うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。英語の敬語表現。

アメリカ観察記断章。英語の敬語表現はたしかに日本語ほどややこしくない。実を言えば英語特有の面倒な問題がいろいろあるけれど、日常のシーンで単純にちょっと敬意度を上げたいなら、sirというような表現を「付け足せ」ばそれで案外間に合ってしまうらしく、気取った店(サード・ウェイヴ・コーヒーショップでもセレクトショップ的なブティックでも)はそういうちょっとした言い回しであえて顧客との距離感を作り出し、無遠慮ないしはフレンドリーすぎる口調で話しかけてくる大衆店と差別化を試みているように思われる。

日本ではもっとも大衆的な店(たとえばコンビニ)がもっとも齟齬感のある言い回しで対応するけれど、アメリカのファーストフードはもっとあからさまに対応が雑だ。しかしこの「雑な」対応はそこまで不快ではない。「用を足せればそれでいいじゃないか」という功利主義プラグマティズムがひとつの理由だろう。しかしそれに加えて、「雑」であるというのは裏を返せば「地」が出ていることではないか。アメリカでは、マニュアル対応にもどこか人間味が残っている(マイナスの意味ではあるけれど)。

もちろアメリカでもきっちり作られたマニュアルはあると思う。しかしそれは日本ほど規格化されておらず、個人の裁量に任されている部分が大きいという印象を受ける。日本のマニュアルは個性を消すことに専心しているのかもしれないが、アメリカのマニュアルはその点においてかなりいいかげんだ。だから一人一人の個性がまるでプラスアルファのようにどこかでつねに見え隠れしているし、それゆえ、意外なほど店員の顔や雰囲気が記憶に残る(ところでユニクロはまさに日本的接客を仕込んでいるようで、店員の個性をまったくといっていいほど感じない)。

現代日本語はなぜ慇懃無礼なほどに敬語「的」表現を濫用するのか。あれはつまるところ(自己)防衛的な態度であり、(予めの)責任逃れであり、つまるところ、敬意の否定ではないのか。なぜならあそこでは、顧客を、かけがえのないひとりの「人間」としてではなく、誰でもいい単なる「顧客」としてしか認識していないから。

DMVの話の続き。45分ほど列に並び、やっとのことで整理券を手に入れ、天井からぶら下がっているモニターとにらめっこしながら自分の番を待つ。20分は待っただろう。やっと機械音声の女声が私の番号を読み上げる。「now serving G136, window number 10」。これは日本の銀行なら「番号札G136番でお待ちのお客様、10番カウンターにお越しください」と言うところだろう。しかし英語音声は必要な情報だけをフラットに告げる。機械音声は機械音声であり、それ以上でもそれ以下でもない。機械は人間的になろうとしていないし、人間味を出そうともしていない。機械を人間的なものにしたいというのは、アニミズム的な思考の産物であって決して自然な欲望ではないのかもしれない。