うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

句読点を必要としない毛筆書き(石川九楊『書とはどういう芸術か』)

「句点や読点は毛筆書きの時代にはなかった。必要としなかったのだ。毛筆書きの場合には、その字画の太さや力、速さ、文字間隔などの肉筆の書きぶりの中に、息つぎや、休止、終止の意味が微妙に書き表されていた。ところが、肉筆を印刷文に転換すると、微妙なアナログ表現がどこかに消え去ってしまう。やむなく、近世木版本に句点「。」が登場し、やがて西欧印刷物にならって「、」や「。」を付すこととなった。印刷文になったとき、どうしても句点や読点が必要になるのだ。」(石川九楊『書とはどういう芸術か』26頁)

「我々は平気で会話の途中で、「それどんな字を書くの?」と訊き返している。話の途中でその文字を質すということは、文字が思い浮かばなければ、発音だけでは発語においても了解においても言葉としていまだ十全に成立していないということだ。/読み書きのときだけではなく、我々は日常的に話すときにも、音、音声というよりも、むしろ文字にウエイトをかけている。比喩的に言えば、「文字を話し」「文字を聞く」 . . . 日本語においては、その書かれ方の中に、その意味はこめられてくる。漢字で書かれた「もの」と片仮名で書かれた「モノ」とは、書きぶりだけではなく言葉の意味が違ってくるのだとすれば、同じ「もの」と書かれていても、その書きぶりの違いの中に、ごく微細であるにせよ、言葉の意味の違いはのせられていると考えるべきであろう。たとえば、僕の場合「××の××」という場合の格助詞の「の」の字は小さく書くが、「もの」という名詞の一部である場合の「の」の字は大きく書く。この違いに気づかずに、気づいても単なる書きぶりの問題として軽んじてきたのではなかろうか。」(石川九楊『書とはどういう芸術か』135‐37頁)

「書は、一点一画の相互関係によって、いわば時間的に織り上げられていく。その点において、文字は絵画や抽象絵画よりもはるかに時間性に傾斜した構成をもつことになる。書の空間性は、基本的に時間性に従えられている . . . どのような芸術だって生の文体たる人格は表現されるものなのに、ことさらに書においてそこが強調されるのは、文学同様、いや文学以上に微細にこの時間的全過程をたどることができるという点に依存しているところも多い。これはしばしば書が音楽や舞踏に喩えられる理由でもあろう。」(石川九楊『書とはどういう芸術か』184‐85頁)