うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。客観的な解説と主観的な描写のあいだの埋まらないギャップ。

特任講師観察記断章。英語の音の連結や脱落のルールを教えるのはそれほど難しくないが、実践させるのはなかなか骨が折れる。

たとえば、どうすればNot at allが英語らしく響くか。Not/ at/ allという三つのブロックのあいだがつながる――子音で終わり母音で始まる場合、音がくっつく――というのが基本的な音韻ルールだとすると、実践のためのノウハウは、No/ ta/ tallというふうに分割して読むというものだ。単語と単語のあいだの空白を無視して、単語の途中に分割線を入れる。数を切り替えると言ってもいい(3/2/3を、2/2/4にする)。このほとんど直感に反するような、視覚的なもの(目に見える単語間の空白)を聴覚的なもの(耳で聞こえる音のグルーヴ)で無理やり上書きするようなやり方をマスターしてからというもの――たしかこれが身についたのは留学2年目くらいだったような気がする――英語の音をつなげるのがかなり楽に、とても自由に、そしてまったく無意識のうちにできるようになっていったという自分の成功体験があるので、この自己流をプッシュしてみるのだけれど、それが学生に通じるかというと、どうもそうでもない。

どうすれば音が「ハマる」かは直感的な部分が大きいし、そこにどのようなイメージを付与するかということになると、これはもう個人差が大きすぎるように思う。あるひとつの感じ方――わたしの感じ方――を言語的に描写することはできる。文学研究をする人間に言わせれば、それこそまさに文学的な領域だ。プルースト的な文学宇宙に属するものだ。しかしそれはやはり「わたしの」感じ方であって、「感じ方そのもの」ではないし――個人的にプルーストはそこまで好きではないのだけれど、それは、個人的なものでしかない感じ方をあたかも感じ方そのものであるかのように提示してくるところ、上から目線で力づくで押しつけるのではなく、オルタナティヴを描き出さないことによって他の可能性をやんわりと封じこめる婉曲的なところに、何か腑に落ちないものを感じるからだ(とはいえ、『見出された時』に書かれていることを字義通りに受け取るなら、プルースト本人はこのあたりの問題など最初からすべて承知のうえでやっているようだし、その根底には、個人的なものでしかないものを深く深く追求するという実践を描き出すことによって、それを読む読者のうちにプルーストのものではない読者自身の個人的な世界が開けてくるだろうという希望があるようではある)――、このプルースト的方法のために動員されるのは、比喩であったり寓意であったりするわけで、その意味では、どこまでいっても、「…のような」とか、「たとえば…」というような間接性や媒介性が残る。完全に透明にはなりえない。

一方において、論理ほど自律的ではないが法則とは言ってよいであろうルールについて合理的な説明を与え、他方において、自分の経験や感性を拠り所にした言語的記述を与えるという二面作戦で教えてはいるものの、この客観的な解説と主観的な描写のあいだには、どこか埋まりきらないギャップが残っている。しかし、おそらく、このどうしようもないもどかしさが、対面でライブで多人数相手に教えることなのだろう。

動物の目が語る偉大な言葉(マルティン・ブーバー『我と汝の問題』145頁)

「動物の目は偉大な言葉を語る言葉を持っている。動物は、その鳴き声や動作の助けをかりず、ただ目の力だけに頼るとき、自然から授かった自分の肉体の神秘や、生成の不安をもっともはっきりと示すものである。こうした神秘を知り、またわれわれにむかってその神秘の扉を開くことができるのは、動物だけである。なぜならば、神秘には自分を示す力がなく、だれか他のものがそれを開示してやらなければならないからである。この場合、この神秘を言いあらわす力を持ったものは、安全な植物界と冒険的な精神界の間におかれた、被造物の不安な動きである。これらは、いはば精神がはじめて自然にふれたときに自然が口ごもって発した言葉であり、またいわゆる「人間」という精神的存在が、自然を征服する以前の、自然のたどたどしい言葉なのである。この自然の口ごもりが語っていることは、他のいかなる言葉をもってしても繰り返しとなえることはできないであろう。」(マルティン・ブーバー『我と汝の問題』145頁)

理にかなった感じでないほう(メルヴィル「バートルビー」)

""At present I would prefer not to be a little reasonable," was his mildly cadaverous reply." (Melville. "Bartleby.")

「「いまはすこし理にかなった感じでないほうがいいような」というのが彼のまったりと死体じみた返答だった。」(メルヴィルバートルビー」)

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ピッポ・デルボーノ『歓喜の詩』

20190506@静岡芸術劇場

歓喜にいたるには死を経験しなければならない、しかしそれは自分のものよりもはるかに痛ましい他の人の死なのだ、あなたの愛した人の死があなたを狂気の淵につれていく、しかし歓びは狂うことではない、狂うことのなかに歓びはない、歓びは死と狂気の向こうのこちら側に見出そう、死者をよみがえらせるのではない、決して取り戻すことのできない存在として死者もういちど悼む、死者を悼むことそれ自体をひとつの美しい生のありかたに変容する、いまここにのこされた自分のためではなくもうここにはいないあなたのために/の美しい空間を出現させる

暗闇がある。ステージ中央がにわかに照らし出される。鉢植えの花がある。ステージが暗転するたびに、鉢植えがふえていく。色鮮やかな花々が何もないステージに色を添える。

デルボーノのパフォーマンスの構成論理を鑑賞することは難しいし、それを試みることに意味があるとも思えない。理解したり説明したりするものではないように思われる。ジェラール・ジュネットは『フィギュール』に収められたプルースト論のなかで、物語構造のふたつのロジックについて語っている。ひとつは連辞的な接続、つまり、主語+述語+目的語というように、互いに異なった文法単位を横に繋いでいく散文的な論理であり、それは前に進んでいくものである。もうひとつは隠喩的な接続であり、それは、詩的な論理といっていいのかもしれない。というのも、こちらでは、言葉は横ではなく縦方向に滑っていくからだ。同じ文法単位のなかの、別の可能性が模索される。同じ種類に属する別の言葉によって、同じ系統に属する別の言葉によって、いまある言葉が置き換えられていく。前に進むというよりは、その場に踏みとどまる、そしてそこで、言語風景が刻一刻と移り変わっていく。ジュネットによれば、プルーストの物語は後者の系譜に位置づけられるものだというが、デルボーノのパフォーマンスもそうではないだろうか。

ここには線状の展開はない。すべてはメタファー的に、ひとつのイマージュからべつのイマージュへと横滑り的に移り変わっていく。それは積み上げるというよりは、並置である。万華鏡的な変奏と言ってもいい。

もちろん時間は前に進んでいく。時間は不可逆的なものであり、それを変えることは誰にも出来ない。しかし、それでも、舞台の出来事は時間の不可逆的な線状の経過に逆らうかのようだ。舞台は時計の針の進行に抵抗するのだ。ただし、時計の針を逆回転させるというようなかたちでではない。それでは動きの方向性を変えるだけであって、線状の経過そのものは温存されてしまうからだ。だからデルボーノの舞台の出来事はもっとべつの時間の論理を作り出そうとしているように思う。ここで時間は飛躍し、速度を変える。そしていくつかの時間が重なり合う。時間はゾーン状になったり、レイヤー状になったりする。異なった時間像がひとつの空間のなかで共存していく。

しかしデルボーノはそうした特異な時間像をことさらに正当化しようとはしない。そんなことはまったく不要なのだ。舞台に何かが置かれる。すると、そこから何かが始まる。舞台に衣類が並べられる。並べては片付けられ、片付けられてはまた並べられる。山のように盛り上げられる。寝そべるのにちょうどいいカタマリになる。そこにピエロが横たわる。そして、じっとわたしたちを見つめてくる。ここで「なぜ?」と問うことに意味はない。ピエロがそこにいるべき必然性はないだろう。そこにいるのがピエロであるべき必然性はないだろう。しかし、にもかかわらず、彼はすでにそこにいる。それで充分なのだ。すべては舞台で生起する出来事である。起こったことは起こったことであり、重要なのは「なぜ」という理由ではなく、「起こった」という出来事性であり、「起こることができた」という出来事性の奇跡のほうである。何かが起こってしまったのだ。何かがわたしたちの眼前で生起したのだ。わたしたちはその出来事に曝され、それを目撃してしまったのだ。そして、それに揺すぶられてしまったのだ。何かが再現されたのではない、何かが初めてわたしたちのまえに現れたのだ、たとえすでに何度も何度も演じられてきた演目であるとしても、たとえすでに何度も見たことがある演目であるとしても。

 しかしなにが現前しているのか? 

ピッポ・デルボーノが悼む相手、ボボだろうか。おそらく、というか、まちがいなくそうだ。だからこそ、デルボーノの過去のパフォーマンスを知らない人間からすると、『歓喜の詩』には、見知らぬ人についてのお話という印象を抱かざるをえない部分がある。しかし、ここで悼まれているのは、ボボという個人そのものなのだろうか。ボボという人間の具体的な一側面ではないだろう。ボボという観念でもない。むしろ、パフォーマーの身体の一部、記憶の一部、魂の一部にあるボボであるようにも思う。それはいわば彼の中にとりこまれたものとしてのボボーーobject relations理論がいうところのobjectとしての他者――であるようにも思う。

その意味では、デルボーノが提示するものは徹頭徹尾パーソナルなものであるにもかかわらず、まったくインパーソナルでもあるだろう。というのも、彼のパフォーマンスを感じるには、ボボを知っていなければならないわけではないからだ。ここにあるのは、「誰かの」哀悼というよりは、「哀悼という行為それ自体」である。だから、彼のパフォーマンスの前や後ろにあるものを、わたしたちはあえて考える必要がないかのようでもある。少なくともパフォーマンスそれ自体のなかでは、そうした前史の説明のようなものはない。

デルボーノの舞台をパントマイムとして捉えることができるかもしれない。わたしたちはそれがパントマイムであることは理解できるが、「何の」パントマイムなのかは理解できない。しかし、何のパントマイムか理解できないとしても、パントマイムをする身体の強度は依然としてそこにあるし、それを感じることはできる。サーカス的なケレン味のある衣装をまとったパフォーマーたちのプレゼンスは強烈に感じることができる。色とりどりの花々で埋めつくされていく舞台も、何かの象徴というよりは、色彩のコンポジションとして捉えるほうがいいのかもしれない、抽象絵画のように。抽象的だからといってそこに具体的な感情や思念がないわけではない、抽象的だからこそ感情や思念の純粋な強度が直接的に表出されているような、そんなアブストラクト・パフォーマンス。

ここで朗誦される言葉は詩である。舞台上での出来事の説明でも解説でもなく、むしろ、言葉として/という出来事、べつのかたちでの出来事であると捉えるほうがいい。というのも、ここにあるのはメタファー的な隣接Contiguityのロジックだろう。同じ場所に異なるものが幾重にも書きこまるパリンプセストのようなものではない。ある瞬間にそこに在ったものも、次の瞬間にはそこには無い。同じ空間で、瞬間ごとに、別のものが出現するようなものである。空間は同じであるが、そこを占有するものは瞬間ごとに異なる。だから、空間には重みが堆積しない。しかし、それを見ている観客の感性のなかに、観客の舞台の記憶のなかに、舞台空間のなかで現れては消えていったものが積み上がり、重ね合わされていく。わたしたちのなかに重層的に積み上がっていく隠喩的なものが、マグマのように吹き上がる舞台上の朗誦と呼応するとき、何かわけのわからないスパークがこちらの体内の意識領域のなかではじけるような気がする。しかし、それはおそろしくフラジャイルなものでもあるだろう。

 

パフォーマンスの成否がとても不確かなものに賭けられているように思う。テクストがそれ自体としては完結していないかのようなのだ。

いや、そういう言い方は正確ではない。テクストとしては完結している、パフォーマンスとしては完成している、しかし、それはわたしたちに受け取られるまでは未完なのだ。それがわたしたちに何らかの情動を与えてやっと作品は成就されるのだろう。そのとき作品自体に何かが加わるわけではないけれど、それが何か別のものに働きかけることが作品の生理的な要請であり、究極的な願いなのだ。

 誰かの哀悼という暗さから、哀悼そのものの表出へ、そして哀悼そのもの表出という明るさから、哀悼そのものが喚起する純粋な情動の連鎖反応へ、イマージュ的なもの、抽象的なものが呼び覚ますピュアなセンセーションが創り出す暗く明るい連帯の可能性のほうへ。

 

アフタートークのなかで、デルボーノは、「handicapped theaterをやっているつもりはない」」と述べていた。彼にとってみれば、彼の惚れこんだパフォーマーがたまたま障碍者であったにすぎないのであって、その逆ではない、ということなのだろう。障碍は二次的なものにすぎない。根底にあるのはパフォーマンスそのものであり、その意味では、デルボーノのパフォーマンスはどこまでも純粋なものだろう。

デルボーノの舞台はけっして陶酔的ではないし、催眠的でもない。メタファー的なシーン転換は、紙芝居が入れ替わるように、万華鏡の模様のように、瞬間的なものだけれど、インスピレーションによって即興的にその場で作られているわけではない。これもアフタートークで述べていたことだが、最初のコアの部分は即興的に作り上げていったものであるけれど、全体のシーン配置は、入れ替えや並べ替えという試行錯誤の産物であり、遡及的な編集作業の賜物であるという。イマージュの自由連想的な氾濫に思われるこの舞台にしても、実は、冷静な構成的意志の帰結なのだ。とてもそうは思えないのではあるけれど。

 

アフタートークのなかで、宮城聰は次のように述べていた。「ピッポさんは一年中たえず舞台に立っている、劇団の公演がない日には、別の劇場で独り芝居をやるくらい、とにかく毎日演じている。ぼくは行き詰ったとき、「でもピッポさんは地球上のどこかでいまも舞台に立っているんだ」と思い、舞台に立ち続けるピッポさんの姿にずっと励まされてきた。」 

宮城の舞台論理は、デルボーノのそれとは大きく異なっているように思う。デルボーノは、メタファー的に構成された一枚絵を、紙芝居的にフリップさせるように、入れ替え的に配列していく。そこで絵と絵の関係は、横と横の空間関係に近い。宮城のナラティヴは線状に展開され、累積的に盛り上がる。シーン同士の関係は前後関係であり、時間的なものである。デルボーノはイマージュをそのまま現前させる。宮城は概念を具現化させる。おそらく演劇人としての宮城は、本源的なところでは、デルボーノのような脱‐悟性的/理性的な非ロゴス的パフォーマンスに憧れているのだろう。しかし、演出家としての宮城は、ブレヒト的な反省性やモダニズム的アップデートを経た伝統芸能的な形式性を完全には手放そうとはしない。

しかし、ピッポも宮城も、舞台に賭けている。舞台に捧げられた生を生きている。演劇のために生きているというよりも、生きることが演劇することなのだ。彼らふたりの舞台に共通しているのはイノセンスなのかもしれない。それはかなり奇妙なかたちをした演劇至上主義であるようにも思うけれど、この生‐としての‐演劇が、わたしたちの生を、なにかふしぎと生きやすいものにしてくれているようにも思う。すくなくとも、生きることの難しさをすこしときほぐしてくれているようにも思う。

特任講師観察記断章。量的な蓄積、質的な飛躍。

特任講師観察記断章。かなり多くの学生に共通する間違いがある。あまりにも初歩的なものなので、なぜここまで正されずに来たのかと首をかしげてしまうような間違いがある。たとえば名詞末尾の複数形のSを読み落とす、Yes/No疑問文のイントネーションを上げない、Wh疑問文のイントネーションを下げない。興味深いのは、この手の基本中の基本レベルの間違いが、発音に関してはそこそこ流暢な学生にも散見されることだ。いったいなぜなのか。

日本語のスピーチパターンは英語に立ちはだかる大きな障壁であるらしい。英語は語の中間(expREss) や末尾手前(insTEAd)にアクセントがくるケースが少なくないが、日本語は頭にアクセントがあって音が減衰していく(「アリがとぅ」とか、末尾をずり上げるように引っ張る(「ありがトオー」)傾向にあるようだ。EXpressだとかINsteadのようになってしまうのだ。わざとらしいぐらいにアクセントを強調して、英語らしいアクセントパターンにどうにか少し近づいたかどうか、というぐらいである。

音読の仕方に加えて、黙読に使う文法的な区切り方――最小意味構成単位に分解していくやり方――も並行して教えているが、こちらは意外とすんなりわかってもらえているような気がする。3週間ぐらいかけてウザいほどに徹底させてみたところ、最初からこちらの望むものを提出できる学生が増えてきた。ただ、それを音読させるとなると、適当に何となく読んでしまう学生が少なくない。だが、朗読を止めて尋ねてみると、区切り方自体は正しくできている場合が多い。頭での理解と口での実践がまだうまく繋がっていないようだ。

執拗にイントネーションを教え込もうとするものの、それが徒労に終わっているのか、何らかの成果を上げているのかは、現時点では何とも言いがたい。「これはある時点でいきなり「なんだ、そんなことか」とわかるようになるものだから、いまはまだピンと来ていなくてもいい、いまの自分のアーティキュレーションではうまくないんだということさえ理解していればそれでいい」と繰り返してはいるものの、30人近いクラスサイズで口伝えに抑揚を教えようというのは、やはり無理があるのだろうかという気もする。オンライン講座のようなものでは不可能な、リアルだからできることをやっているという確かな手ごたえはあるのだけれど。

素読というのは理にかなった教育法だったのかもしれない、と思うことがある。言語に内在する音楽――旋律やリズムや響きーーを、体感的に刷り込むというやり方だ。ただ、日本語と英語のように両者のあいだに相当な距離がある場合、「まねる」ことは、不自然なまでに自意識的なself-reflectiveな行為にならざるをえないのではないかという気もしている。というか、教えられたことをそのまま真似るというのは、実はかなり難易度の高いことなのではないか。これまでの自分が学んできたことをいちど宙づりにして、これまでの癖や常識をときほぐし、それらを新たにつなぎかえなければならない。そうしたun-/re-learningは、つまるところ、内発的かつ自発的に実践されるのでなければ、無意味なのかもしれないとも思う。

身体知をほとんど信頼することができない理性偏重主義者であるこちらの思い違いかもしれない。しかし、学生を見ている限り、このあたりのノウハウは、経験を積めばいつか自然に身につくような代物ではないような感じがする。量的な蓄積とは別の、質的な飛躍のようなものがいるような気がする。

とはいえ、その質的な飛躍を起こすブレイクスルーが何なのかは、依然として手探り状態だ。たいしたことなどやっていないのに、最近2コマ3コマの授業を終えて自分の部屋に戻ると、強烈な疲労感に襲われる。1、2時間の昼寝が日課になっている。

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』

20190502@静岡芸術劇場

自伝についての映画についての劇についてのミュージカル

   障碍についての自伝、

   についての映画、

   についての劇、

   についてのミュージカル

ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』の入れ子状の構造をわかってもらうには、こう書いてみるのがわかりやすいだろう。発端にあるのは1954年に書かれたクリスティ・ブラウンの自伝『マイ・レフトフット』。それが1989年にダニエル・デイ=ルイスDDL)主演で映画化され大ヒットとなる。スコットランド演劇祭での優勝を願うあるアマチュア団体がこの物語を舞台化しようとして悪戦苦闘するさまを描くのが、ロバート・ソフトリー・ゲイル『マイ・レフトライト・フット』のミュージカルである。

ゲイルのミュージカルは幾重にもメタ的だ。先行テクストが複数ある(自伝と映画)からだけではない。障碍を演じることそれ自体が、このミュージカルのなかで主題化されているからである。 

映画のなかで脳性まひのブラウンを演じたのは非障碍者であるプロの俳優DDLだった。しかし、インクルーシヴさを高めることで特別加点を狙おうというプラグマティックな計算が背後にあるのだから、これを舞台化する場合、障碍者を健常者が演じてもいいのだろうか。障碍者役は障碍者が演じるべきではないか。

しかし、障碍者は俳優としてはアマチュアである。舞台映えのする「障碍者らしさ」を演じることにかけては、障碍の有無ではなく、経験の有無が重要である。この点においては、プロの俳優のほうが適役である。なぜなら、舞台化すべきは、障碍者であるブラウンの生きられた経験ではなく、障碍者役を演じたDDLのプロの演技のほうだからだ。

しかし、演劇祭の規定によれば、インクルーシヴであるためには障碍者役や障碍者が演じなければならない。

とはいえ、障碍の度合いはけっして一様ではなく、脳性まひにしても軽重があるのだから、重度の脳性まひ患者の生涯を軽度の脳性まひ患者が演じることは、倫理的に正しいのか。

いや、そもそも、舞台にのせるべきは、映画が捏造した美談なのか、ブラウンの生涯の真実――元看護士の結婚相手からのDV――のほうなのか。映画の嘘を健常者のプロ俳優が「それらしく」演じることは、根源にあるブラウンにたいする二重の裏切りになるが、ブラウンの生活の真実を彼と同じ脳性まひ患者であるにせよ障碍の程度は異なるアマチュアが演じることは真正といえるのか。

ここにはさらに本質的な問いが賭けられている。舞台というフィクションが表象すべきは、真実なのか、エンターテイメントなのか。

こう問い直してみてもいい。虚構が表象する真実は、エンターテイメント的でありえるのか。

  

劇をめぐる問題、劇団をめぐる問題、またはラブとセックスについての問題

『マイ・レフトライト・フット』は、インクルーシヴでダイヴァースな劇にしたら審査員にアピールできるのではないかという軽い思いつきが、次から次へと思わぬ厄介事を引き起こし、ついには劇団の分裂に至る過程を、二幕仕立てのミュージカル形式で描いていく。脳性まひという障害をかかえる修理工のクリスをアドバイザーとして招いてみたものの、障碍者ブラウンの真実を描くのか、健常者DDLのプロフェッショナリズムを真似るのかで、主演男優グラントとのいさかいが勃発し、そこに、クリスの色恋沙汰が絡み合う。

劇をめぐる芸術と真実の問題と、劇団の人間関係をめぐるドロドロの愛憎劇が混ざり合う。一方に、障碍者の生涯を表象することについての倫理的責任の問題があり、他方に、生身の人間だからこその感情や性欲についての問題がある。過保護な庇護欲や支配欲(シーナ)、身体的なものに起因する劣等感(クリス)、精神的なものに起因する劣等感(イアン)、演技力にたいする自負からくる傲慢さ(グラント)、物事を成功させたいという社会的野望(エイミー)、誰かを愛したいという焦燥感(ジリアン)。そして、他人に認められないことからくる不平不満、誰かに愛されたいという切実な希望。

『マイ・レフトライト・フット』には、健常者らしき俳優がいかにもそれらしい障碍者の演技をするシーンがいくつかあり、それが障碍者ステレオタイプを助長し、障碍者の振る舞いを笑いものにしているという意味で、スキャンダラスに感じられるかもしれない。

もちろん、これが意図されたブラックジョークであることは明白だ。本劇の作家にして演出家のゲイルが障碍者であることを思えば、障碍についての言及が自意識なものでないはずがないし、それを笑いを誘うものに変換するという作業がいい加減なものであるはずがない。

すべてが自虐ネタというわけではないだろうし、障碍についての言及をゲイル本人の経験に還元すべきではないだろう。すでに述べたように、ここでは、障碍の有無だけではなく、障碍の軽重にまで話が及んでいる。健常者が障碍者の「ために」/「に成り代わって」語ることが傲慢であるとしたら、ある障碍者がすべての障碍者の「ために」/「に成り代わって」語ることも傲慢だろう。同じ脳性まひ患者だからといって、クリスの演じるブラウンが絶対的にオーセンティックであるわけではないし、脳性まひ患者だからといってブラウンのことがすべて理解できるわけでもない。クリスの演技を皮肉交じりに論評するブラウンが述べているように、クリスの障碍はブラウンのものほど重くはないし、そうである以上、クリスにしたところで、ブラウンを演じようということになれば、「ブラウンの」脳性まひを演劇的に「らしいもの」として創造しなければならないのだ。舞台上での振る舞いは演技=作られたものであって、「素のまま」ではないという意味では、クリスとブラウンのあいだには、程度の差しかない。

『マイ・レフトライト・フット』の笑いが深いのは、障碍を演じることをここまで真面目に考え抜いておきながら、障碍の演技をコメディーのレパートリーとして取り入れ、それを笑い飛ばすという恐るべき強さをわたしたちに提示するからだ。これはもしかすると、サーカスのピエロのような笑い、シェイクスピアにおける道化の笑いに近いものなのかもしれない。

ゲイルの笑いは別の意味でもスキャンダラスである。下ネタ的なのだ。しかも、相当にブラックな下ネタ。たとえば、障碍のために震える中指で彼女の膣を愛撫してイカせてやる、というナンバー。障碍者の性の問題、性欲の問題が切実なものであることは間違いないし、ゲイルのミュージカルでは、この主題がプロットの横糸をなしている。障碍と演技をめぐる議論が縦糸だとすれば、横糸にあるのは、おせっかいや自分勝手さからくる一方通行的な愛の流れであり、その愛がまったく清らかでもプラトニックではないところに、このミュージカルの生々しさがある。ゲイルは障碍者の問題を、公的領域と私的領域の両方においての主題化することに成功しているし、両者をクロスさせることによって、アートな事柄とリビドーな事柄が分離すべき事柄ではないことをまざまざと例示してみせる。

 

目覚めればそれで解決か

ゲイルのミュージカルは、クリスのかかえる悩みがまったく普通のものであること、障碍の有無にかかわらず、障碍の軽重にかかわらず、誰もが抱くようなたぐいのものであることを、さまざまな形で描き出そうとしているようだ。クリスのエイミーにたいする一方通行の愛は、ジリアンのクリスにたいする一方的な恋慕とパラレルであるし、障碍を負い目に感じて社交的になれないらしいクリスの引っ込み思案さは、自分にたいする自信のなさのせいでおどおどせずにはいられないイアンとパラレルである。みんな同じように悩んでいる。程度の違いはある。しかし、誰かの悩みが特別だったり特殊だったりすることはない。

しかし、これは観客にそれとなく告げられる真実であって、劇中での解決策はまた別のものである。障碍者のクリスに障碍者ブラウンの役を譲らざるをえなくなり、降板を余儀なくされたグラントは、劇団から去ってしまう。2幕で戻ってくるグラントは、「目覚めた」男になっている。そこでグラントは自分が障碍者にたいして傲慢であったことを認め、自らもADHDであると告白し、自分もまた多少は障碍者なのだと吹聴する。上から目線の傲慢さと同じくらいウザい、純粋な善意の押し売りである。これで劇団がふたたびまとまるようなことにはならない。

劇そのものには、障碍についての絶対的な解答はないように思う。アマチュア劇団は結局コンテストで優勝できない。優勝をかっさらうのは、グラントが移籍した劇団による『エレファント・マン』である。それはつまり、プロ俳優たるグラントの演じた「障碍者らしさ」が、障碍者クリスによる障碍者役より高く評価されたということでもある。「らしさ」が本物に勝り、エンターテイメントが真実に勝ったようなものである。

 

真面目なネタのエンターテイメントなプレゼンテーション

『マイ・レフトライト・フット』の内容は、コメディー的に提示されるとはいえ、やはり重いものであり、きわめて真面目なものだ。しかし、プロットは必ずしもそうではないし、音楽のほうがまったくそうではない。

プロットは、ある意味では、ありきたりである。劇についての劇。ラブロマンス。オチには驚きがあるが、大どんでん返しというようなものではない。

音楽にしても同様だ。劇の内容はとんがっているが、音楽はきわめて穏当である。まったく調性音楽的なのはいいとしても、調性音楽としてもどこか新しいようには思えない。いくつかすばらしいナンバーはあったが、忘れられない一節のようなものはあっただろうか。リズムや重唱の扱いについても同様である。

クオリティは高い。エンターテイメントとして何の過不足のない仕事である。しかし、それ以上のものでもない。

しかしここで考えるべきは、重いネタだから重い音楽でなければならないのか、という内容とスタイルの呼応の問題かもしれない。この問題を持ち出してしまう考え方が決定的に時代遅れであり、古典的にすぎるとは思うものの、『マイ・レフトライト・フット』は、ありきたりの音楽「にもかかわらず」、挑発的だと言うよりは、ありきたりの音楽「だからこそ」挑発的な内容が楽しく受容できるのだ、と言うべきだろう。

エンターテイメント仕立てにすることで、インクルーシヴだとかダイバースとかいう難しそうな問題があたかも楽しい考えであるかのように、そういった問題を考えることがあたかも楽しいことであるかのように感じさせてくれること、それどころか、そういった難しいことをことさらに観客に意識させることなく、観客の考え方や感じ方のレパートリーのなかに「インクルーシヴ」だとか「ダイバース」だとか「障碍者の性欲」のようなフレーズを自然に滑りこませるところにこそ、『マイ・レフトライト・フット』の楽しさの批判力がある。

 

メタ的な構造、またはメタ的構造に介入する作者の声

おそらく重要なのはミュージカルのプロットそのものというよりは、上で語ってきたようなミュージカルのメタ的な構造のほうなのだろう。真剣に考えるための材料を観客に提供する一方、それらを楽しくコミカルに料理するための方法を提示しているからだ。何をやるかということにもまして、どのようにやるかということが重要である。態度の持ちよう、接し方のありよう、雰囲気の作り方、というふうに。なるほど、それは必ずしも明確な教えではないし、そういうものとして観客に示されるわけではないけれど、わたしたちは劇場を後にするとき、やってきたときよりは、障碍にたいして蒙を啓かれているだろう。グラントのように「目覚めた」からではなく、障碍がより身近になったから、障碍がより近くに感じられるようになったからである。障害が自分と遠くかけ離れたところにあるものではなくなったからである。わたしたちは、つまるところ、似た者同士であり、互いに別世界の住人ではない。

とはいえ、これは、あまりにも「健常者」からの見方でありすぎるかもしれない。ゲイルのミュージカルに、「障碍者」からの見方という逆方向からの視点があったこと、障碍者に直接に語りかけるための装置があったことは、指摘しておかなければならないだろう。 

ひとつは全編を通して出ずっぱりの、登場人物兼手話通訳の存在である。ナットは黒衣のようなものである。彼女は観客からつねに見えているが、登場人物たちがいつも彼女の存在を認識しているわけではなさそうである。つねに誰かのセリフに寄り添い、それを手話に翻訳する彼女は、物語世界の住人であると同時に、物語世界と観客とを結ぶ懸け橋である。そもそも彼女の手話自体が、物語世界のほかの住民ではなく、観客席のなかの聴覚障碍者に向けてのものなのだ。これが演劇的になにか特別な効果を生み出していたかというと、そこはどうもよくわからないところではある。手話翻訳者は彼女一人であるがゆえに、彼女は特別な存在でもあるわけで、そのあたりは、文楽における人形遣いだとか歌舞伎における黒衣とは、似ているようで似ていなかった。

もうひとりはピアニストのアレックスだ。彼は舞台袖のピアノの前に座り、音楽を奏でる。彼もまたナットと同じく出ずっぱりであり、観客と舞台の中間的な存在である。しかし、おそらくナットよりもはるかに物語世界への没入度が低い。彼は音楽と演技の狭間におり、両者をつなぐ存在である。そしてナットやアレックスのような半‐物語住人は、わたしたちに、舞台の出来事への完全な没入を妨げる効果を持つだろう。ブレヒトが言うところの異化作用のものである。言葉を見ることがどういうことかナットは目に見えるようにしてくれる。言葉とは聞くものだと思いこんでいる大多数の観客の常識をナットは静かに揺るがし続ける。そしてアレックスは、言葉のべつのありようを、言葉を歌うことを示すとともに、ミュージカルのジャンル的なわざとらしさ――なぜセリフを語らずに歌うのか、なぜいきなり踊り出すのか――を、物語世界における内的要求――なぜならピアノを弾く者がいるから、彼のピアノに合わせて言葉を発する必要があるから――へと変換する。

もっともあからさまな物語世界への介入は、ロバート・ソフトリー・ゲイル本人による声である。物語終盤において、いまだに逡巡しつづけるクリスにたいして、「とにかくやってみるのだ」という声が響く。それはクリスがどうか演じようとするブラウンその人からの励ましであると同時に、物語作者からの後押しでもあり、おそらくは、観客席に座っているクリス的存在たちへのメッセージなのだろう。デウス・エクス・マキナ的な介入は基本的に洗練された手段とは言いがたいものであるし、エウリピデスにおけるデウス・エクス・マキナの介入が批判されるのは意味のないことではない。それは劇の内在的論理を破壊してしまう。最後でいきなり劇外部の要素を入れ込み、それで劇的緊張感を無理やり解消してしまう。しかしながら、ナットとアレックスのメタ的な存在は、最初から、こうした介入をある程度まで準備していたようにも思う。そしてマトリョーシカ的な入れ込構造にしても、メタ的なコメンタリーの挿入可能性をあらかじめほのめかしていたようにも思う。

ゲイルからのメッセージ。「とにかくやってみよう」。そしてこれがミュージカル全体を締めくくるフィナーレのモチーフとなる。やってみたからといってうまくいくわけではない。実際、アマチュア劇団はあれだけ欲していた賞を勝ち取ることはできなかった。しかし、一歩を踏み出したことで、キャラクターの生は動き出したようだ。よい未来かわるい未来かはまだわからないけれど、それが「正しい足取り」かはまだわからないけれど、誰もが始まった地点とはべつの地点にいる。べつの地点に向かって歩き出している。

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

20190427@グランシップ映像ホール

コンゴ裁判』はノンフィクション・フィクションとでもいうべきドキュメンタリー作品である。登場するのはすべて実在の人物であり、誰もが本当の言葉で語る。600万人以上の死者を出した20年以上にわたる紛争のなか、第三次世界大戦とも呼ばれるコンゴ戦争のなかで起こった虐殺、暴力、搾取について、さまざまな角度から、生々しい言葉がスクリーンに映じられる。現地住民たちの声、亡骸を悼む声、虐殺に憤る声、環境を汚染する採掘会社を批判する声、仕事を奪った外国の採掘会社を責める声、何もしない政府を咎める声。コンゴの軍隊の声、暴力による対抗戦略がエスカレートしていくコンゴの私兵の声、正しく介入してくれない及び腰の国連軍の声。多国籍企業である採掘会社の傲慢な声、植民地主義の残滓から狡猾に合法的に利益を引き出そうとするEUの声。言い訳がましい政府高官たちの声、鷹揚な知事の声、状況を改善しようと奔走する現地のアクティヴィスたちの声、そして、そうしたアクティヴィストたちと協同しながら、なされざる正義をなそうとするヨーロッパ人たちの声。そしてなにより、正義を求める声。

錯綜する現実をそのまま反映させるかのように、ミロ・ラウは、現実をわかりやすく還元しようとはしない。だから、公害を引き起こした会社にどのような補償を求めますかという質問にたいして「牛一頭と住むところさえもらえればそれで十分です」と答えるおずおずした女性の声と、リゾート地とおぼしき湖岸のテラスに悠然と腰かけ「法律的にはまったく問題ありません」とぬけぬけと語るグローバル・エリートらしき採掘会社の女性の声が、注釈なしに、素材のまま対置されていく。コンゴ国家と、列強大国や多国籍企業との微妙な共犯関係や癒着関係がほのめかされる。外国企業に憤りながら、それらを追い出すことまでは求めていない労働者の態度が浮き彫りになる。政府に失望しながら、依然として政府の介入に希望をかける住民たちの意思が描き出される。ミロ・ラウが提示するのは、相容れないさまざまな声からなる不協和音的なポリフォニーであり、言葉以上に雄弁に語ってさえいる顔の表情や体の動作からなるモザイク状のカオスなコンポジションである。

ここに演技はないだろう。もちろん、多国籍企業の代表者や政府高官たちは、必ずしも真実を語っていない。身元が隠すために黒い防護服に身を包んで証言台に立ったある私兵は、「性暴力をふるっているという疑いがありますが」と尋ねられると、「強姦なら政府軍だってやっている」と責任転嫁する。彼ら彼女らの取り繕いや言い逃れは、見苦しかったり、真実味を欠いていたりするが、だからこそいっそうリアルでもある。真実から目を背けようという態度、真実を語ろうとしない態度、真実を隠蔽しようという態度もまた、コンゴ戦争をめぐる真実なのだろう。ミロ・ラウの『コンゴ裁判』は真実を、ただ真実のみを映し出そうという意志に貫かれているが、スクリーンに映し出されるのは、ただひとつの真実ではなく、さまざまな真実である。個人的な真実もあれば、ある集団にとっての真実もある。しかし、『コンゴ裁判』が、ポリフォニー的でモザイク状の断片的アセンブリーによって表象しようとしていたのは、普遍的な正義という真実ではなかっただろうか。

ミロ・ラウの『コンゴ裁判』の核心にはいくつかのフィクション性がある。ひとつには、コンゴ東部のブカヴとドイツのベルリンにおいて2015年5月29日から31日にかけて開催された6日間に及ぶ審理と証言が、あくまで模擬裁判であるという点だ。本来の裁判に備わっているはずの国家的権威や法的強制力を持たない、架空の法廷である。ふたつめは、映像そのものの編集性である。たとえば裁判のシーンでは、ドキュメンタリー映像が、証言としてはめ込まれている。3つの事例――採掘がもたらした公害、軍隊の暴力と私兵による対抗暴力、虐殺と政府や国連の無反応――をめぐって、模擬法廷における生の証言と、記録映像が組み合わされる。コンゴ戦争という出来事があり、それについての証言や映像という証拠がある。それらが模擬裁判で提示され、それをさらに映像化したものを、わたしたちは追体験するのである。もしかするとわたしたちは裁判そのものを傍聴しているかのような印象を抱くかもしれないし、自分が裁判の傍聴者であるかのような錯覚を抱くかもしれないが、『コンゴ裁判』は、リアルとフィクションの関係ををさまざまなレベルで問い直す複雑な映像作品にほかならない。

そのような複雑なフィクションが体現しようとしているのは、単純な正義ではありえない。だから、「模擬裁判のあと、政府高官が罷免された」という事実がエンドクレジットの一部であるかのように控えめに表示されたとき、そこに希望を見い出しすぎないほうがいい。ミロ・ラウは映像のなかで、この裁判は「象徴的裁判であり、人民の裁判であり、パブリシティのための裁判」であると述べていたが、3つ目の部分を強調しすぎることは、正義の問題を宣伝の巧拙に解消してしまうことに、正義の執行可能性を知名度や注目度の向上の問題に還元してしまうことになりかねない。

最後に挿入された2つのシーンはこの点できわめて示唆的だ。ひとつめのシーンでは、丘の上にいる軍隊を指さしながら、「あんなに近くいたのに、虐殺が起こったとき、軍隊は何もしなかった」とつぶやく住人が映し出される。黙って見すごすことは共犯者になることであり、無言であることは罪深いのである。しかしながら、それに続いて、美しく咲き誇る花壇に林立する白い十字架を前にスマホでセルフィ―をとる二人組の姿は、現代における情報拡散のモードにたいする皮肉なコメンタリーである。どんな悲劇をも、SNS映えするかどうかというあけすけなパブリシティーの問題に貶めてしまうことにたいする警告である。

多数派の賛同が必ずしも正しくないことは、20世紀の歴史(たとえばファシズム)が繰り返し証明してきた。しかし、少数派の極論が危険であることは、21世紀の歴史(たとえば宗教テロ)がわたしたちに告げようとしていることでもある。ミロ・ラウの『コンゴ裁判』がわたしたちに思い出させるのは、正義の普遍性であり、正義の遍在性ではないだろうか。国家や国際機関のような権力組織も、裁判所のような場も、裁判官や判事のような職も、正義のために絶対に必要な要件ではない。正義は、すでに、ある。わたしたちのなかに、わたしたちのあいだに、すでに、ある。だからわたしたちは、いまある世界の在り方を問い質し、それを変えていきたいと希望するのだ。もしかすると、正義をこの世に到来させるために必要なのは、つねにすでにいまここにあるはずのものを、本当の意味でわたしたちのものにすることではないだろうか。演劇だからこそ語りえる真実、それは、演劇というフィクションの起動させる想像力実験が、わたしたちみんなのうちに、この世に正義があってほしいというノンフィクショナルな希望の萌芽を芽生えさせるということではないだろうか。ミロ・ラウの『コンゴ裁判』はそのような希望の種子をわたしたちに贈ってくれていた。