うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「現実感覚なるものがあるのなら、可能性の感覚なるものもあるにちがいない」(ムージル『特性の無い男』第1巻第1部第4章)

だが現実感覚 [Wirklichkeitssinn] があるのなら――そしてそれにはその存在理由のあることを誰も疑わないだろうが――可能性の感覚 [Möglichkeitssinn] と名づけてしかるべきものもやはりあるにちがいない。

可能性の感覚の所有者は、たとえば、ここでしかじかのことが起きた、起きるだろう、起きるにちがいないなどとはいわずに、想像力をたくましくして、ここでしかじかのことが起これば起こりうるだろう、起こってしかるべきだろう、怒らなければならないだろうに、などという。そして誰かが彼に向って、何かについて、これはこういうもんだと説明すると、いや、たぶん別の場合だってありうるだろう、と考える。だから可能性の感覚とは、現実に存在するものと同様に現実に存在しうるはずのあらゆるものを考える能力、あるいは現実にあるものを現実にないものよりも重大視しない能力、と規定してもよいだろう。こういう創造的素質の及ぼす効果は注目すべきものと思われるが、遺憾ながらこのために、人が嘆賞するものを虚偽とみなし、人が禁ずるものを許されるものとみなし、あるいはこの両方をおどうでもよいものとみなすことが、稀ならず起きるのである。この種の可能性感覚の持ち主は、ほかの人よりも目の細かな意図で編まれた繭玉の中に、つまり予感、想像、夢想、接続法の繭の中に住んでいる。こういう傾向のある子供は、この傾向をたたき直されるし、そしてこの種の人間は、子供らを前にして、幻想家、夢想家、弱虫、知ったかぶり、あるいはあら捜し屋、などと呼ばれるのである。

褒め言葉でなら、こういう阿呆は理想主義とも呼ばれている。だがこれでは明らかに、現実を理解できないか、あるいは愚痴っぽく現実を回避する、彼らの中の弱気な変種だけしかとらえられない。なぜならこの場合は、現実感覚の欠落が実施に一つの欠点となっているからだ。だが可能的なものとは、神経の細かい人たちの夢だけではなく、まだ目覚めぬ神の意図をもたっぷり抱え込んでいるものなのだ。可能的体験といい、あるいは可能的真実というものは、現実的体験と現実的真実から現実性という価値を差し引いたものではないのであり、少なくともその信奉者の意見によれば、それにはきわめて神的なものが、火が、飛翔が、建設意欲が、そして現実を恐れはしないが、しかしこれを課題とし虚構として取り扱う意識的ユートピア主義が内在しているのである。つまり、大地はけっして老いてはおらず、どうやらまだ祝福された子を産んだためしがないらしい、ということなのだ。」(ムージル「現実感覚なるものがあるのなら、可能性の感覚なるものもあるにちがいない」『特性の無い男』第1巻第1部第4章16‐18頁)