うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ジャン・ランベール=ウィルド演出『妖怪の国の与太郎』

20190217@静岡芸術劇場 
「墓場で運動会」な『地獄篇』
死神エルメスが死者である与太郎閻魔大王の前にまで連れていく。その道中で、彼らは死者や妖怪に遭遇し、妖怪たちの歓待を受ける。しかし、横槍も入る。「ほっぺたのように赤い」与太郎の魂のボールは、喪服を着たチャップリンのような間の抜けた死神のせいで、妖怪たちに盗まれてしまうこともある。とはいえ、魂をめぐる熾烈な争奪戦はない。すべてはコメディーの空気の中、ドタバタ劇として進んでいく。

ここではベタな笑いと幻想性がないまぜになっている。アフタートークでの話によれば、与太郎が来ていたパジャマは、演出家ジャン・ランベール=ウィルドの私物であり、舞台俳優でもある演出家の絶対的な舞台衣装であり、夢の世界にいちばん近いものなのだという。たしかに、昨年のふじのくに演劇祭の『リチャード三世』の道化芝居風のリチャード三世を演じたときにも彼は同じパジャマを着ていたし、あそこでも、観客は奇妙な夢幻の世界に誘い込まれていた。現実から夢の世界へ、それが演出家の基本路線なのだろう。演出家の想像力のなかでは、夢の世界と道化芝居がリンクされているようだ。今回の芝居は、『リチャード三世』がそうであったように、見世物小屋的、サーカス的といったほうがしっくりくる。アフタートークでの話によれば、演出家の頭にあったのは紙芝居だったというが、それはつまり、民衆娯楽的なものを劇場に持ってくるという試みであったといっていいだろう。

エルメスは最初のほうでダンテに言及する。これを『妖怪の国の与太郎』に当てはめるなら、エルメスがガイド役のヴェルギリウス与太郎のほうがダンテということになるのだろう。しかしエルメスチャップリン的であり、与太郎はパジャマという道化服を着たクラウンである。つまり、主人公ふたりがボケ役という感じで、ツッコミ不在のままひたすらボケがくりだされるという流れでもあった。

だから地獄篇のはずなのにまったく悲壮感がない。妖怪にしても、おどろおどろしさというよりは、B級ホラー映画のチープさが、意図的に強調されていた。妖怪は恐怖の対象ではない。妖怪たちは楽しく生きている存在なのだ。それは演出家が大いに愛しているという水木しげるの描く妖怪のイメージ、死ぬことも悩むこともなく毎晩墓場で運動会を楽しむというノリだ。主人公二人組も、妖怪たちも、ひたすらボケるのみである。

では、だれが突っ込むのか。それはアテレコ役の男女ふたりであり、アテレコ役男のほうは、ときおり与太郎を導く犬となる。ある意味では、このふたりこそがヴェルギリウス役なのだが、この二人にしたところで、いろいろなところで時事ネタのギャクをぶちこんでいたので、基本モードはシリアスではなくコメディーである。すべては笑いに包まれており、愉快さが演出されている。

 

古典的笑い、または非言語的な演技
演出家が紙芝居を意識していたというのは、非常に納得のいく説明だった。というの、舞台中央にしつらえられた正方形の板のうえでさまざまなシーンが演じられるのだが――アフタートークでは漫画的な「コマ」のことが言われていたが、あれは紙芝居の一枚一枚のことと考えてもいいし、活人画的なものと考えてもいいと思う――そこで俳優たちは基本的に話すことを禁じられているかのようだったのだ。もちろんひとこともしゃべらないというわけではない。妖怪たちは意外と自由に声をだしていたが、与太郎は自ら語ることはなく、エルメスは「うーうー、あーあー、むーむー」というようなうめき声しか使わない。そしてほとんどパントマイムのような演技をする俳優たちに、舞台左手にセットされた楽器ゾーンに座るアテレコ役たちが、セリフを重ねていった。宮城のトレードマークである二人一役(ムーバーとスピーカー)へのオマージュかと思ったのだが、紙芝居的表象といわれたほうが、しっくりくる。

この舞台の笑いは非言語的なものが主調になっていた。それはもしかすると、サイレント映画的な笑いといってもいいかもしれないし、普遍的な笑いといってもいいかもしれない。同じ行為が3度繰り返される、変装した子泣き爺は与太郎を騙し、走っている彼の背中にのしかかる。するとアテレコ男の演じる犬が爺の尻にかみつき、爺は退場する。同じシーンがさらに二度、つまり計三回繰り返される。爺は二度犬にかみつかれるが、三度目は犬の攻撃を予想していたかのようにそれを鮮やかにかわし、反撃に出る。この反復の強調は、現代でいえば(現代というには古いが)ダチョウ倶楽部のやる笑いである。見ている方はオチがわかっている、しかし、わかっていても笑えてしまうのだ。たしかベルクソンは『笑い』のなかで、笑いは対象者の動きがわたしたちの当然の予想に反して中断されるときに沸き起こるものだというようなことを述べていた気がするが、この期待とその中断(の期待)、予定調和的な、出来レース的な進行は、もうそれだけで無条件に笑わせてくれるものなのだ。 

 

あほらしさ
アフタートークのなかである俳優が、演出家のことを、「純真な目をした、常に全力の人」と称していたが、たしかにここには裏のようなものがない。というよりも、道化芝居を適当にやれば、それはまったく面白くないだろう。下手な道化芝居はただ下手なだけで、下手さ加減を笑うことはできるにしろ、それは一級の道化が作り出すような心地よい笑いではない。つまり、一流の道化はわたしたちを笑「わせる」ために自らを意図的に低くするわけであり、そこに道化の職人性があるわけだが、下手な道化はわたしたちに笑「われる」だけである。つまりこのとき、道化はただ見下されるだけなのだ。

だから問題は、馬鹿馬鹿しく「なる」ことではなく、馬鹿馬鹿しさを「演じる」ところにあったように思う。アフタートークによれば、台本(セリフ)が出来上がったのはかなり後になってからのことで、最初にはシーン(場面設定)しかなく、アドリブで稽古を続けるなかでシーンのまとまりが出来ていったと述べていたけれど、馬鹿っぽさを主軸に据えるという方針は最初からあったのだと思う。与太郎の死に方が「今年一番のあほな死に方」――夏のある日、口を開けて歩いていたらそこにミンミンゼミが飛び込んできて、それを飲み込んで死亡した(?)――と新聞で報道されているのは、この劇の滑稽なトーンを象徴する細部だ。

ただ、今回の劇を批判するなら、このあたりのあほらしさがどこまで表現になっていたか、やや疑問が残る。俳優たちの演技が大熱演であり、演出家の求める全力投球であったことにはまったく疑いがない。しかし、チャップリンの演技にしても、そして『リチャード三世』でのジャンの演技にしても、そこには優雅さと滑稽さが同居している。だからこそ彼らの滑稽さはペーソスを醸し出し、笑いと同時に精妙な哀しみも滲み出ていた。彼らの楽しみにはつねに哀しみの予感がまぎれこんでおり、だからこそ、彼らの笑いはただ笑ってすませるわけにいかない何かをわたしたちに残すのだけれど、今回の劇では、笑いの表現がそこまでの深みには達していなかったように思う。

二日目のせいでまだ表現が完全に刷り込まれていないせいかもしれない。B級のものをB級のテクで仕上げれば、どんなにうまくいってもB級のままである。B級のものをA級のテクや気遣いでやるからこそ、B級はA級のものを超える魅力を放つことができるのではないか。丁寧に調理されたモツが、ぞんざいに焼かれた最高級ヒレ肉をも凌駕する味になるように。それはある意味、A級のものをA級のテクでやるよりも困難なものである。もしかすると、B級のものからA級の感動を引き出すには、S級のテクが必要になるのかもしれない。

この比喩を『与太郎』に当てはめるなら、こうなるだろう。道化的でサーカス的なものはやはり最高級品ではなく、どこか卑俗なものである(B級)。俳優たちの演技は体当たり的であり、全力投球だった(A級)。しかしそこには、全力投球ゆえの力みや踏み外しがあった。それゆえ、最終的に出来上がったものは、A級にぎりぎり届くかどうかというものになっていたのではあるまいか。

また別の比喩。SPACの俳優はある意味でオーケストラ奏者のようなものなのかもしれない。そしてソロ奏者とオケ奏者は、やはり、別物である。ソロの人はオケのアンサンブルはうまくないし、オケの人はソロを弾いてもソロの人のような華はない。ここに技術的な問題があることはたしかだが、同時に、経験値の問題や気質の問題もあるだろう。そして今回の公演は、いわばその中間である室内楽だったと思うのだけれど、この微妙なさじ加減ーーソロではないがワン・オブ・ゼムでもないーーがまだうまくアジャストされきっていないという印象を受けた。ややソロ的な方向に傾きすぎているような気がした。我が強すぎるというわけではなく、いつもより強く出ている我がほかのいつもより強い我とうまく溶け合っていないとでも言おうか。まだ作りたてでスパイスがとんがっていて、味が馴染んでいないカレーのような感じとでも言おうか。

しかしもしかすると、観客の方にも責任があったのかもしれない。俳優と観客の距離が近いSPACの演劇空間においては、常連客であればあるほど、俳優たちの別の演技の仮面を知っているばかりか、俳優たちの素の顔すら知っている。だからこそ、舞台での滑稽味のある役が、素顔とのギャップとの相乗効果で、おおいに笑えてくるのだけれど、こうした笑いは、僻目のようなものである気もする。学芸会に出る我が子の演技に感動する親バカ、自分が推すアイドルならどんな役でも絶賛するファン心理のようなものとでも言おうか。もちろんそれはそれでいいことだと思う。俳優にたいして、演劇以外の思い入れがあることは、なにも悪いことではない。しかしそれ(だけ)でいいのだろうか。 

 

セミの鳴き声、郷愁
セミの鳴き声が舞台に響いている。劇が始まる前ですら、だ。舞台の上には四方にワイヤーが張られ、提灯が吊るされている。それは夏祭りの雰囲気でもあれば、盆の死者送りのイメージでもあるし、どことなくジブリ的でもある。というよりも、ここでの物語の枠組み――死後の世界、夢の世界、人ならざる存在、異者との楽しい交流――が、きわめてジブリ的なものと親和性がある、というべきだろうか。

だからこそ、物語の終わりが、現実への帰還ではないというのが、肩透かしできでもあれば、ちょっとした驚きでもあった。そしてこの象徴的な意味では地獄落ちと言えてしまうのかもしれない結末は、ダンテの『神曲』における最終的な上昇と救済の物語とは一線を画している。

すべては愉快な夢の世界であり、それが昭和的なスペクタクル――美空ひばり!――によって演出されていたけれど、ここには、それをかき乱すような闖入者もいたと思う。兵隊の亡霊だ。しかしそれもまた、水木しげる的なものでもあれば、ジブリ的なものでもあり、ある意味では、水木しげるの精神にもっとも接近した瞬間だったかもしれない。

舞台は本源的な郷愁を誘うように作られていたが、そのなかには、歴史的なものも紛れこんでいたし、おそらくそこを捉えそこなってしまえば、すべては夢の劇で終わってしまう、つまり夢から覚めた観客は夢の内容を覚えていないということに終わってしまうのではあるまいか。

とはいえ、それは大人の観客が考えることだろう。今日はあまり客が入っていなかったけれど、観客席に子どもが多いという喜ばしい状況でもあったことは特筆しておきたい。この劇はたぶん、大人が楽しめたかというより、子どもを楽しませることができたか、という観点から考えるものではないか。だから、子どものような裏表のない純真さなどもはや持ち合わせていないわたしは、この劇にたいする態度を保留したいと思う。