うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。Democracyの原風景。

アメリカ観察記断章。アメリカの学生はdemocracyというと何を思い浮かべるのか。正直、彼女ら彼らが政治(的なもの)としての民主主義で何を理解しているかはいまだによくわからないが、民主主義的な価値観ということになれば、ふたつのポイントがすぐに思い浮かぶ。ひとつは「express oneself(自分の意見を言うこと)」、もうひとつは「speak up(積極的に発言すること)」だ。

とくに「express oneself」のほうは、「たとえ周りがそれは違うと言っていようと、私はそういうふうに感じているし、そういうふうに感じている自分が絶対的に正しいと信じているので、私は批判を恐れず自分の思うところを率直に言う」という含意があるようだ。これはアメリカの風土においてほとんど直感的で反射的な言い回しなのだろう。学生たちの書くものを見ていると、彼ら彼女らは子供のころから一貫して「speak up」して「express oneself」するという訓練=規律を積んできているし、この行動規範によっていろいろな成功体験をしている、ということに気づく。

「express oneself」と「speak up」は民主主義的か。必ずしもそうではないと思う。しかしアメリカの学生たちはこうした心的態度が民主主義の基盤にあると感じているようだし、アメリカ社会全体がこうした心的態度を(あくまで表向きは)全面的に肯定しているように見える。ここで数の問題は当然あるし、数の問題はえてして金の問題になりやすい。実際、次の大統領選挙の準備が始まっているが、どの候補者がどれだけのファンドレイジングをしたかというのが大きなニュースになっている。しかしそれと同時に、意見をつくして、自分の立場をわかりやすく説明しようという熱意もたしかにある。アメリカ民主主義において、数の論理は、いわば最終的な仕上げであり、本当に重要なのはそこに至るまでの議論のプロセスなのだと思う。

さて、では、日本の学校で醸成される民主主義的な心的態度とは何か? 民主主義的なものの原初的な成功体験は何か? 

人口8万人ほどの市に生まれ、近所の市立小学校から市立中学に進み、地域で一番の県立進学高に通って、東京の国立大学に行った自分の体験を普遍化する気はないが、いま改めて回想してみると、民主主義的なものの片鱗といえそうなのは、「学級会の話し合い」であり、学級委員だとか生徒会長のような役職の「投票」や「選挙」ではなかったかという気がしてくる。しかし、誰もが知っているように、「話し合い」は、全員がいやいやながら付き合わされる退屈で苦痛な時間であり、「投票」や「選挙」とは、役職に選ばれることを避けるために透明人間になる時間ではなかったか。KYという言葉は自分が小中高大のころ存在していなかったけれど、徒労にも似た「多数決の原理」によって最終的な決定がつけられるあのプロセスは、今になってみれば、ネガティヴなものとしてしか思い返すことができない。

日本における民主主義的なものの原風景が学校にあるとすると、そこで学ばれることは、話し合いという名のもとに要求される弱いグループの意見の取り下げであり、多数決という数の原理による少数意見の封殺ではないのか。こうした体験を小中(高)と9年(プラス3年)経て、大多数の人々が民主主義にポジティヴなイメージを抱くようになるだろうか。個人的にはかなり悲観的だ。もちろんここから、議論不十分なまま重大な疑問の残る法案を多数決という見かけ(だけ)は正当な手続きで通過させてかまわないではないかと主張する気はさらさらない。しかし、こうした暴力的なプロセスこそ、まさに、日本において多くの人々が学校教育を通じて肉体的なレベルで内面化した「民主主義なるもの」の真実ではないのか。太平洋の向こう側から眺めていると、そんな気がしてくる。