼らの理想とする日本社会=共同体を押し付けようとしていることにたいする、対抗的な位置取りであり、山本の政治的嗅覚は見事なものだ。安倍自民党基本的人権を目減りさせ、国家の安全や社会の安心のために個人の自由を制限しようとしているとき、それに対抗する政治プロジェクトが取るべき第一手が、個人の自由の原理的称揚であるというのは理解できる。

しかし、れいわ新撰組が守ろうとしている個人主義から、連帯につながるようなコミュニティの思考が出てくるだろうか。安倍自民党がイメージするような閉鎖的で均質的な共同体ではなく、多様で多元的な開かれたコミュニティが立ち上がってくるだろうか。この意味で、New York Timesのインタビューで、ジュディス・バトラー個人主義だけでは不十分であると指摘している点に注目する必要がある。

 

微妙なヤンキー的なパターナリズム

それから、れいわ新撰組には、きわめて微妙なかたちではあるが、何かしらのパターナリズムがあるような印象を受ける。 

れいわ新選組、決意。

日本を守るとは、あなたを守ることから始まる。あなたを守るとは、あなたが明日の生活を心配せず、人間の尊厳を失わず、胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす政治の上に成り立つ。

あなたに降りかかる不条理に対して、 全力でその最前に立つ。何度でもやり直せる社会を構築するため。20年以上にわたるデフレで困窮する人々、ロストジェネレーションを含む人々の生活を根底から底上げ。

中卒、 高卒、 非正規、 無職、 障がい、 難病を抱えていても、 将来に不安を抱えることなく暮らせる、そんな社会を作る。

私たちがお仕えするのは、 この国に生きるすべての人々。それが私たち、 れいわ新選組の使命である。

「あなたを守る」。それは、れいわ新撰組が「守る主体」で、選挙民が「守られる客体」であることをほのめかしているのではないか。なるほど、彼は続けて、自分たちは「お仕え」する存在であり、「この国に生きるすべての人々」が主役であると述べるけれど、ここは、彼が先に述べた平等原理と、どこまで調和しているだろうか。

ここに山本太郎の「ヤンキー気質」を嗅ぎ取るのは、もしかすると非常に不当な批判かもしれないが、下手に出た保護主義ーー「守らせてください!」ーーは、強権的な家父長制ーー「守ってやる!」ーーのバリエーションであって、結局は同根ではないかという疑いを抱いてしまう。「国会内で、 ガチンコでけんかをする勢力」という好戦的イメージからも、似たような香りがただよっている。

単に山本太郎という個人を個人的にあまりに好きになれそうにないというわたしの個人的な「好み」や「印象論」を理論的な装いのもとに正当化しているだけだろうか? そうかもしれない。しかし、「れいわ新撰組」というネーミングにしても、山本太郎たちのパフォーマンスにしても、そこにどこか『ワンピース』的な仲間至上主義の押し付けがましさ、鬱陶しさ、胡散臭さを感じてしまうのだ。

 

優しい社会という目的?

 「優しい社会」と山本は言う。社会のかたちとしてそれがどういうものになるかは、なんとなくはイメージできる。だが、「優しい社会」を作ることが最終目標なのだろうか。

生きているだけで、あなたには価値がある。そう感じれる社会を作りたい。

重度の障がいを抱えていても、難病を抱えていても、人間の尊厳を守れる社会は、あなたが守られる社会です。

全面的に賛成する。しかし、そうした社会でただ生きること、ただ生きることが肯定されることが、最終的な目的であっていいのか。「そう感じられる社会を作ること」は、どこまでいっても手段であって、目的そのものではないのではないか。

 

現代において政治が埋めるべき空隙

そのような目的について語るのは、おそらく政治の仕事ではなかった。どう生きるのか、なんのために生きるのか、という問いについて語ることだからだ。それはずっと哲学や宗教、文学や芸術が向き合ってきた問いである。それを政治的問いにすることは、政治を道徳や美学の領域に引きずり込むことになる。政治の美学化は、ヴァルター・ベンヤミンが古典的論考「複製技術時代の芸術作品」の最後のセクションで述べたように、ファシズムの典型的手口である。

それが絶対にまずいというのではない。

おそらく21世紀を生きるわたしたちは、資本主義的生産主義と消費主義によって不可逆的なまでに疲弊しきった惑星に生きる地球人として、政治と経済と美学と宗教を分断するのではなく、それらを高い次元で繋ぎ合わせるようなかたちで共同的実践を構想していかなければならない時期に来ているはずである。

しかしながら、まさにその21世紀の政治課題のところで、山本はかなり情感的な、浪花節的な世界観に後退してしまっているように見える。

現在の政治に足りないのは、 この国に生きる人々をおもんばかる気持ち。そして、 この国に生きる人々への投資。愛と金が圧倒的に足りていない。国からの大胆な財政出動で、 あなたの生活を本気で底上げ。それが、 20年以上に及ぶデフレからの脱却の道です。

問題は「愛」の不足なのだろうか。

繰り返すが、現代における政治の難しさは、わたしたちがもはや政治を単にテクニカルな言葉だけで語るわけにはいかないこと、専門的な政策技術論だけですませてしまうわけにはいかないところにある。グランドデザインや想像力について語ることが、いまや、政治の仕事をなしている。それはおそらく、SNSのようなデジタル・コミュニケーションがわたしたちの政治との関係を変えてしまったせいでもあるし、脱宗教化した世俗的社会において政治が擬似宗教的な役割を担わなければならなくなってきたせいでもあるだろう。

だから、山本がここで「愛と金」を併置していることを問題視しているわけではない。むしろ大いに評価している。だから、問題は、この併置が説得的であるか、効果的であるか、という点にある。

 

わたしは依然としてこの問題にたいする答えを持ち合わせていない。だからそれを言い切った山本の勇敢さを評価するのだけれど、同時に、彼がどんな「愛」を想定しているのだろうかと思う。たしかアラン・バディウ共産主義について論じながら、愛について述べていたと思うけれど、バディウの場合といおうか、キリスト教圏の文脈の場合といおうか、そこでの愛には、恋愛的なものを超越した宗教的な光彩が宿っているだろう。愛が最初から宗教的な概念であるとすら言ってもいい。しかし、日本語の文脈で語られる愛にそのような高い含みがあるだろうか。

山本の言う「愛」は、誰が誰に持つ、どのような性質の愛なのか。水平的な恋愛(カップル間の愛)なのか、垂直的な家族愛(親子間、世代間の愛)なのか、共同体的な愛(郷土愛、愛国心)、アニミズム的なものなのか(自然にたいする畏怖)、はたまた、もっともっと抽象的なものなのか。

そこを明らかにせずに「愛」を濫用するのは、彼が批判する「痛み」を濫用した過去の総理大臣と変わらないだろう。曖昧なかたちで濫用されれば、必ずや愛の不均衡が発生し、愛されるものと愛されないもの、より愛されるものとより愛されないものといった区別や序列が立ち上がってくるだろう。それは平等原理を裏切ることになる。

少なくとも山本太郎政見放送からはそうした隘路の向こう側に何があるのかを予感することができなかった。彼の掲げる未来の輝かしさと、その輝かしい未来のさらに向こう側の見えなさ、その対比が、どうもわたしを居心地悪くさせているらしい。