近年ますます長大になりつつあるらしいフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーであり、観る前から長いことを分かっていた。4時間! 映画館でもなければ通しで観ることはかなわないだろうと思ったので、充分に身構えて観に行った。前半はやや退屈したというか、いまひとつ映像のリズムとシンクロできなかったけれど、後半はわりとあっという間だった。
しかしそれは、後半の最後が、3代目のオーナーシェフであるミシェル・トロワグロとゲストのおしゃべりで構成されており、そこで彼の思いがストレートに語られているから、つまり、そこまでの映像がいわばレストランの日常をそのまま切り取ったようなものであり、それらをどのように読み解くかが観客にゆだねられていたのにたいして、最後の部分は言葉が優勢であり、ということはそこで映像化されていることの意味が明確であり、したがってきわめてわかりやすかったからではないかという気もするところ。
『至福のレストランーー三つ星トロワグロ』という邦題は、微妙にミスリーディングだ。原題は Menus-Plaisirs: Les Troisgros であり、そこには「三つ星」の情報は含まれていない。なるほど、「トロワグロ」は「親子3代で55年間三つ星を持ちつづけ」るレストランであり、その界隈では伝説的な存在であるというから、わかっている人には当然すぎるほどの情報ではあるのだろう。しかしながら、原題のサブタイトルがそのような情報をあえて削ぎ落しているのにたいして、邦題は説明過剰である。映像のなかで、「トロワグロ」がミシュランの三つ星を獲得していることは、一度だけ(だったと思うが)、ミシュランのプレートが大写しになることによって明示されるものの、その後の映像は、「トロワグロ」が「三つ星」のレストランであることをことさらに強調するつくりにはなっていない。
『至福のレストラン』というメインタイトルはどうだろうか。原題はややトリッキーに、名詞二つをハイフンでつないでいる。 Menus-Plaisirs。字義どおり、字面どおり直訳すれば、『メニュー-快楽』ということになるのだろうけれど、ハイフンがない menus plasirs であれば、慣用的な表現として——そこでは menus は名詞 menu の複数形ではなく、形容詞 menu(小さい) の複数形扱いになる——「ささやかな(金で買える)楽しみ」(クラウン仏和辞典)の意味になる。
このダブルミーニングをどう捉えるかはさておき、本映像はたしかにレストラン「トロワグロ」についてのドキュメンタリーではあるものの、「レストラン」についてのドキュメンタリーなのかというと、ちょっと考えてしまうところでもある。ここではいったい何がスクリーンにとらえられているのか。
ワイズマンは映像的、編集的な介入を行わないドキュメンタリー作家であると言ってよいだろう。彼の映像は、彼のメッセージをストレートに伝えるようなものではない。もちろん、どのような映像であれ、それは切り取られた現実であり、かならず何かしらの選択が行われている以上、そこに作家のバイアスが入っていないわけではない。しかしながら、ワイズマンは極力、そのようなバイアスを排除する。いわば作家の視点を消去し、現実そのものをプレーンに表象しようとする。
だからここにはドキュメンタリーの定番であるナレーションはないし、説明的シーンは皆無である。
映像は、4代目のシェフであるセザールたちが、フランスの中央部の南東寄りに位置するロワール県の「人口約3万5千人」の都市ロアンヌの駅前のマルシェで野菜を買うところから始まる。ロアンヌ駅が一瞬映し出され、駅前のシーンであることが示唆される。「トロワグロ」はかつてそのあたりで80年近く営業していたが、2017年からは、同県にあるウーシュという人口千人ほどの小村にホテル併設の新店舗をスタートさせたという。
しかし、これらの背景が明確に語られるのは、映像最後でミシェルがみずから「トロワグロ」の歴史をゲストに語るときのことでしかない。つまり、冒頭のシーンからは、前情報なしで観る観客は、これが「どのような」レストランについてのドキュメンタリーなのかを、はっきりと知ることはできない。
ワイズマンの非介入的な態度は、マルシェのシーンに続く、ミシェルとその息子たちセザールとレオの3人が、カフェのようなところでメニューの検討をしているシーンからも明らかである。
そこでセザールは、魚の調理法について、魚をどのようにさばき、身のどの部分を使うのかをレオに示すために、紙のうえにペンを走らせるが、カメラはそれを大写しにしようとはしない。カメラは固定されたまま、新たなメニューを提案する息子たちにたいして、厳しい批判的コメントを差し向ける父の姿を、しかしそれにひるむことなく、果敢に主張を繰り返し、意見を押し通そうとする息子たちの姿を映し続ける。そこで伝わってくるのは、親子のあいだの真剣勝負の空気だ。互いに譲ろうとはしない、料理にたいする求道的な姿勢。
邦題にケチをつけたけれど、この映画が「レストラン」をめぐるものであるという解釈はけっして間違ってはいない。ただし、「レストラン」という言葉で、レストランが収められている建物とそこで働く人々やそこを訪れる人々だけを指すのではなく、レストランが位置する土地の様子、レストランと連動して働く人々をも含めた総合的な環境を指すのであれば。
前半の映像はその多くが調理シーン、下ごしらえのシーンである。しかし、キッチンだけが映像の主題ではない。そこではサービスをする側の仕事っぷりが、レストランを取り巻く環境が、酪農が、牧畜が、農業が、チーズ作りが描き出されていく。
そこで強調されるのは、有機的であること、自然のサイクルに逆らわないことである。ヤギは夏の発情期に交尾させ、妊娠すると、子どもが生まれてから10ヵ月にわたって乳を出すという。ヤギの飼育はそのサイクルに従って行われる。牛の飼育はローカルな環境で完結するような仕組みになっており、牧草を食ませ、その地域で屠畜される。野菜は有機栽培であり、植えた後は過剰な追肥は行わない。ワイン用のブドウ畑には、ブドウだけではなくさまざまな植物が植えられている。すべては土地の力のポテンシャルを引き出し、それらを十全に使うためである。
「トロワグロ」の料理はそのような素材によって成り立つ、地産地消のものであるようだが、その一方で、日本料理にインスパイアされたものでもあるという。映画末尾のミシェルの自分語りによれば、彼は20代前半に日本を訪れ、日本料理を気に入り、それをみずからの料理に取り入れようとしたのだという。だからなのか、映画の中でもシソが登場するし、この流れは息子のセザールにも受け継がれているようで、彼もミソを使っている。
しかしながら、そのようなディテールを除けば、トロワグロのフランス料理がどのようなものなのかは、決して明確には語られることがない。たしかに、ザリガニや子牛の脳を茹でるシーンはあるし、腎臓をソテーしたり、魚をさばいたりするシーンはある。パティシエが働くところも記録されている。給仕する側のミーティングが映し出されるおかげで、どのような料理が振る舞われているのかは、間接的には見えてくる。しかし、決して直接的なかたちで「トロワグロ」のコース料理やアラカルトの全貌が示されることはない。
食べるシーンが少ないのも興味深い。3代目のオーナーシェフであるミシェルが息子たちや弟子たち(と言ってよいだろうか)の料理を食べて批評するシーンはあるものの、レストランを訪れたゲストたちが食事を頬張るシーンは驚くほど少ない。その意味では、この映像が描き出す「楽しみ」は、ゲストが味わうものという以上に、レストラン側の作る喜びであるように思われる。
個人的には、ウーシュにあるミシェルとセザールが切り盛りする本店ではなく、そこから北に車で(だったかな?)30分ほどのところにある、次男のレオがまかされているもうすこしカジュアルな店のほうに気をそそられた。それは結局のところ、本店のような超高級店に行ったことがない身としては、いまひとつそこでの食事体験がどういうものなのかを、想像しがたいからかもしれない。
それにしても、ここまでレストランの厨房を映し出してくれているにもかかわらず、この規模のこのレベルのレストランの日々のオペレーションがどうなっているのかは、いまひとつわからないままであるというのも、よく考えてみれば、なかなか面白い。
映像のなかではオーナーシェフのミシェルが各セクションを回り、味見し、指示を出しているシーンが繰り返されるけれども、そこでの注文がその日のメニューに反映されるものなのか、それとも、試作中の皿についてのものなのかは、判然としないところがある。だからなのか、ミシェルの頑固さと気難しさが、何とも言い難い威圧的なところが、浮上してしまっているきらいもある。
「トロワグロ」のプロモーション動画でしかないのではないかという疑問はある。しかし、その一方で、地域密着型で、有機的なかたちで、総合的なサービス――レストランとホテル、食と住――の可能性を提示しているとも言えるし、レストランを中心とする共同体——料理人、サービス係、生産者、ゲスト――のありうべき姿を描き出しているとも言える。
それは、隠然たるかたちであるとはいえ、集約的で半ば工業的な農業にたいする批判でもあれば、ファストフードにたいする批判でもあり、食を単なる栄養摂取に還元するような食事体験の貧困化にたいする批判である。
ただし、それが、言ってみれば、高踏的な、上から目線の批判であることも否定できないだろう。
「トロワグロ」で食事できる者がはたしてどのぐらいいるだろうか。ランチでも2万円は下らないようだが、それほどの価格を一食のために躊躇なく快く払える層は限られているだろう。
その意味で、この映画は画餅的なところがある。ワイズマンの前作である『ボストン市庁舎』やニューヨーク市立図書館についての『エクス・リブリス』とは対照的だ。
もちろん、民主的なものを撮り続けるべきだというのは一種のイデオロギーであり、押し付けにほかならない。ワイズマンが本作で、前二作とは対照的な、経済的富裕層の領域にカメラを差し向けたこと自体を頭ごなしに批判するのは、批判として狭い。
しかし、90歳を越えたワイズマンがなぜあえてこれをカメラに収めようとしたのだろうかという疑問は残る。
ワイズマンの映像を見てきた観客には、何か腑に落ちないものが残るだろう。
とはいうものの、やはり、現在のようなショートショートな映像がデフォルトの環境に置いて、4時間に及ぶ映像体験は唯一無二のものであることは間違いない。
ミシェルによる自分語り的なシーンが終わると、映像は暗転し、クレジットが黒字の背景に白地で浮かび上がる。しかし、音声からは、厨房のオペレーションが依然として進行中であることがうかがえる。
ワイズマンによる映像を閉じる一言は、レストランが、料理人でもなければ、ゲストでもなく、両者をつなぐ給仕人によって成立していることを告げているかのようでもある。
「Service, s'il vous plaît![この皿、お願いします!]」