うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。メソッドの教育。

アメリカ観察記断章。アメリカの教育が「個性」なるものを偏重していることは間違いない。彼女ら彼らは何かにつけて自分流でやりたがる傾向にある。しかし、アメリカ的教育に規律的な押しつけがないわけではないだろう。それどころか、方法論的なレベルでは、アメリカのほうが日本よりはるかに紋切り型ですらあると思う。たとえばFive-Paragraph Essayというフォーマット。TOEFLのための勉強をしたことがある人はたぶんご存知のことと思うが、導入部と結論部を三つの論拠や具体例でサンドイッチする形式のことだ。アメリカと日本の違い、それは私見によれば、アメリカではこうした画一的なものが「メソッド」として教育課程に組み込まれ全ての人に共有されているのに対して、日本では形式的なものが「テクニック」としてある特定の人々(たとえば予備校生)の間においてのみ流通しているところにあるのではないかと思う。ある意味、日本もアメリカも個性を尊重した教育をしている。しかしアメリカが臆面もなくメソッドを押しつけているのに対し、日本はそうした形式的なものをあえて隠蔽し、秘儀的なところに落としこんでしまっているのではないか。その結果、アメリカの生徒達は顕在的なメソッドを引き受けた上で独自性を打ち出そうとするが、日本の生徒達は不確定なテクニックに翻弄され即興的にしか個性を演出できないような苦境に陥っているように感じる。要するに、日本では、あまりに多くのことが「センス」だとか「感性」だとかに委ねられているのではないか、ということだ。こうした「目で見て盗め」「習うより慣れろ」という職人的心性は日本的生をアメリカのそれよりはるかに美的なものにしている。しかしここにはまったく効率的ではない求道性(サービス残業!)があるし、明文化されていない抑圧的な暗黙のルール(先輩や上司より先に帰るな!)が潜んでいる。アメリカに「見えない」空気的ルールがないとは思わない。しかし、アメリカにおいて、空気は、「読む」ものではなく、協議されるものであるように感じる。